北一輝 きた・いっき

明治16年(1883年)4月3日〜昭和12年(1937年)8月19日


新潟県出身。
本名は輝次郎。
明治39年(1906年)独学で『国体論及び純正社会主義』を執筆・出版。
生産手段と生産関係からではなく、明治憲法を読み解くことによって国体論から社会主義を論じた。
辛亥しんがい革命に際しては、中国革命同盟会・黒竜会にあって宋教仁そうきょうじんを支援。
『支那革命党及革命之支那』(のち『支那革命外史』)を執筆。
中国の排日運動が激化すると日本国内の改革優先を痛感し、皇道派青年将校に多大な影響を与える『国家改造案原理大綱』(のち加筆され『日本改造法案大綱』)を執筆した。
大正9年(1920年)猶存社に参加。
宮中某重大事件など天皇をめぐる諸事件に関与。
満州事変後は陸軍内部の派閥抗争にも深入りし、昭和11年(1936年)の2・26事件では直接関与しなかったが、民間側の中心人物として死刑となった。


北一輝先生碑



北一輝先生碑
(東京都目黒区・目黒不動尊)





(平成20年9月15日)

北一輝先生

この碑は北一輝先生の顕彰碑で大川周明氏の文によるものです。
先生は明治16年、佐渡ヶ島に生れた憂国の士で、大正デモクラシーの時代中国に渡り、中国革命を援助し又日本改造論を叫び、国家主義の頭目として、特に陸軍の青年将校を刺戟し多くの信奉者を得た。
時適々満州事変前後より先生の思想はファシスト化し、遂に2・26事件を惹起する要因になった。
勿論直接行動には参加しなかったが、首謀者として昭和12年銃殺刑に処せられた。
然し先生の生涯をさゝえたものは奇くも法華経の信仰であったことは有名である。
毎年8月19日の祥月命日には今も尚全国の有志が追悼法要を厳修している。

当山

(説明板より)

目黒不動尊



目黒不動尊
(東京都目黒区下目黒3−20−26)





(平成20年9月15日)

目黒不動
下目黒3−20−26

天台宗で泰叡山たいえいざん竜泉寺りゅうせんじといい、大同3年(808)に慈覚大師じかくだいしが開創したといわれています。
徳川3代将軍家光いえみつが堂塔伽藍どうとうがらんを造営し、それ以来幕府の保護があつく、江戸近郊におけるもっとも有名な参拝行楽の場所となって、明治まで繁栄をきわめました。
境内は台地の突端とったんにあり、水が湧き老樹が茂り、独鈷どっこの滝や庭の池が美しく、庶民の信仰といこいの場所でした。
壮麗をきわめた古い建物は、戦災で大半が焼失しましたが、本堂、仁王門におうもん、書院、鐘楼しょうろうなどの再建が着々と進められ、「前不動堂まえふどうどう」(都指定文化財)、「勢至堂せいしどう」(区指定文化財)は、江戸時代の仏堂建築としての面影を残しています。
また、境内には「銅像役えんの行者ぎょうじゃ倚像いぞう」「銅像大日如来だいにちにょらい坐像ざぞう」(区指定文化財)があります。
裏山一帯は、縄文時代から弥生時代までの遺跡として知られ、墓地には青木昆陽あおきこんようの墓(国の史跡)があります。

昭和61年3月
東京都目黒区教育委員会

(説明板より)


【北一輝】

明治16年、佐渡の酒造屋の長男に生まれた北一輝は、父の事業の失敗に家産の傾きを17〜18歳の頃に見ている。
それでも父は両津町長代理などを務める土地の素封家であった。
北一輝の革命方式に一般民衆が不在といわれているのはそのためである。
北が16歳の時と18歳の時に東京に出たのは勉学のためではなく右眼の疾患の治療の目的であった。
21歳の時に東京で発行された「週刊平民新聞」を10部ほど買い入れて頒布したが、同時に短歌雑誌「明星」に心酔する文学青年でもあった。
彼の読書は、直観力が先に立ち、地道に勉学するという性質のものではなかった。

