平成24年4月19日

児玉源太郎 こだま・げんたろう

嘉永5年閏2月25日(1852年4月14日)~明治39年(1906年)7月23日

山口県周南市・児玉公園でお会いしました。


明治期の陸軍軍人。
兵学寮卒。
神風連の乱・西南戦争でその才能を知られる。
明治25年(1892年)、陸軍次官兼陸軍省軍務局長となり、日清戦争では事実上の陸相として活躍。
明治31年(1898年)に台湾総督となり後藤新平を登用。
さらに陸相・内相・文相を兼任。
明治36年(1903年)、参謀本部次長、日露戦争においては満州軍総参謀長に就任。
戦後、参謀総長・南満州鉄道創立委員長になった。






児玉源太郎像

(山口県周南市桜馬場1丁目・児玉公園)




(平成24年4月19日)



ふるさと周南・徳山をこよなく愛した偉人・児玉源太郎、その功績を称え末永く顕彰するため、生誕160年を迎える節目の年に、ゆかりの地・児玉公園に児玉源太郎像として甦りました。

この児玉源太郎像の原型は、山形県出身の彫刻家・新海竹太郎(1868~1927。代表作「ゆあみ」「大山公騎馬像」など)によるもので、現在は国立台湾博物館に展示されています。
このたび、この銅像のレプリカを、国立台湾博物館協力のもと、台湾の彫刻家・林昭慶(古采芸創環境有限公司)に依頼して制作いたしました。

児玉源太郎(1852~1906)は、周防国都濃郡徳山村(現周南市)に、父・徳山藩士児玉半九郎、母モトの長男として生まれ、台湾総督・陸軍大臣・内務大臣・文部大臣など明治政府の要職を歴任し、近代日本の発展に尽力しました。

台湾総督としては、土地改革、鉄道開通、衛生環境の改善、阿片中毒や風土病の撲滅、学校教育の普及、産業の育成などを進め、台湾の近代化を促しました。
今日でも重要な産業である製糖事業の発展は、児玉源太郎の存在なしには語れません。

また、日露戦争にあっては満州軍総参謀長として活躍し、日本を勝利に導いた功績が高く評価されております。

さらに児玉文庫の開設など、常にふるさとを忘れず、後進・後輩を指導し、人情味あふれる豊かな心をもった児玉源太郎は、いつまでもその存在を語り続けたい誇りある郷土の英雄です。

徳山に生まれ、幕末から明治という時代を駆け抜け日本の窮地を救った児玉源太郎。
その優しいまなざしで、ふるさと周南・徳山と私たちの未来を温かく見守っています。

平成23年7月

(銘板より)

児玉神社 頌徳碑
(山口県周南市児玉町1-4・児玉公園に隣接) 

児玉神社

1922年(大正11)12月15日、当時の徳山町の前田蕃穂外52名の有志が「県社児玉神社創立許可願」を内務大臣に提出した。
その願書には「・・・日清戦争に功あり。明治31年には台湾総督となり、政治を刷新して教化を進めて交通産業の発展に寄与した。その間陸軍大臣を、さらに内務・文部両大臣を兼務し、日露戦争においては満州軍総参謀長として、国家に尽くした忠節は多大で、等しく満天下の認めるところである。この地に児玉神社を建設し、国家守護の神として、その遺徳を後世に伝え、人心の感化に資し、もって国民道徳の標的にしたい。・・・」と記されている。
翌12年8月14日に許可され、「児玉将軍屋敷跡」に流造の本殿と拝殿が創建され、昭和8年5月16日に県社に列せられた。
拝殿の「児玉神社」の掲額は、児玉源太郎の長男秀雄の揮毫で、毎年3月10日に例祭が行われている。

児玉源太郎頌徳碑

児玉源太郎は、第4代の台湾総督を勤めたが、その下で民政局長として辣腕をふるったのが後藤新平である。
この碑には、児玉総督を大変慕っていた後藤新平の揮毫で「徳足以懐遠」と記されている。
礎石からの高さは凡そ4米あり、自然石で威風堂々としていて、周囲には玉垣を巡らしている。
この碑は、大正7年7月に源太郎の13回忌に地元の奉賛会によって、総督ゆかりの屋敷跡に建立されたものである。

平成17年3月
周南市教育委員会
寄贈 周南西ロータリークラブ

(説明板より)





児玉神社

(山口県周南市児玉町1-4)




(平成24年4月19日)

