小峰城 こみねじょう

(別称:白河城)

東北本線・白河駅の近く


「小峰城跡」についての説明板より

阿武隈川の南岸に面した小峰ヶ岡と呼ばれる東西に長い独立丘陵(標高370メートル)を利用して築城された梯郭式平山城で、白河城とも呼ばれています。
小峰城は、南北朝期お武将である結城親朝によって興国年間(1340〜46)に築城されたのが城郭としてのはじまりで、以後白川結城氏の有力な一族である小峰氏の居城でしたが、永正年間(1504〜20)頃には白川結城氏の本城となっています。
天正18年(1590)豊臣秀吉による奥州仕置により白川氏が改易となって以後は、会津藩の城代が置かれ、蒲生・上杉両氏の支配下に置かれました。
現在にその名残をとどめる近世城郭は、寛永4年(1627)に初代白河藩主となった丹羽長重が、幕命により寛永6年から同9年にかけて築城したものです。
幕藩体制の確立期において外様大名から江戸城を防備する一環として、奥州の要衝の地である白河に幕府が築城を命じたのでした。
現在、本丸及び二の丸の一部約8万uが史跡として指定されていますが、当時の城郭の範囲は東北本線白河駅の南側までを含むもので約60万uの規模でした。
城郭の縄張りは、丘陵頂上部に本丸とその帯郭を設け、東南に二の丸・三の丸を配し、その周囲には石垣と堀をめぐらし、南に大手門、北に尾廻門(搦目門)、東に横町・田町門、西に道場・会津門が設置されていました。
全体にやや不整形な五角形を呈した城郭でした。
平成3年には三重櫓、同6年には前御門が当時の史料によって忠実に木造復元され、往時の威容を偲ばせています。
(白河ライオンズクラブ)


戊辰戦争(戊辰の役・白河口の戦い)

小峰城は寛政の改革を行った老中・松平定信の居城だったこともあるお城です。
戊辰戦争の前年(慶応3年)に藩主の安部氏が棚倉藩(10万石)へ移封されていたため、戊辰戦争時にはこの城には城主がおらず、城は二本松藩が管理していました。
慶応4年4月20日、会津軍が新選組など旧幕府の兵とともに小峰城を急襲。
二本松、棚倉、三春、泉などの各藩の守備兵は簡単に城を放棄、会津軍に占領されてしまいました。
4月25日、征討軍は小峰城の攻略を図りますが失敗。
この攻撃で戦死した長州大垣藩兵6人と薩摩藩兵7人の首が小峰城大手門前にさらされたといいます。
5月1日早朝、征討軍は増援を得て再度総攻撃を開始しました。
この戦いで会津軍副総督・横山主税[ちから]などの同盟軍の主だった指揮官が戦死しています。
このとき横山主税は21歳。パリ万国博覧会に将軍名代として出席した徳川昭武(後の水戸藩主)に会津藩の留学生としてパリへ随行した英才でした。
5月1日の白河・小峰城の攻防戦で、会津、仙台、棚倉の奥羽列藩同盟軍2500名は700名の戦死者を出して敗走します。1日でこれだけの戦死者を出したのは戊辰戦争ではこの戦闘の時だけです。
これに反して征討軍700名の戦死者は12人だったといいます。
征討軍の圧勝でした。
これ以降、同盟軍は7月15日まで7回の奪還攻撃を試みましたが、ことごとく失敗しています。


小峰城

天守閣のように見えるのは三重櫓です。

小峰城

結構広いです。


小峰城の復元

丹羽長重以後、名君松平定信をはじめ、七家21代の大名が居城しましたが、慶應4年(1868)に戊辰の役で焼失。
平成3年に三重櫓、平成6年に前御門が、史実に基づき忠実に木造復元されました。
当時の築城技術の冴えを偲ばせる伝統美の極み。
城の柱は、数百年を経たむくの杉材。
床板も幅1メートルに及ぶ杉板で、楼閣に足を踏み入れるとほのかな杉の香りに包まれます。
復元に使用された杉材は、戊辰の役の激戦地稲荷山のもので、床や柱には、当時の弾痕がそのままに残っています。
(パンフレットより)

三重櫓
櫓[やぐら]というのは、矢倉あるいは矢倉とも書き、武器・食料の貯蔵と防御とを目的とする建物である。
小峰城の三重櫓は、本丸の北東隅に建つ三層三階の櫓で「一国一城令」以降の築城であるため大規模な天守ではなかったものの、その雄姿は奥州関門の名城にふさわしい外観を呈していた。
三重櫓は高さが約14メートルあり、一、二階には張り出し部分及び石落し、各階に格子窓及び鉄砲狭間を設け、東南北にそれぞれ守りやすい造りとなっている。
屋根は瓦製の鯱(1.2メートル)が乗せられた本瓦葺の入母屋形式である。
構造は、三層三階建てで、各階二間ずつの低減となっており、安定した形をしている。
通し柱の構造が特徴で、規模の差異はあるものの姫路城天守の通し柱を連想するものである。
また、二階南側の張り出しは会津若松城天守に酷似しているのも特徴である。
当時の建築材は土台には栗材を、通し柱には松材を使用しており、主要材を松材とし他は楢材、桂材等の雑木であったと思われる。

