編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
東京 | 明治7年 | 近衛第1師団 | 東京 |
近衛歩兵第1連隊と同日に軍旗を親授された日本陸軍最古の歩兵連隊。
初陣は佐賀の乱だったが、連隊が戦場に到着する前に反乱が終息したため帰還。
西南戦争では鍋田川河畔、田原坂の戦いに加わり勲功をあげる。
日清戦争では出陣したが講和が結ばれたため台湾派遣となり、近衛歩兵第1連隊とともに台湾平定に従事。
日露戦争では明治37年2月4日動員下令。
九連城攻略に参加。
その後、遼陽、沙河、奉天などの大会戦に参加。
日露戦争を通じての連隊の死傷者は1301名にのぼる。
日露戦争後は皇居守護に任じる。
昭和14年12月、華南戦線に動員下令。
広東作戦、南寧作戦に参加。
翁英会戦(昭和14年12月下旬)では、戦死41名、戦傷92名、病気入院等73名、合計206名の損害を被った。
南寧救援の途中、那香で有力な敵と遭遇、大激戦となる。
この戦闘で、長羽少尉、阿部少尉、斎藤准尉の3人の小隊長を含む45名が戦死、156名が負傷した。
賓陽会戦では中国軍第76師と交戦して退却させる。
この会戦で戦死24名、戦傷67名の損害を被る。
昭和15年8月末、北部仏印進駐の印度支那派遣軍の基幹部隊として転属。
昭和15年9月26日、ハイフォン港に無血進駐。
連隊は主力をバクニンにおいて以降半年間の駐留生活を送るが、軍紀厳正なことで住民の信頼を寄せられたと言われている。
昭和16年4月8日、東京に帰還。
大東亜戦争を通じて皇居警護と首都防衛の任に当る。
昭和20年8月25日、軍旗を奉焼。
近衛歩兵第2聯隊記念碑
近衛歩兵第2聯隊は、明治7年1月23日、日本陸軍最初の歩兵聯隊として創設され、明治天皇より軍旗を親授せられて以来、昭和20年大東亜戦争の終結に至るまで、70余年の間此の地に駐屯して日夜皇居の守護に任じ、この間明治10年西南の役、ついで日清、日露の各戦役に出陣し更に昭和には、日支事変にて南支、拂印へ出征し、輝かしい勲功を残した。
近衛兵は毎年全國から選抜された、優秀な壮丁を以って編成されていた。
平成10年1月23日
近歩ニ会
(説明板より)
「近衛歩兵2連隊献木」の碑 (愛知県名古屋市・愛知県護国神社) 京都御所右近の橘の孫木 昭和58年1月23日東海支部植樹 (平成15年11月28日) |
碑文
近衛兵は明治7年(1874)1月23日明治天皇陛下より軍旗を親授された
大日本国軍の最初の軍隊で宮城皇室の御守衛の大任に侍し儀仗兵として服務した
又、出征しては日清、日露戦争、支那事変、大東亜戦争に勇戦力闘し武勲をたてた
終戦により昭和20年8月25日皇居にて軍旗は奉焼された
この橘は京都御所により拝領した右近の橘の孫木である
近衛歩兵2連隊戦友会
天皇陛下在位60年奉祝記念植樹 献木 たちばな (島根県松江市・松江護国神社) 近歩2会島根支部 昭和61年6月吉日 (平成16年11月20日) |
記念碑 (大阪市・大阪城) (平成20年6月17日) |
碑文
大内山の山近く
大君まもる
忠勇の
猛き兵士を
選りたる
近衛歩兵の
二聯隊
姫田虎之助書
近衛二大阪会 創立20周年記念
元近衛兵の誇りを維持し未来永劫に亘る人類の平和と幸福の為に豊公縁りのここに記念の植樹を行う
昭和58年4月29日
近衛二大阪会
協賛 近歩二会
近衛歩兵第二聯隊福岡県支部の碑 (福岡県福岡市・筥崎宮はこざきぐう) 近歩二会々長 竹下正彦 筥崎宮々司 田村靖邦 施工 山野石工事 平成5年11月吉日 建之 (平成23年2月13日) |
記念碑群 (福岡県福岡市・筥崎宮) 中央が近衛歩兵第2連隊の碑 左から2番目は『明治九年の変先覚烈士之碑』 (平成23年2月13日) |
近歩二会群馬支部 奉納 (群馬県護国神社) (平成26年11月16日) |
近歩二会・解散
近衛歩兵第二連隊戦友会(近歩二会)は、平成20年3月24日・25日、九段会館にて会員400名が集い、最終総会を行い解散した。
昭和43年北の丸公園内に記念碑を建て、近歩二会を発足してから40年の歴史に幕を閉じた。
(『偕行 平成20年5月号』)
(平成21年6月8日追記)
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