児玉神社

児玉神社は、大正12年に地元有志の発起により、日露戦争で満州軍総参謀長を務めた元陸軍大将児玉源太郎(1852~1906)を祭神として創建されました。
社殿は、神奈川県江ノ島に建設されていた神殿と附属建物を移し、旧邸址である現在地に建立したものである。
境内には「徳山七士碑」、後藤新平の筆による「徳足以懐遠」、児玉源太郎薨去の際の「御沙汰書」、後藤新平の「児玉神社参拝記念碑」、「日本帝国褒賞之記」、句碑「山縣元帥の児玉大将の死を惜しまれたる歌」など児玉源太郎ゆかりの記念碑が多数建立されています。

(説明板より)


児玉家屋敷跡
(山口県周南市岐山通3-7)

児玉家屋敷跡・児玉大将産湯之井戸

日露戦争で、満州軍総参謀長を務めた陸軍大将、児玉源太郎(1852~1906)は、嘉永5(1852)年2月25日にこの地にあった児玉家の屋敷で生まれました。
当時使用していた井戸が保存されており、「児玉大将産湯之井戸」の標石があります。
児玉家は源太郎の父半九郎の死後、安政5(1858)年に浅見栄三郎の次男、厳之丞(のちに次郎彦)を源太郎の姉久子に迎えて家を継がせました。
次郎彦は藩の大目付等を務めましたが、『正義派』の一人として活動したため、元治元(1864)年8月12日早暁、『俗論派』によってこのこの屋敷の玄関で非業の最期を遂げました。
次郎彦の死後間もなく、児玉家は藩の命令で家名断絶、屋敷は没収されましたが、『正義派』が政権をとるや、慶應元(1865)年7月13日、源太郎が家名を相続し、現在児玉神社がある場所に新しい屋敷が与えられました。
この屋敷跡は明治になって源太郎が買い戻し、当時の屋敷の一部を残して、大部分は近代的な児玉文庫としましたが、昭和20(1945)年、太平洋戦争中の徳山空襲で焼失しました。

周南市教育委員会

(説明板より)





児玉大将産湯之井戸
(山口県周南市・児玉家屋敷跡)




(平成24年4月19日)




児玉文庫開設百周年記念碑
(山口県周南市・児玉家屋敷跡)




(平成24年4月19日)

児玉文庫開設百周年記念

児玉源太郎は 1852年(嘉永5) ここ旧児玉家屋敷に生まれ 産湯を使った井戸は150年の風雪に耐えて 今も保存されています。
その後 幕末・維新の動乱期まで郷里徳山で過ごし 徳山藩の献功隊の一員として 東北地方から北海道まで遠征しました。
ついで 佐賀の乱・西南戦争 日清戦争でも活躍し 特に日露戦争では満州軍総参謀長として 多大の戦功をあげました。
一方 陸軍大臣としてだけでなく 内務大臣・文部大臣・台湾総督などを歴任し 政治家としてまた文化人として多大の功績を残しています。
中でも1903年(明治36) ふるさと徳山のこの地に 後進を啓発するために開設した児玉文庫は 正に驚くべき快挙です。
児玉家を改装して開設した文庫は 誠に残念なことに 先の大戦ですっかり焼失してしまい 僅かに「児玉文庫」の門標に その面影をしのぶことができます。
児玉源太郎の文庫に寄せられた愛郷心は 実に称賛されるべきもので その心は 広く市民に伝えていかなければなりません。
ここに 文庫開設百周年にあたり 記念碑を建立し その業績を称えるものです。

平成15年11月3日
児玉源太郎顕彰実行委員会



(説明銘板より)


【父・半九郎】

尊王攘夷論者であった児玉の父・半九郎は、佐幕派の重役に主張を斥しりぞけられ、座敷牢に閉じ込められて憤死した。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)


【中佐時代のあだ名】

「木鼠きねずみ
千葉県佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊長時代(中佐)に兵達から付けられた綽名あだな
木鼠とはリスの事で、児玉は1メートル55センチもない小男で、チョコチョコ走り回るので、そうつけられたのであろう。

「大声」
児玉はまことに小男だが、声はカミナリのように大きく、はっきりしていて、号令をかければ、連隊が手足のように動く。
「木鼠」のほかに、「大声」という綽名が、もう一つついた。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)


【少将時代の大厄】

少将になったばかりの児玉に大厄が降りかかってきた。
他人に印鑑を任せっぱなしにしたために、数人の高利貸から、合計1万数千円の取り立てを迫られたのである。
児玉ほど頭がよく、周東緻密な男は滅多にいないが、それが私財のことになると、ザルとしか言えないほど抜けていて、大へまをやらかしてしまう。

