(別称:勝山城・勝野城・指月城)
北九州市小倉北区城内2−1
平成23年9月15日再訪問
【小倉城】
文永年間(1264年〜74年)、緒方大膳亮帷重が居城したとするのが初見。
延慶年間(1308年〜10年)、その子の石見守惟尚は水原備中守定充に滅ぼされた。
天徳2年(1330年)、黒崎土佐守景経が居城。
景経は長野貞家に攻められ、子の景之も戦死し、長野貞家が城主となった。
貞家の子・教家は大内氏に滅ぼされ、小倉城は大内氏の持城として城代が置かれた。
嘉吉2年(1442年)、太宰少貳頼冬が攻略。
文明年間(1469年〜86年)に菊池氏が居城したが、延徳2年(1490年)臼杵掃部助高直が菊池氏を滅ぼして入城。
その後も城主交替は著しい。
天正14年(1587年)、九州平定の軍を進めた豊臣秀吉は、毛利勝信に田川8万石を与えて小倉城に居城させた。
関ヶ原の役では勝信は西軍に味方し、中津城主・黒田孝高の攻撃を受けた。
勝信は降伏して子の勝永と共に京都に走った。
丹後宮津城主・細川忠興は関ヶ原の功により豊前一国と豊後二郡39万9千石に封じられ、中津城に入った。
中津城は本州と九州を結ぶ要所としては地の利が悪く、小倉城を大修築する。
慶長7年(1602年)着工、5年を費やして同12年(1607年)に完成した。
城は小倉平野を流れる紫川河口西岸の台地上に本丸があり、厳密には低い平山城となる。
その周囲に松の丸、二の丸以下を配し、2〜4重の堀を巡らし、紫川と板櫃川を外堀とした。
本丸、北の丸、松の丸などの主要部と海岸一帯は総て石垣を巡らし、外郭部は櫓台、城門脇などの要点のみに石垣を利用、他は土塁が用いられたが、塁線に多数の“折ひずみ”を施して側面を固めた。
そのため郭の形は不整形となり、配置も不規則で、非常に複雑な縄張りを呈した。
四層六階の天守は破風のない、俗に唐風造りとか、南蛮造りと称するもので、遠くローマ法王庁にまで知られていた。
この天守を「五層」とするのは、最上層が屋根に“ひさし”を付けずに、上下二段に分かれていることによる。
この頃、津山城主・森忠政が津山城天守を築くにあたり、密かに小倉城の見取り図を家臣、大工に作らせていた。
これが発覚したが、忠興は罪をとがめるどころか、天守の図面を与えるなどの便宜を図っている。
寛永9年(1632年)、細川氏は熊本城に移封。
明石から九州探題として小笠原忠真が15万石で入城し、10代続いて幕末となった。
この間、天保8年(1839年)天守が失火のため炎上している。
慶応2年(1865年)、第二次長州戦争に小倉藩も参戦して長州藩と戦ったが、応援の諸藩兵が急に帰国したため藩内は大混乱となった。
執政家老・小宮民部は吏僚的な人物で、軍事方面には無能に近かった。
このため小倉藩は単独で戦うことに絶望し、小倉城を自ら焼き、香春の支藩に藩庁を移したため、城や城下町は一朝にして荒廃した。
(参考:大類伸 著 『日本城郭事典』 秋田書店 昭和58年7月 第8版発行)
(平成29年6月13日 追記)
平成23年9月15日再訪問 |
昭和34年に鉄筋コンクリートで復興されました。(平成12年5月3日) |
平成12年5月3日訪問時 | 平成23年9月15日再訪問時 |
大手門跡 城の玄関口となる門。 立派な巨石を多用した正門にふさわしい門である。 (説明板より) (平成23年9月15日) |
槻けやき門跡 藩主、公儀役人の他、家老や主な寺の住職のみが通行を許された門。 (説明板より) (平成23年9月15日) |
井戸跡 (平成23年9月15日) |
歩兵第12旅団司令部跡 小倉連隊区司令部跡 (松の丸跡) (平成23年9月15日) |
「あゝ白洲燈台」 白洲燈台創建者 岩松助左衛門翁顕彰碑 (平成23年9月15日) |
碑文
関門海峡の西口、響難に浮かぶ白洲は、古来より海難事故が絶えず、多くの人命が奪われた西国第一の難所であった。
企救郡長浜浦の人 岩松助左衛門翁(1804〜72)は18歳で庄屋を継ぎ以来41年間これを務めた。
その功績から59歳にして小倉藩より海上の御用掛「難破船支配役」を命じられた翁は、海難防止のため自力でこの難所に燈籠台(燈台)建設を志した。
幕末動乱の世情の中、私財を投げ出し、その上莫大な借金を背負い千辛萬苦の日々であったが、「不立腹」を胸に、燈台建設への執念は消えることなく、苦節8年、明治3年基礎工事を完成させた。
