清河八郎 きよかわ・はちろう

文政13年10月10日(1830年11月24日)〜文久3年4月13日(1863年5月30日)


出羽国田川郡清川村(現・山形県立川町)の郷士(酒造家)斎藤治兵衛の子。
名は正明。
18歳で江戸に出て文武を修める一方、近畿・九州・蝦夷地などを旅して見聞を広めた。
桜田門外の変後、各地の志士と交わる。
文久2年(1862)に島津久光の上洛を機に挙兵を画策するが寺田屋騒動で失敗。
翌年の春、幕府の浪士隊に入り上洛するが、尊攘派と結んだため江戸に戻され、幕府の刺客・佐々木只三郎らに暗殺された。34歳。


清河八郎墓



清河八郎墓
(中央)
(東京都文京区小石川・伝通院)





(平成18年3月11日)

清河八郎墓

天保元年〜文久3年(1830〜1863)、幕末勤皇の志士。
羽前(山形県)清川村斎藤治兵衛の長男。
嘉永4年(1851)江戸に出て千葉周作に剣を、安積艮斎あさかごんさいに儒学を学び、その後、昌平坂学問所に入り文武を学ぶ。
はじめ眞木保臣まきやすおみ平野国臣ひらのくにおみらの尊皇攘夷そんのうじょうい運動に参画したが、寺田屋事件に失望して、文久3年幕府の浪士隊(のちの新撰組)結成に参加したが、近藤勇土方歳三ら佐幕派と対立し、江戸に戻され、その後暗殺された。(隣は貞女阿連おれんの墓)

文京区教育委員会
平成3年3月

(説明板より)

伝通院



浄土宗 無量山伝通院むりょうざんでんつういん
(東京都文京区小石川3−14−6)





(平成18年3月11日)

傅通院のあゆみ

当山は今から約600年程前の応永22年(1415)浄土宗第七祖誉聖冏上人が開山したお寺。
当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創された。
それから二百年後慶長7年(1602)8月29日、家康公の生母お大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。
お大の方の法名「傅通院殿」から「傅通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。
また、当山は関東十八檀林の一つとして学僧の修業勉学の場となり僧侶養成の重責を担っていた。
更に明治以後には淑徳女学校を設立。
広く社会に向けて女子教育にも力を注いでいる。
しかし、このような歴史の中にも、享保6年(1721)・同10年(1725)・明治43年(1910)の三度の大火にあい、更には第二次世界大戦では境内建物、宝物等全て灰燼に帰してしまった。
戦後は復興にはげみ、昭和63年(1988)新世紀の宗教活動に対応できる新本堂を建立。
平成9年(1997)繊月会館を建立。
平成11年(1999)には観音堂(休憩所)を建立し現在に至っている。

(説明板より)


浪士隊



 トップページに戻る   人物と史跡のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送