平成23年2月8日

小西行長 こにし・ゆきなが

永禄元年(1558)?〜慶長5年10月1日(1600年11月6日)

熊本県宇土市・宇土城跡でお会いしました。


豊臣秀吉に仕え、天正9年(1581年)に播磨国室津むろのつを支配し、船奉行として各地に働き、天正13年(1585年)には小豆島など2万俵を与えられた。
四国・九州攻めに従い、肥後国宇土14万石を領した。
娘婿・宗義智よしとしと共に対朝鮮交渉を命じられ、文禄の役では平壌まで進攻し、明との講和を画策した。
交渉の末、秀吉の降表を偽作し秀吉の日本国王冊封という結果を得たが、慶長元年(1596年)大坂での講和が決裂したため、翌年慶長の役に出陣。
関ヶ原の戦では西軍として戦い、京で斬首。
高山右近に次ぐ教会の保護者であった。






小西行長公像

(熊本県宇土市・宇土城跡)





(平成23年2月8日)

小西行長公像

宇土24万石の城主として城下町宇土の雄大な町づくりを行い郷土発展の礎を築いた功績を顕彰し公の歿後380年を記念してこの銅像を建つ

小西行長公三百八十年祭実行委員会

昭和55年10月1日
小西行長公380年祭実行委員会々長
          宇土市長  大和忠三
銅像制作 堺市彫刻家    白石正義
台座設計 宇土市建設部長 中村克己

(碑文より)


小西行長屋敷跡



小西行長屋敷跡
(大阪府堺市堺区宿屋町東1丁)





(平成19年4月14日)
小西行長屋敷跡



小西行長屋敷跡
(大阪府堺市堺区宿屋町東1丁)





(平成19年4月14日)

小西行長屋敷跡

堺の薬種商小西隆佐りゅうさの子。
秀吉に信任され、しばしば戦功をたて、天正16年(1588)肥後国(熊本県)宇土24万石の領主となった。
文禄・慶長の役(1592〜1598)では、加藤清正と並んで朝鮮侵略の先鋒となり、ピョンヤン(平壌)を陥れた。
行長は熱心なキリスト教徒で、洗礼名ドム・オーギュスタン(アゴスチーニュ)。
堺に孤児院や病院を建てるなど、社会事業に尽した。
後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、石田三成方について敗れ、京都で斬首された。
刑場においても、行長は主の名を唱え、手にキリストの小画像を捧げ持ち、刑についたといわれる。

堺市

(説明板より)


傘松の幹


小西行長の手植
傘松の幹
樹齢約400年
(大阪府堺市・菅原神社楼門)




(平成19年4月14日)
菅原神社楼門



菅原神社・楼門
(大阪府堺市・菅原神社)





(平成19年4月14日)

大阪府指定有形文化財
菅原神社 楼門

昭和45年2月20日指定
昭和51年解体修理

この門は正門の柱間が三間、出入口が一ヶ所の三間一戸さんげんいっこの楼門ろうもんで、屋根は入母屋造・本瓦葺です。
楼門とは二階建の門で、上層に手すり付の縁が廻らされている門のことをいいます。
この建物の特徴のひとつは軒を支える複雑な組物に、彫物をほどこした絵様肘木えようひじきを用い簡略化していることです。
特に上層では、大斗たいと絵様肘木の上に尾垂木おたるき付きの絵様実肘木さねひじきを重ね、伝統的な二手先にてさき組物に似た構成としています。
これらは近世建築の様々な表現方法のひとつと考えられ、、建築史上の意匠変化を知る上で重要です。
このような特色ある手法や様式などから、建立年代は17世紀後期にさかのぼるとみられます。
大坂府下での数少ない楼門建築として貴重です。

平成4年3月
大阪府教育委員会
堺市教育委員会

(説明板より)

菅原神社



菅原神社
(大阪府堺市戎之町東2丁1−38)





(平成19年4月14日)

菅原神社

祭神は、菅原道真・天穂日命あめのほひのみこと・野見宿祢のみのすくねの三座である。
当社の縁起によれば、延喜年間(901〜922)堺の海岸に、菅原道真自作の木像が漂着した。
これを民家のかたわらに祭っていたが、後に常楽寺(菅原神社)の僧が同寺に移し、社殿を造営し、長徳3年(997)神殿に祭ったのが、当社のおこりである。
天文元年(1532)の火災をはじめ、大阪夏の陣(1615)の戦火などを蒙ったが、承応2年(1653)には、本殿・拝殿が再建された。
しかし、昭和20年の戦災によって、わずかに現在、大阪府の有形文化財に指定されている楼門を残して全焼した。
戦後は、もと戎島にあった恵美須神社もここに移され、1月9日〜11日には戎祭、9月13日〜15日には例祭が行われている。
旧市域北荘(大小路以北)と戎島が氏地で、市民からは「天神さん」と呼ばれている。

堺市

(説明板より)




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