児玉が債権者に包囲されて困っていると、人から聞いた桂太郎陸軍次官が当人に尋ねると、「債権者の話からすると、負債は2万円近くなりましょう。責任は私にあるから回避しようとは思いません。しかし、返済する能力がないので、身代限り(破産)の訴訟をやられれば、陸軍を辞める以外にない、と覚悟しています」と答えた。
2万円は現在では1億円以上に相当するであろう。
桂も、どうしようもない。
それを伝え聞いた元長州宗藩の藩主・毛利敬親の世子・毛利元徳が、ポンと言った。
「児玉少将は国に尽力している。いささか慰労したい」
児玉は、毛利本家の殿様に救われ、陸軍軍人のまま国に奉公を続けることになった。
児玉の人徳もあろうが、殿様も偉かったようである。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)


台湾総督

明治31年(1898年)2月26日、児玉第3師団長は師団長になってまだ1ヶ月少しというのに、にわかに第4代の台湾総督に任命された。
第3代の台湾総督・乃木希典中将が、台湾は百鬼夜行で、特に内地から来たロクデナシの文武官僚が跋扈ばっこして手が付けられない、というような理由で辞めてしまった。
「台湾を納められる男は児玉しかいない」と、現陸相の桂太郎が首相の伊藤博文に言い、乃木の後釜に児玉がひっぱり出されたのである。

台湾総督府の陸軍参謀長は立見尚文たつみなおぶみ少将だったが、台北旅団、台中旅団、台南旅団の軍事行動を指導していて、民政局長の後藤新平と意見が合わないことがしばしばあった。
児玉は台湾統治は民政でやるという方針を明示して、軍が民政局に従うことを命じた。
台湾統治は軍事作戦ではないので当然なのだが、これまで曖昧にされていたのである。

続いて、中央、地方の大行政改革をやり、驚くべきことに勅任官以下1080人の官吏のクビ切りを断行した。
乃木が口にして出来なかった「官匪狩り」である。
しかし、あまりのことに、内地でも、児玉、後藤への非難が猛烈に巻き起こった。
児玉は、それらの抗議、非難を片っ端からはねつけた。
児玉の発言を伝え聞いた山県有朋は、「児玉はまれな善謀、活断の男だが、慎重を欠き、軽忽けいこつにものを言う傾向があるのが欠点だ。癇癖かんぺきも強すぎる」と身近な者に言った。
山県は大ぴらにやって騒ぎを起こすのを好まず、闇から闇に始末するのが好きなので、このような言葉が出たのであろう。

台湾には土匪が多い。
いわゆる山賊である。
児玉は、帰順する者は、罪を問わず仕事を与えるが、帰順しない者は討伐するという方針で平定にかかった。
帰順してきた土匪たちには、道路開さく工事をやらせた。
招降策と討伐によって、台湾土匪が絶滅したのは、明治35年(1902年)5月である。

「土匪を根絶し、悪疫を除き、産業を興し、民福を図る」という目標を目指して邁進した児玉、後藤の苦心惨憺の台湾経営は、8年間で遂にめでたく実ったのである。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)






旧台湾総督府博物館(旧児玉総督・後藤民政長官記念館)

(現:国立台湾博物館)




(平成24年3月10日)
児玉源太郎 総督像 後藤新平 民政長官像




児玉源太郎、後藤新平銅像
(解説パネルより)




(平成24年3月10日)

児玉源太郎、後藤新平銅像と「児玉総督及び後藤民政長官記念館」

現在の国立台湾博物館は、日本統治時代「児玉総督及び後藤民政長官記念博物館」と呼ばれてきました。
これは日本統治時代第四任の総督の児玉源太郎と当時の民政長官の後藤新平を記念するためとして建てられたものです。
当時の新公園(新公園は1995年から二二八平和公園と改名します)の中にあったこの記念館は1913年4月に着工し、1915年3月に竣工しました。
クラッシック風に出来上がったこの建築は左右対称な長方形であり、中央は高いドームで出来ており、正面は倣ギリシャドリス式の列柱からとなっています。
1915年4月、日本の彫刻家新海竹太郎が制作した児玉と後藤の立像が一階ロビー両■のアルコープに置かれました。
その時児玉像はロビーの東■、後藤像は西■のアルコープにありました。
第二次世界大戦後、中華民国国民政府はこの博物館を接収し、「台湾省立博物館」と改名しました。
この二体の銅像は元の位置から移動され、収蔵品となりました。
2008年はちょうど当博物館の成立百年記念であり、記念として当時の記念館の定礎板とこの二体の銅像を改めて展示します。