その後事業は明治新政府に引き継がれ、明治6年9月西洋式燈台として完成。
しかし翁は前年の明治5年4月25日不帰の人となり、自らの情熱を傾けた燈台の点灯を見ることはなかったのである。
「世のため 人のため」の信念を貫き通した翁の人道的精神は、海原遥か照らす白洲燈台の一条の灯りとともに、我々に遺された貴重な財産として永久に消えることはない。
岩松助左衛門 長浜郷土会
西ノ口門跡 小倉城の裏門にあたり、二の丸から本丸と松の丸へ入る門。 (説明板より) (平成23年9月15日) |
鉄門くろがねもん 中老以下一般武士が通行した。 現在の左半分が往時のもの。 (説明板より) (平成23年9月15日) |
平成12年5月3日訪問時 | 平成23年9月15日再訪問時 |
旧第12師団司令部の正門 (本丸跡) (平成23年9月15日) |
旧第12師団司令部の正門・鉄門くろがねもん跡
旧第十二師団司令部の正門
明治8年(1875)に、歩兵第十四連隊が小倉に設置されました。
同18年(1885)、小倉城松の丸跡に、既設の第十四連隊と福岡の歩兵第二十四連隊を管轄する歩兵第十二旅団本部が開設されました。
ついで、日清戦争後の軍備拡張のため、同31年(1898)小倉、大分、久留米、佐賀の各連隊や下関要塞砲兵連隊をもって第十二師団が生まれ、その司令部庁舎が本丸跡に建てられました。
この煉瓦造の正門は当時のもので、明治32年(1899)6月から第十二師団の軍医部長を務めた森鴎外もこの門を通って登庁しました。
なお、司令部は軍縮により、大正14年(1925)、久留米に移転することになりました。
鉄門跡
藩主及び家老など、ごく限られたものは槻門けやきもんをとおり、鉄門くろがねもんはそれ以外の武士などの登城口でした。
現在、一部復元していますが、中央部目地めじの左側が幕末時の石垣と階段であり、落城時の様相を示すように石垣が火熱ひねつを受けて赤く変化しています。
(当時の階段の幅は約2.1メートルでしたが、防犯上の関係を考慮して幅を2倍に広げています。)
ここからは、鉄製鎧片よろいへん、中国製磁器じき、三階菱文様丸瓦さんがいびしもんようまるがわらなどが出土しています。
北九州市教育委員会
(説明板より)
平成12年5月3日訪問時 | 平成23年9月15日再訪問時 |
小倉城の説明板より
細川忠興は、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する三十万石(検地高三十九万九千石)の大名として入国、中津城に在城した。
居城を小倉に移すため慶長7年これまでの小倉の城を廃して新しく築城をはじめ、その年の11月、小倉城へ移った。
城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸で、これを囲むようにして二ノ丸、三ノ丸を配した。
天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四重五層)である。
これは、五重目の内部が上下二段に分かれているためで、五重目の下段までは、白壁が塗りこまれ、上段は黒塗りで張り出しになっている。
また天守閣の屋根には、破風[はふ]がなく、当時この天守閣は、唐作りからづくりと称されていた。
城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、この川をはさんで東西に曲輪くるわを設け、城下町をつくった。
城郭の総構えは、約8キロメートルにもおよび、これを濠で囲み、街道に通じる八ヶ所の門を設けた。
寛永9年(1632年)細川氏は、肥後国移り、替わって播磨国明石城主であった譜代大名の小笠原忠真ただざねが小倉城に入り、十五万石を領した。
第二次長州征討戦の慶応2年(1866年)8月1日、小倉藩は、田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、城内の建物は、ことごとく灰じんに帰した。
なお、天守閣は、天保8年(1837年)の火災で焼失、以降再建はされなかった。
現在の天守閣は、昭和34年鉄筋コンクリートで、再建されたものである。
(北九州市教育委員会)
(説明板より)
