近衛歩兵第1連隊

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
東京 明治7年 近衛第1師団 東京

日本陸軍最初の歩兵連隊。
明治7年1月20日、西郷隆盛率いる御親兵を母体として誕生する。
この連隊には大正・昭和の二代にわたる天皇が皇太子時代に、それぞれ連隊付きとして在籍しました。

明治10年西南の役では田原坂、熊本、城山などの激戦地を転戦。
日清戦争では近衛師団長・北白川宮能久親王統率のもと、台湾平定に従事。
日露戦争では開戦と同時に動員下令、第1軍に属し初戦に大勝。
九連城、分水嶺、沙河、奉天などの会戦に参加。
日中戦争では昭和14年11月2日動員下令。
近衛混成旅団の一翼を担って広東に上陸。
広東上陸後、第21軍に属し、第18師団、第104師団とともに翁英作戦に参加。
連隊は昭和14年12月20日から作戦を開始したが、翌日には森第9中隊長が戦死。
南寧で10万の中国軍に包囲された第5師団、台湾混成旅団(計2万4千名)救援のため作戦中止。
第18師団と連隊を含む近衛1個旅団(計3万名)は急遽海路で南寧に向かうが、途中笠間第2大隊長、河田第5中隊長ら14名が戦死。
昭和15年1月28日、南寧北方の賓陽において、中国軍と全面戦闘に入った。
上思県討伐、江南作戦、第1次・第2次西路作戦、仏印国境作戦に参加し、昭和16年1月13日、東京に帰還。
大東亜戦争では終始皇居の守衛と首都の防衛に任じ、昭和20年5月25日の皇居爆撃炎上では連隊をあげて出動。
昭和20年8月25日、近衛師団命令により軍旗奉焼。


連隊跡記念碑



近衛歩兵第1聯隊跡記念碑

(東京都千代田区 北の丸公園内)




(平成16年1月27日)

近衛歩兵第1連隊跡記念碑

近衛歩兵第1聯隊は、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治7年(1874)1月23日、明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年(1945)大東亜戦争終末に至るまで、71年余りの間この地に駐屯して、日夜皇居の守護に任じ、大正天皇 今上天皇も皇太子であらせられたとき、それぞれ10年の長きに亘り御在隊遊ばされた名誉ある聯隊である。
西南・日清・日露の各戦役及び日華事変には、軍に従って出征して輝かしい勲功を樹て、大東亜戦争に於いては、帝都防衛の一翼を担った。
近衛兵には、毎年の徴兵検査で全国から厳選された優秀な壮丁を以て充てられていた。

昭和42年1月23日
全国近歩一会

(説明板より)

記念碑



記念碑

(近衛のマーク)




(平成16年1月27日)
連隊跡



近衛歩兵第1連隊跡
北の丸公園内 武道館の直ぐ近く
遊歩道の右側に記念碑と説明板が建っています。



(平成16年1月27日)

近衛歩兵第1連隊之碑 「近衛歩兵第1聯隊之碑」

愛知県幡豆郡の三ヶ根山の”比島観音”にあります。

碑は皇居正門を形取ったものです。

碑文

曩に近衛歩兵第1聯隊戦友会が全国近歩1会の名のもとに組織されるや愛知県在住の近歩1出身者は全国に先駆けて支部を結成、爾来25年、その根幹をなすに至った。折りしも世代は昭和より平成に移り、この時にあたり有志相諮りて、ここ東海の景勝地三ヶ根山頂に一基を建立し禁門守護の大任を受けし近衛兵の名誉と栄光を後世に伝え、併せて祖国日本の永遠の平和を祈念するものである。

平成2年10月30日
愛知県近衛歩兵第1聯隊


彰忠碑



彰忠碑
(鳥取県護国神社)




(平成16年11月18日)

説明板

この彰忠碑は明治37年6月15日(1904年)日露戦争に従軍した鳥取市浜崎町出身後備近衛歩兵第1連隊長陸軍中佐須知源次郎が輸送船常陸丸の指揮官として千百有余名の兵員と共に広島宇治港を出帆任地に赴く途上玄界灘で敵艦隊に遭遇し、凄絶な艦砲射撃に応戦の術なく壮烈な最期を遂げたその武勲を称え遺徳を顕彰し後世に伝えるため彰忠碑として建立したるのである
永年の風雪により碑文が風化し判読困難となったため解読した

平成元年10月

全国近衛歩兵第1聨隊会
鳥取県近衛歩兵第1聨隊会

彰忠碑
鳥取市長尾崎武人君、書を以って来りて請ふて曰く明治三十七、八年の役に、我国郷人の軍に従ふもの千百余人にして陣亡、病没する者五十九人、鳥取市民碑をしずく樗涙招魂社に建て以って其の事を伝へんと欲す
願はくは之の文を撰せよと、此の役は皇師の向ふ所百戦百捷、堅として挫くじけざるもの靡く、■として破れざるもの靡し威武外に揚り光輝は遠く播く豊功丕績実まことに開国己耒未だ有らざる所なり
是れ今上の英武烈聖の霊祐に因ると雖ども、陸海軍人の忠義奮発し致死報国するに非ずんば安いづくんぞ能く此に至らんや我が郷人の須知中佐の惨烈節に殉ずるが若き、加納中尉の先に敵弾に死するが若き其他或は奮闘屍を横たへ或は艱苦命を落とす殞おとし忠烈男武前■相踵ぐは皆壮年有為の士なり
是市民の欣仰悼■して此の挙有る所以なり
夫れ樗渓は鳥取藩祖祠廟の在る所にして招魂社は之と相接す■藩祖武を尚たつとび士を訓へて此に三百年諸士義を重んじ命を軽んじ死を視ること帰する如く以って其の養ふ所を発揮す
藩祖にして霊有れば則ち其の喜びや知るべし
嗚呼諸士既に、聖廟の勅褒を悉なうし其の碑は藩祖の祠廟と鄰す千載不朽にして死して余栄有りと謂ふべし
予は樗渓に生れ、幼児観る所の渓山の秀麗は猶なお日■に有り豊碑隆然として紫嵐翠■の中に立って想ふ
乃ち係るに銘を以ってす、曰く樗渓の山、招魂の祠、ここに霊域を卜ぼくし乃すなわち豊碑を建つ、赫々たる武勲煌々たる忠烈
石はさけず、銘は滅びず

陸軍大将正三位勲一等功三級 男爵 川村景明 篆額
湯本文彦 撰文
岩越忠雄 書
鳥取市民建之
明治三十九年丙午四月

※■は判読不可能な文字です。


奉納灯籠

奉納灯籠

滋賀県護国神社

天皇・皇后両陛下行幸啓
昭和56年10月12日・平成6年10月27日
特別奉迎記念

滋賀県近衛歩兵第1聯隊會

(平成18年4月10日)

【第1中隊長・杉坂共之大尉】(昭和13年5月)
陸士43期生、東京陸軍幼年学校第28期生出身。
陸軍戸山学校の剣道の長期学生でその道の達人。
大東亜戦争開始直前、広東の第23軍に対して支那総軍の命令を携行して飛行中、その飛行機が敵陣近くに墜落したが、傷にも屈せず、携行している機密書類を完全に焼却して従容自決されたという。

(参考:池田二郎著 『新品将校奮戦記』 共栄書房 1981年) 

(平成23年1月28日追記)



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