国立台湾博物館

「彩票局ビル」から「児玉総督及び後藤民政長官記念館」

1908年縦貫線鉄道開通の記念のため、台湾総督府は「台湾総督府民政部殖産局付属博物館」(略称「台湾総督府博物館」)を成立しました。
当時の博物館の位置は台北書院街の上の「彩票局ビル」にありました(その旧址は今の台湾総統府の後ろの博愛ビルにありました)。
1915年台北新公園内の「児玉総督及び後藤民政長官記念館」が竣工、総督府博物館はこの新館に移りました。
そして1915年8月20日に改めて開館しました。
その後、この場所で今まで存在してきたのです。

博物館のために「殉職」した初代館長

台湾総督府博物館の初代館長の川上瀧弥は台湾の植物の調査と研究に尽くしました。
1908年から川上瀧弥は博物館の館長となり、1915年死すまで職についていました。
聞くことには彼は博物館が新館に引っ越す期間、博物館内にベッドを置き寝ていたということです。
1915年8月20日、総督府博物館が改めて開館した翌日、川上瀧弥は病で亡くなりました。
享年44歳でした。
彼はのち後台北植物園内の建功神社に追嗣されました。
その原因は「殉職」でした。

(展示パネルより)


満州軍総参謀長

【カウンター・インテリジェンス】

日露戦争時、満州軍総参謀長の児玉源太郎は、ロシア軍部隊の動向についての情報を分析し、大本営・各軍へ報告する活動をするとともに、カウンター・インテリジェンスに関しても相当な注意を払っており、1905年4月には鹵獲ろかくしたロシア軍文書から、日本の動向が非常に詳細であることを知り、味方の情報漏洩に対する対策を具体的に示した布告を発布しています。

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行)

(令和元年11月8日 追記)


【児玉源太郎の死】

明治39年(1906年)4月11日、児玉は台湾総督と参謀本部次長事務取扱を免ぜられ、大山巌の後を継いで参謀総長に親補された。
同時に、台湾経営の功によって子爵となった。
児玉は陸軍の大勢である軍拡案に対しては反対で、「わしにはこれが、国力にふさわしいとはどうしても納得できん」と言い、何度も却下した。
台湾経営のはじめに、軍政より民政を優先させ、経営を成功に導いたが、国家経営の場合も民政を優先させるべきだという考えである。
6月8日、勅令により、南満州鉄道株式会社の設立が公布され、西園寺公望に推された児玉は、設立委員長に任命された。
7月5日、日本陸軍の恩師メッケルがベルリン郊外で死去した。
陸軍大学校における追悼式で、児玉のメッケルへの感謝の念を込めた弔辞が代読された。

7月21日の朝、牛込薬王寺の自宅で、児玉は「気持ちが悪い」と言い、主治医に来てもらった。
体温37度6分で、食欲は普通であり、原因は不明であった。
22日の朝は気分がよかった。
午後、後藤新平が訪ねてきたので「是非、満鉄総裁を引き受けてくれ」と言ったが、3時間半の対談で、後藤はついに断り通した。
その夜、児玉は、婚約がととのった長女ヨシや家族と元気に話し合い、9時過ぎに寝室へ入った。
翌23日の早朝、主治医が来たので、女中が起こしに行ったが、返事がなく、様子がおかしい。
妻のマツと主治医が駆け付けたが、死んでいた。
眠ったまま、苦痛もなく、死んだらしい。
脳溢血であった。
行年は満で54歳である。

夕刻、日露戦争の功に対して、金鵄きんし勲章功一級、年金1500円、桐花大綬章を4月1日付で授けられるということと、特旨をもって従二位に叙すという明治天皇の沙汰さたがあった。
ほかに天皇は、特旨賜金として金5万円を遺族に与えた。
7月28日、東京青山式場で、葬儀が行われた。
葬儀掛総裁は陸軍大臣・寺内正毅、葬儀委員長は乃木希典である。
会葬者は皇族以下約1万人であった。

(参考:生出寿 著 『謀将 児玉源太郎』 徳間文庫 1992年12月 初版)

(令和元年7月23日 追記)




 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] !uO z[y[WJ Cu