小出浩平 こいで・こうへい

明治30年(1897年)8月14日〜昭和61年(1986年)3月17日








小出浩平先生顕彰歌碑
(東京都文京区・吉祥寺)





(平成23年1月22日)

 レリーフ

小出浩平先生畧歴

一、明治30年8月14日新潟県南魚沼郡塩沢町仙石に生れ舞子小学校、高田師範学校を経て大正14年東京音楽学校卒業。
一、南西海小学校・香川師範学校・東京赤坂小学校・同城東小学校歴任・昭和12年学習院教授に就任。皇太子殿下・義宮殿下の音楽御教育係拝命・昭和39年三室戸学院理事・東邦音楽大学副学長の要職につき日本教育音楽協会を始め多数の会の会長として活躍。
一、この間に日本で最初の学年別基礎指導・レコードによる鑑賞指導・器学指導・創作指導を音楽教育に取入れ我が国音楽教育を一変させた。また唱歌新教授法・合唱曲集・教育音楽等の多数の著書や雑誌の編集・こいのぼり、おしし等の愛唱歌・九百余の校歌の作曲・NHK・TBS・その他多数のコンクールの創始・審査・更に放送等により日本の音楽教育を今日あらしめた功績は絶大である。
よって茲に歌碑を建立し顕彰する次第である。

昭和54年11月18日
小出浩平先生顕彰碑建立実行委員会
兮成青巒書

(碑文より)






吉祥寺
(東京都文京区本駒込3−19−17)





(平成23年1月22日)

曹洞宗 諏訪山 吉祥寺  本駒込3−19−17

長禄2年(1458)太田道灌江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇いちうを設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。
天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。
現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。
明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。
僧侶の養成機関として栴檀林せんだんりん(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府の昌平坂学問所と並び称された。

古い堂塔
山門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。
経蔵 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財。

墓所
二宮尊徳 (江戸末期の農政家)           (墓地内左手)
鳥居燿蔵 (江戸南町奉行)              (墓地内左手)
榎本武揚 (江戸末期の幕臣、明治時代の政治家)(墓地内右手)
川上眉山 (小説家)                   (墓地内右手)

文京区教育委員会  平成6年3月

(説明板より)




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