小松宮彰仁親王像 平成12年9月3日

小松宮彰仁親王 こまつのみやあきひとしんのう

弘化3年1月16日(1846年2月11日)〜明治36年(1903年)2月18日

※ 没年月日:明治36年2月26日の説あり

東京都台東区 上野公園でお会いしました。


小松宮彰仁親王は伏見宮邦家親王の第8子として弘化3年1月16日にお生まれになりました。
明治元年6月に会津征討越後口総督、明治7年2月から7月まで佐賀征討総督などに任じられました。
明治10年10月、それまでの旧名である東伏見宮を小松宮に改名します。
明治24年12月近衛師団長、明治28年1月から31年1月まで参謀総長に任じ陸軍元帥となります。
明治36年2月18日に病没されました。


小松宮彰仁親王銅像



小松宮彰仁親王銅像





(平成15年6月26日)

小松宮彰仁親王銅像

台東区上野公園8番

彰仁親王は伏見宮邦家親王第8王子。
安政5年(1858)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応3年(1867)勅命により22歳で還俗、東伏見宮嘉彰と改称した。
同4年1月の鳥羽・伏見の戦いに、征東大将軍として参戦。
ついで会津征討越後口総督になり、戊辰戦争に従軍した。
明治10年5月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、9月その総長に就任した。
同15年には、小松宮彰仁親王と改称。
同20年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。
同36年1月18日、58歳で没。

銅像は明治45年2月に建てられ、同3月18日、除幕式が挙行された。
作者は文展審査員の大熊氏廣。
「下谷區史」は当地に建てた理由について、寛永寺最後の門跡・輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)の兄宮であったことに因んだのだろうと推察している。

平成8年7月

台東区教育委員会

(説明板より)


【海軍の誕生】

慶応3年(1867)10月14日、徳川慶喜による大政奉還で明治維新の幕が上がり、同年12月9日の王政復古の大号令によって新政府が成立した。
慶応4年1月、新政府初の官制である七科、すなわち神祇じんぎ事務科、内国事務科、外国事務科、海陸軍務科、会計事務科、刑法事務科、制度寮が設けられた。(当時の公用語は「陸海軍」ではなく「海陸軍であった)
このうち、海陸軍務科の長(三人制)は海陸軍務総督と呼ばれ、議定兼副総裁の岩倉具視、議定の仁和寺宮にんなじのみや嘉彰よしあきら親王(のちの小松宮彰仁親王)、同じく議定の島津忠義が就任した。

(参考:『歴史群像』 2012年8月号)

(平成25年10月19日 追記)


【天皇に嫌われた彰仁親王】

明治28年1月に参謀総長の有栖川宮熾仁親王が在職中に死去したのにともない、小松宮彰仁親王(明治23年6月に大将)が参謀総長に就任した。
戊辰戦争での征討総督としての経歴や、新政権の軍事部門での栄達は、若い頃から親王に大きな自信をつけさせたらしい。
それと同時に、親王には自分が能力にふさわしい処遇をされていないとの不満があったようだ。
これに伏見宮家相続をめぐる軋轢などもからんで、親王は小松宮家の跡継ぎ問題や皇太子嘉仁親王の婚約問題においても、皇室内でたびたび厄介ごとを起こす存在となっていく。
さらに身持ちもよくなく、人々に眉をしかめさせるような行動もあった。
そのせいか、明治天皇も彰仁親王にはあまり好意的ではなかったふしがある。
親王は明治19年に頼子妃を伴って欧州に行くが、その際、衣服や宝石を大量に買い込み、天皇を怒らせた。
そのため、数年後に有栖川宮威仁親王が妃同伴の外遊を願い出た時、天皇は彰仁親王夫妻の行状をもちだして、なかなか許さなかったほどであった。(『明治天皇紀』22年2月14日)
また、彰仁親王が大将に進級した時も、天皇は同時に大将となった山県有朋の昇進はすんなりと認めたが、親王を大将とすることについては、「その勲位は山県と同じに論じられるようなものではない」と渋った。(『明治天皇紀』23年6月7日)
有栖川宮熾仁親王の後任の参謀総長として最有力だったのは山県有朋だが、戦争指導への山県の介入を嫌う川上操六参謀次長らが反対したため、彰仁親王にお鉢がまわってきたという。
この間、天皇がどのように考えていたかは分からないが、少なくとも彰仁親王の参謀総長就任に積極的ではなかった。
そう推察できる理由として、このとき天皇が参謀総長就任は認めたものの、熾仁親王が兼任していた神宮祭主を彰仁親王が兼ねるのは許さず、賀陽かや宮邦憲王を起用したという事実がある。
当時、宮内大臣だった土方ひじかた久元がのちに佐佐木高行に語ったところによると、天皇は素行の悪い彰仁親王が皇室の先祖神である天照大神あまてらすおおみかみに仕える神宮祭主となるのを嫌ったのだという。(『佐佐木高行日記・かざしの桜』明治32年1月21日)
明治28年3月、日本の勝利が確実になったころ、彰仁親王は参謀総長のまま征清大総督に任じられ、戦闘が終結し、講和条締結も目前となった4月半ばに大陸に渡る。
このとき天皇は、戦地での将軍、提督たちの人事、賞罰については、いちいち自分に相談するようにと命じた。
そのため征清総督府参謀長になっていた川上操六などは、物事の決定に時間がかかって困るとぼやいたというが、ここにも天皇の彰仁親王への信頼の薄さがあらわれている。
彰仁親王は明治31年1月に参謀総長を辞任、同時に元帥となる。52歳。
在任期間は熾仁親王のそれにくらべればずいぶん短い。
後任には次長の川上操六が昇格した。

(参考:浅見雅男 著 『皇族と帝国陸海軍』 文春新書 2010年9月第1刷発行)

(平成28年12月10日 追記)





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