忠興が築いた天守閣は南蛮造り(唐作り)と呼ばれ、この工事には外人宣教師の持つ土木技術を導入し、ローマ法王庁にもその存在を知られていたといいます。
城の石垣は主として足立山の自然石で、切り石を使わない野面のづら積みです。
明治10年の西南戦争には小倉城内に駐屯していた歩兵第14連隊が、乃木将軍に率いられ出征しました。
その後、歩兵第12旅団、第12師団司令部が城内に置かれました。
城内には第12師団司令部の正門が残っています。
また、城内には4年式15センチ榴弾砲が展示されています。
太平洋戦争後は米軍に接収されましたが、1957年に解除されました。
四年式十五珊榴弾砲 砲身車 (平成23年9月15日) |
復元記念碑
四年式十五珊榴弾砲 砲身車(大正13年製)
この野戦重砲の特徴は砲架車と砲身車に区分し機動力増大、湾曲弾道の利用と発射速度の増強は用兵技術の進歩戦略の妙と共に我が國野戦砲の雄と稱賛された
紀元2036年 昭和51年7月吉■ 有志建之
(碑文より)
「迎え虎」(雄虎)と「送り虎」(雌虎) (天守閣内) |
小倉城の「虎」
慶応二年歳は丙虎、この年は内外多事多難であった。
徳川幕府は二次征長の軍を起し、小倉城はその策戦拠点となり、老中格小笠原壱岐守長行(唐津侯世子)が征長の指揮をとった。
たまたま十四代将軍家茂大阪で病没したため幕軍の歩調を欠き、長軍奇兵隊の進撃の前に城兵は自ら火を放って小倉城を焼いた。
これを丙寅(へいいん)の変と云う。
星移り茲に満九十六年、今年は虎の歳を迎えた。
昭和三十四年十月、在りし日の小倉城天守閣が復元し、三十五年には二期工事の着見櫓が完成した。
小倉城の復元は藩政時代の戦争の拠点を再現するのが目的ではない。
平和の象徴として、観光資源として、都市美の中核を作るにあった。
その目的は十分果たされつつある。
その小倉城天守閣に、自焼した寅歳に因んで虎の大壁画一対を掲額した。
雄虎の壁画を「迎え虎」と称し、雌虎の壁画を「送り虎」と名付けた。
来城の万客を心から歓迎する意味を含めている。
古来神獣として神社仏殿、城壁の魔除けに描かれた例は多いが、小倉城ほどの大壁画あるを未だ聞かない。
大壁画の高さ十五尺二寸、巾八尺二寸、一面に一頭だけの虎を描いて他に添景物を見ず、非凡の力作である。
迎え虎はいずれの位置より見るも真正面に見えるところから八方睨みの虎とも激称されている。
(寸法:高さ 約4.75m、幅 約2.5m)
筆者は八幡宮の総社宇佐神宮の抱え絵師、佐藤高越画伯、二虎を描くに三十五、三十六両年、二ヵ年の日子を費している。
この経費約百万円は、小倉城関係者の協力を仰ぎ、画そのものは佐藤画伯の無料奉仕によって完成した。
鑑みて九十六年前、自焼した小倉城が、この雌雄二頭の虎の大壁画完成によって、再び戦争の過誤を繰り返さないことになるならば幸いである。
(説明パネルより)
天守閣から見た景色 |
着見櫓(復元) (平成23年9月15日) |
着見櫓
小倉城の「着見櫓」として櫓上にて沖からの通航船を監視した櫓やぐらです。
木造三重二層三階塔屋付、延べ330uの構造で、当時の場所にそのままの姿を再現しています。
(リーフレット『小倉城』より)
多門口門跡 多門とは本来長屋のことで、本丸から北の丸への通り道の門 (説明板より) (平成23年9月15日) |
平成23年9月15日
忠魂碑 (平成23年9月15日) |
軍馬忠霊塔 陸軍大将 杉山元 書 昭和17年10月24日 発願建立者 坪根金一 (平成23年9月15日) |
平成23年9月15日
中津口門の大石 (平成23年9月15日) |
中津口門の大石
後方にある二基の大石は江戸時代、古船場の中津口門の石垣で、細川忠興が慶長7年(1602)に小倉城を築くとき大谷から運んできた。
大石は上富野で動かなくなり、忠興は頭かしらの富岡某を手討ちにしたので、石は勢いよく運ばれた。
村人は富岡を哀れみ地蔵堂を建て供養した(現在この富岡地蔵は、安全寺に安置されている)。
これを聞いた小笠原四代藩主忠総ただふさは「二つに割って運べば命まで奪わずにすんだ。石の大小は勝負にかかわらぬ」と言ったという。
これを「細川の大石」「小笠原の割石」といった。
明治になり中津や築上の青年が多数小倉に来た。
門を入る時、大石をにらむと成功すると言われ一心ににらんだ。