北は23歳の春に上京して早稲田の聴講生となり、9月、祖母の死によって一度帰郷し、再び上京して「国体論及び純正社会主義」を書き始める。
23歳の著書「国体論及び純正社会主義」が出版されると、福田徳三、矢野竜渓、田川大吉郎、河上肇などが北に手紙を寄越し、片山潜が雑誌「光」にこれを紹介して好意的な批評をした。
この著書で明治維新以来の日本を「民主革命国」とし、天皇を議会と共に国家の「最高機関」と規定した。
北一輝は、帝国主義を国際間の階級闘争として眺め、社会主義が世界各国に実現しても戦争は終らないとして、帝国主義を強く認めている。

北が「鄭重に」迎えられた「革命評論社」には宮崎滔天、萱野長知、清藤幸七郎、平山周、和田三郎、池亨吉などの「支那革命派」が拠っていた。
これらの人々は「大陸浪人」で、黒竜会の頭山満・内田良平系である。
彼らの中国革命を成就させることは、ゆくゆくは日本の国益と一致するという考えには、アジアからイギリスやドイツやロシアの勢力を掃蕩することがアジアの解放となり、日本を盟首とするアジアの共栄共存の実現になるという大川周明らのスローガンとも通じる。
ただ、北一輝と大川周明とは、その性格行動に相違があり、その相違が両者の袂を別つもとになった。

北は宮崎滔天らの革命評論社が援助する東京の「中国革命同盟会」に入り、ここで湖南派の黄與・宗教仁らと識る。
「排満興漢」を目的とする民族主義派の黄・宗らは、アメリカの援助によってアメリカ式の民主主義国家の建設を志す孫文とは微妙な間隙があった。
いきおい北も孫文に反感を持ったが、もともと北には初めから民族主義的性格があった。

(参考:松本清張 著 『北一輝論』 講談社 昭和51年2月第1刷発行)

(平成29年10月17日 追記)


【北一輝】

北一輝が青年将校たちに強い精神的影響を与えていたことはよく知られており、安藤大尉らとは事件中も電話連絡をとっていた。
その事件中に北は反乱軍の黒幕として憲兵隊に逮捕された。
中国革命を支援し、辛亥しんがい革命に参加したが、大正4年『支那革命外史』を執筆、翌5年再び中国に渡って8年まで滞在。
その間『日本改造法案大綱』を執筆、国家改造を対外発展の前提とし、天皇を号令者とするクーデター論など、社会主義的内容をも含む主張が、青年将校たちに影響を与えた。
昭和6年ごろには、北はすでに右翼の大物、青年将校運動の黒幕と目されていて、北から情報を得ようとする三井の池田成彬らが巨額の生活費を贈るようになっていた。

北は2・26事件の計画・実行には何ら加わっていなかった。
論告求刑の法廷で、「私は今度の事件を計画したり指導したりしたことは断じてありません。しかし私の書きました『日本改造法案大綱』の影響で青年将校らが起ちあがったということでありますが、それには重大な責任を感ぜずにはおられません。かれらはすでに処刑されてしまいました。こうなった上からは、私も決して生きながらえようとは思いません。どうかこの先の判決においても、刑を負けないでバッサリやっていただきたい」と言い放った(田々宮英太郎、『ニ・二六叛乱』)。
2・26事件は弁護人のつかない一審のみの軍事裁判であった。
昭和12年8月14日、北は軍法会議で死刑の判決を受け、同19日銃殺された。

(参考:渡邊行男 著 『中野正剛 自決の謎』 葦書房 1996年初版)

(平成29年1月31日 追記)


【北一輝と大川周明の対立】

北と大川の対立は、第一は大正12年、ソ連代表のヨッフェを後藤新平が招いたときである。
北は「大川、、満川(亀太郎)らがヨッフェに傾いていたのを無視して、私が単独で北一輝の署名で“ヨッフェに訓ゆる公開状”と題された小冊子3万部を全国に配布しました」と、二・ニ六事件調書に述べている。
田中惣五郎の著書は、これをもって両者分離の直接原因となったし、大川がのちに、「神武会」の綱領にドイツの左、ソ連の右を改革目標とすると宣言したのも、この北との対立思想に影響されていると指摘している。