[構造]
杭:深礎工法6本
基礎:鉄筋コンクリート造、スラブの上礎石敷き
本体:木造3階建
[仕様]
床:板張り、一部土間玉石敷きタタキ土
内壁:羽目板張り、一部漆喰塗り
天井:化粧板張り、根太、梁あらわし
外壁:腰、下見板張り古色塗り、漆喰塗り
軒裏:漆喰塗り込め、軒先木部古色塗り
屋根:本瓦葺

前御門
前御門は別の名を「表御門」とも言われているが、名称の示すように本城に東面する正門として、裏門に当たる桜御門と共に本城を守護する重要な位置にある。
東北隅に三重櫓、東面して前御門、東南に多聞櫓、南中央に桜御門といった続き櫓の構えの中心である。
前御門の形式は櫓門で、平櫓の多聞櫓が連続して構成されている。
竹之丸側の土居に建つ土塀によって枡形としての形態をとっており、120年ぶりの再建によって、三重櫓より続く縄張りが復元された。

[構造]
杭:深礎工法3本、BH工法4本
本体:木造二階建て一部平屋建て
[仕様]
礎石:白河石鑿[のみ]はつり仕上げ付け鯱
外壁:下見板張り古色塗り・漆喰塗り
屋根:土居葺きの上本瓦葺き
軒裏:漆喰塗り込め、軒先木部古色塗り
内壁:羽目板張り、漆喰塗り
床:板張り
天井:小屋裏あらわし

(パンフレットより)


白河集古苑

白河集古苑
小峰城のある城山公園内にあります。


白河集古苑
小峰城跡の城山公園内にある白河集古苑は、中世に白河地方を領していた結城家、江戸時代の大名として白河藩を治めた阿部家の歴史的資産を保存・展示する施設です。
建物は城郭内にあった土蔵をイメージしたもので、平屋建ての館内には結城家古文書館・安部家名品館の二つの館が設けられています。
結城家古文書館
結城家は、その始祖結城朝光が源頼朝の奥州征伐に従軍した功により白河庄を与えられ、その孫祐広が下総結城より白川=白河に移って結城白川氏を創設しました。
南北朝時代には南朝方随一の武将として結城宗広が活躍し、日本の歴史にその名を残しています。
結城家古文書館は、中世約400年にわたり白河地方を治めた名族が伝えた古文書を展示しています。
安部家名品館
阿部家は、三代将軍家光に仕えた老中阿部忠秋を藩祖とする徳川普代大名です。
代々幕閣に重きをなした家柄で、文政6年(1823)から戊辰戦争直前まで約45年間白河城主でありました。阿部家名品館では、絵画・漆工品・染織・陶磁器など、様々な歴史資産を展示し、近世大名資料の一端を紹介しています。

入館料:一般310円  小中高生100円
休館日:毎週月曜日・祝日の翌日・年末年始

(パンフレットより)   (平成14年現在)


白河藩

1580年の豊臣秀吉による奥羽仕置以降、会津藩領となっていた白河地方は、1627年に丹羽長重が初代藩主として入封し、10万700石の白河藩が立藩しました。

領主 年代 領有高 事項
初代 丹羽長重 寛永4年(1627)2月〜 10万石 棚倉から入封
2代 丹羽光重 寛永14年(1637)4月〜 二本松へ移封
3代 松平忠次
(榊原)
寛永20年(1643)7月〜 14万石 館林から入封
姫路へ移封
4代 本多忠義 慶安2年(1649)6月〜 12万石 越後村上から入封
5代 本多忠平 寛文2年(1662)11月〜 宇都宮へ移封
6代 松平忠弘
(奥平)
天和元年(1681)7月〜 15万石 宇都宮から入封
山形へ移封
7代 松平直矩
(結城)
元禄5年(1692)7月〜 15万石 山形から入封
8代 松平基知
(結城)
元禄8年(1695)6月〜
9代 松平義知
(結城)
享保14年(1729)8月〜 姫路へ移封
10代 松平定賢
(久松)
寛保元年(1741)11月〜 11万石 越後高田から入封
11代 松平定邦
(久松)
明和7年(1770)8月〜
12代 松平定信
(久松)
天明3年(1783)10月〜 老中職
13代 松平定永
(久松)
文化9年(1812)4月〜 桑名へ移封
14代 阿部正権まさのり 文政6年(1823)3月〜 10万石 武州・から入封
15代 阿部正篤まさあつ 文政6年(1823)11月〜
16代 阿部正瞭まさあきら 天保2年(1831)11月〜
17代 阿部正備まさかた 天保9年(1838)6月〜
18代 阿部正定まささだ 嘉永元年(1848)5月〜
19代 阿部正耆まさひさ 嘉永元年(1848)11月〜
20代 阿部正外まさとう 元治元年(1864)4月〜 老中職
21代 阿部正静まさきよ 慶応2年(1866)6月〜
慶応3年1月
棚倉へ移る


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