「大石にらみ」という。
中津口門を解体した明治34年に、藤井f吉しょうきちが三本松の高倉稲荷神社に大石を移した。
平成12年に高倉稲荷は八坂神社に合祀されたので石も移した。
小倉北区役所
(説明板より)
『宮本武蔵 誠心直道』碑 (平成23年9月15日) |
碑文
今日天下武ヲ論ズル者剣聖宮本武蔵先生ヲ以テ第一トナス
先生ハ播州ノ英産幼少ヨリ武ヲ志シ二天一流ヲ創始シ肥後細川藩ニ脈々トシテ其ノ流派ヲ伝ウ後年ニ及ビ剣理ヲ以テ悟徹セル万里一空ノ精神ハ絵画彫刻ニ至ルマデソノ極ヲ究メ実ニ国宝数点ヲ残ス先生ノ著ニ成ル五輪書独行道兵法三十五ヶ条総テ百世ノ指針タリ
今回兵法二天一流中興之祖第十代宗家今井正之信勝先生正統第十一代ヲ免許皆伝書ト共ニ密伝ス依ツテ茲ニ始祖ノ神髄タル誠心直道之碑ヲ建立シソノ印トナス
平成15年12月吉祥日
兵法二天一流 誠心直道之碑を建てる会謹識
虎の門口 大手門、西の口門と並ぶ正門の一つで、天守から見て寅(とら)の方角にあるのでこの名がついた。 (説明板より) (平成23年9月15日) |
平成23年9月15日
小倉祇園八坂神社 (北の丸) (平成23年9月15日) |
小倉祇園八坂神社 (北の丸) (平成23年9月15日) |
八坂神社御由緒
当神社は遠く貞観年中に祀られてありましたが、元和3年の春(西暦1617年)小倉城主で名君の細川忠興公が鷹狩りのおり、神霊を感ぜられ改めて神殿を鋳物師町に奉建名も祇園社を称し旧豊前国の総鎮守として仰がれました。
爾来、代々藩主はもとより、小倉城下の尊崇厚く春秋三百有余年、昭和9年現小倉城内北の丸に遷座されたのであります。
盛夏の頃7月例大祭は「太鼓の祇園」として親しまれ全国三大祇園の一つに数えられるのも小倉っ子の意気と熱、その独特のばちさばきによるものであります。
映画「無法松の一生」で一躍世界にその名を知られるお祭りとなりました。
(説明板より)
北の丸 |
北九州市立 小倉城庭園 (福岡県北九州市小倉北区城内1−2) (平成23年9月15日) |
小倉城庭園とは
小倉城の城主、小笠原氏の別邸であった下屋敷(御遊所)跡を復元した大名の庭園と典型的な江戸時代の武家の書院を再現し、それに茶室や展示棟を備えた体験型の文化施設です。
最初に小倉城を築いた細川氏のあとを継ぎ234年にわたって城主をつとめた小笠原家は、徳川幕府の有力な大名でしたが、同時に全国の小笠原一族の総領家でもあり「小笠原流礼法」の宗家として知られる旗本の小笠原家もその一族でした。
礼法は「思いやりの心」と「もてなしの心」を大切にする日本の伝統的な文化のひとつです。
小倉城庭園は、その心とともに礼法の歴史などを紹介し、礼法を中心にした伝統的な生活文化を後世に伝えていくための日本で唯一のユニークな施設です。
また、ビルに囲まれた都心にありながら、小倉城とともに、江戸時代の雰囲気を感じることのできる北九州市の新名所です。
一服の抹茶をのみ、自然と文化の薫りに浸り、静かな落ち着いた時間をお楽しみ下さい。
(リーフレット『北九州市立 小倉城庭園 「愛称:小笠原会館」』より)
三の丸の土塁 (福岡県北九州市小倉北区大門1−5−1・思永中学校) |
三ノ丸の土塁
江戸時代の城郭は、幾重にも濠ほりや石垣、土塁で囲まれていた。
三ノ丸、二ノ丸と城内を区切るのは石垣と濠である。
「三ノ丸」と西曲輪くるわを区切っているのは、この背後にあるような土塁と濠だった。
石垣は多く残っているが、土塁がそのままの形で残っているのはこの付近だけである。
他の場所の土塁は、明治以降に石垣に変わったり、切り崩されていたりした。
ここの緑地帯は江戸時代には濠だった。
幕末の「藩士屋敷絵図」によると、濠の幅は八間半(約15m)となっているから、歩道の一部も濠だったことになる。
深さは五尺(約1.5m)だった。
このような土塁と濠は、江戸時代にはここから南へ、西小倉小学校下から、田町のはずれまで続いていた。
また、この付近に三ノ丸から西曲輪に出入りする田町口門があった。
その内側(中学校側)には門番屋敷があったように記されている。
この土塁の内側は高級武士の屋敷が立ち並び、曲輪には武士と町人が混住していた。
小倉北区役所
(説明板より)
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||