北の『日本改造法案大綱』の中には、あきらかに、「列強帝国主義の中国に対する経済的支配を打倒するために、英露を追って日米これに代えること」を目標としているのをみても、ソ連のヨッフェを排撃したことはよくわかる。

第二は、「安田共済生命保険事件」である。
そのころ、大川周明は「猶存社」と別に「行地社」を創立していた。
大正14年、「行地社」の一員である千倉某が同会社をクビになったとき、北は安田生命側を支持し、大川派との対立となった。
実際は、かつて安田財閥の総帥・安田善次郎を朝日平吾が大磯の別荘で刺殺し、自分もその場で自決した血なまぐさい事件があったが、その朝日が北一輝にあてた遺書を、「行地社」の清水行之助が北から借りて、その遺書を利用して安田財閥の支配人・結城豊太郎(のち日銀総裁)から多額の金を受け取ったのを、大川周明ら数名が適当に分けてしまった。
北はそれを聞いて激怒し、「こんな奴らに国家改造の資格はない」といい、5年間続いた北、大川共同の「猶存社」を解散してしまった。

第三は、「北海道宮内省御料林払い下げ事件」で、北は当時、宮内大臣・牧野伸顕を追及する文章を執筆したが、大川周明と安岡正篤は牧野を支持した。
この事件で、北一輝と西田税は恐喝罪で実刑を受けている。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷

令和元年10月8日 追記)


【2・26事件後】

(東京陸軍刑務所長・塚本譲吉の談)

北輝次郎に判決に対する所感を聞いてみた。
「判決は有罪であろうが無罪であろうが、そんなことは考えていません。ただ私の著書日本改造法案大綱を愛読信奉したのが遠因で、青年将校らが蹶起したとしたら、私は責任上当然彼らに殉ずる覚悟でいました。私に対する判決などどうでもよいのです。死は二つありません。」
この覚悟のほどは、全く見上げたものである。
この度胸と覚悟があってこそ、死の直前の挙措、動止がうなずける。

実弟北玲吉氏が「兄は泰然というより淡然として刑死したことは、当時の目撃者の語るところである」と書いている。
現に執行した私は、淡然というよりももっと安易な心境で刑に服したことを知る。
平然か澄然か、何と言ったらよいか表現に苦しむほどの気楽な態度であった。

北の銃殺の時、銃声と殆ど同時に「惜しい人を殺した」と全場一語も洩れない緊張した黙々の間に、この一語が入場許可者の中から、嘆声交じりに漏れたのが聞こえた。
私は振り返って見たが、それが誰であったか分からなかった。
が、この独語者のみならず、在場した多くの者は、この独語に同感を持ったことであろう。

【刑架前の発言】

(判決言い渡しの際の北一輝の発言)
「大変お世話になりました。感謝の外はありません。所長殿より皆様によろしく申して下さい。地方などと比較し、全く貴族的のお取り扱いを受けたことは忘れることはできません」

(刑架前に着座した時の北一輝の発言)
「座るのですか、これは結構ですね。耶蘇や佐倉宗吾のように立ってやるのはいけませんね」

(参考・引用:猪瀬直樹 監修 『目撃者が語る昭和史 第4巻 2・26事件』 新人物往来社 1989年第一刷発行)

(平成24年10月7日追記)


鈴子夫人と養子・大輝

北一輝が処刑された北家のあとは鈴子夫人が残り、実子なく支那辛亥革命の同志・譚人鳳の孫を大輝と名付けて養子としていた。
大輝は北家にあって日本人として成長し、大東亜戦争が始まったあと上海に渡り、日中和平のため活躍していたが、病を得て日本の敗戦の月、8月19日に上海で死んだ。
奇しくも北一輝刑死と同じ日だった。

戦後不遇のわびしい生活を送っていた鈴子夫人には、昭和25年暮れに来日した当時の中華民国副総裁であり、一輝のかつての盟友・張群より暖かい手がのばされ、大輝の遺骨も張群の手に抱かれて祖国に帰った。
一人きりになった鈴子夫人も昭和28年3月、多くの門弟たちに囲まれて逝った。

(参考:河野司 著 『ニ・二六事件秘話』 河出書房新社 1983年2月初版発行)

(令和2年3月9日 追記)




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