興亜観音

静岡県熱海市伊豆山1136


興亜観音は正式には「宗教法人 礼拝山興亜観音」と称します。
この観音像は、昭和15年(1940年)2月、陸軍大将・松井石根まつい・いわねの発願によって、支那事変(日中戦争)での日中両軍の戦没者を”怨親平等”に、等しく、弔慰、供養するために建立されたものです。
同観音の本堂には、観音菩薩を安置、右側に日本軍、左側に中国軍戦死者の位牌いはいが平等に並んでおり、天井や壁面には日本画壇を代表する画家の絵が描かれています。
また、境内には昭和35年(1960年)に吉田茂・元総理の筆になる「七士之碑」が建てられ、東京裁判でA級戦犯として殉国刑死した7名の遺骨も葬られています。
さらにB・C級戦犯の殉国刑死者を含め1,068柱の供養碑も建立されています。

(パンフレットから抜粋)

※A級戦犯殉国刑死者
松井石根、廣田弘毅、土肥原賢二、板垣征四郎、東条英機、木村兵太郎、武藤章


興亜観音像 興亜観音像

露立ての興亜観音像は、日中戦争で激戦地となった大場鎮だいじょうちん、南京地域の”戦場の土”を取り寄せ、愛知県常滑の仏像陶工師の柴山清風しばやませいふう氏にはかり、彫塑家で帝展審査員である小倉右一郎おぐらゆういちろう氏の協力を得て製作されたものです。
高さ3・3メートル。
合掌印の観音像は、温容をたたえ、中国大陸南京の地に目を向けています。

建立縁起

支那事変は友隣ゆうりん相撃ちて莫大の生命を喪滅す。実に千歳せんざいの悲惨事なり。然しかりと雖いえども、是これ所謂いわゆる東亜民族救済の聖戦たり。惟おもふに此の犠牲たるや身を殺して大慈たいじを布く無畏むいの勇、慈悲の行、真に興亜の礎いしずえたらんとするする意に出でたるたるものなり。予大命を拝して江南こうなんの野に転戦し、亡うしなふ所の精霊算なし。洵まことに痛惜つうせきの至りに堪へず。茲ここに此等これらの霊を弔とむらふ為に、彼我ひがの戦血に染みたる江南地方各戦場の土を獲り、施無畏者せむいしゃ慈眼視衆生じげんをもってしゅじょうをみるの観音菩薩の像を建立こんりゅうし、此の功徳くどくを以って永く怨親おんしん平等に回向えこうし、諸人しょじんと倶ともに彼の観音力を念じ、東亜の大光明だいこうみょうを仰あおがん事を祈る。
ちなみに古島安二氏其他幾多同感の人士じんしならびに熱海市各方面の熱心な協力を感謝す。

紀元二千六百年二月
願主 陸軍大将 松井石根

※紀元二千六百年は昭和15年のことです。


松井石根(まつい・いわね)

将軍松井は、若い頃からの日中友好論者。
昭和12年(1937年)8月、上海派遣軍司令官として中国に出征、南京攻略戦を果たし、翌年凱旋帰国、熱海伊豆山に居を構えました。
松井は戦を通じて日中両軍が多くの戦死者を出したのを悼み、彼我平等にその霊を弔うため観音の建立を思い立ったものです。
しかし、松井は戦後の東京裁判でA級戦犯として、いわれなき”南京大虐殺”の責を負い、昭和23年(1948年)12月23日、殉国刑死されました。

(パンフレットより抜粋)


【松井石根】

松井石根は、陸大を卒えると、みずから志願して中国へ飛び込み、先輩の荒尾精せい(元陸軍大尉)や根津一はじめ(元陸軍少尉)、川上操六(陸軍大将)、明石元二郎(陸軍大将)らの衣鉢いはつを継ぐのだといって、そのまま生涯の大部分を中国の生活に投入した軍人である。
中支派遣軍司令官の任を解かれ、南京入城の凱旋がいせん将軍として東京に帰ったが、将軍は怏々おうおうとして楽しまなかった。
アジアの内乱ともいうべきこの不幸な戦争で斃たおれた日中両国の犠牲者を弔うために、わざわざ人を派して、最大の激戦地である大場鎮の土を取り寄せ、これで一基の観音像を造った。
これを熱海市伊豆山の中腹に祀り「興亜観音」と称し、自ら堂守りとなって、そこに隠棲いんせいした。
終戦の翌年の正月、戦犯という汚名を着せられて、大将はそこからMPに引き立てられていった。
家には文子夫人一人が堂守り生活を続けていた。
施無畏せむいの信仰に悟入した大将の2年余の獄中生活は、誠に淡々たるもので、朝夕の読経は死刑執行のその日まで欠かさなかったそうである。
その夜、大将は天皇陛下万歳の音頭をとり、しっかりした足取りで、13の階段をのぼったそうである。

(参考:田中正明著 『パール判事の日本無罪論』 2001年初版第1刷 小学館文庫)

(平成23年5月26日追記)


興亜観音の本堂 興亜観音の本堂

この本堂は、熱田神宮の神殿造営の余材で作られたそうです。
ご両親の遺志を継がれている娘さんに内部を案内していただき、お参りさせていただきました。
内部には松井大将の部下戦死者23,104柱を始めとする日本軍戦没者の御霊、中国軍戦没者の御霊、1,063名のA・B・C級戦犯の刑死者の御霊、発願された松井大将の御霊、東京裁判のインドのパール判事の御霊、そしてこの堂を守られていたご両親の御霊が祀られていました。

七士の碑

興亜観音像のすぐ近くに「七士の碑」が建っています。
七士とは、東京裁判で大東亜戦争(太平洋戦争)の責任を問われ、昭和23年(1948年)12月、”A級戦犯”として殉国刑死された松井石根大将、廣田弘毅元首相、土肥原賢二大将、板垣征四郎大将、東條英機大将、木村兵太郎大将、武藤章中将です。
7人の遺骸は横浜市保土ヶ谷区の久保山火葬場で荼毘に付されました。
東京裁判の弁護人を担当した三文字正平氏らの命がけの尽力で遺骨を確保し、ひそかに興亜観音に運ばれ埋葬されました。

昭和34年(1959年)、興亜観音奉賛会会長で実業家の高木陸郎氏は興亜観音境内に7人の碑を建立しようと計画、同年秋、吉田茂・元総理の筆になる「七士の碑」を完成しました。

昭和46年(1971年)12月、過激派学生数名が、「七士の碑」や並んでいる供養碑と「興亜観音像」に導火線を仕掛け、爆破をはかりました。
「七士の碑」は大きく3つに割れ、細かい石片が飛び散りました。
観音像は無事でした。
その後「七士の碑」は有志の献身的努力で翌年8月、痛ましい傷跡はあるものの、ほぼ修復され、今日にいたっています。

(パンフレットから抜粋)

七士の碑 右側の大きい石碑が”七士の碑”です

石を爆破しても何の意味もない気がするんですけどね。
なんと幼稚なことか・・・・

ウォーカー中将の因縁

昭和23年(1948年)12月23日に松井大将ら7人を”A級戦犯”として処刑した執行責任者は、日本駐留軍司令官、ヘンリー・ウォーカー中将でした。
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が始まり、ウォーカー中将は米軍を率いて仁川に上陸、北鮮の背後を衝きました。

同25年12月暮れ、ウォーカー中将は戦場視察のため自動車で海岸道路を走行中、事故死してしまいました。
その日が、3年前、松井大将ら7人が殉国刑死した同月同日、12月23日でした。

生き残った同中将の副官が、怨霊供養のため興亜観音を訪れたといいます。

(パンフレットより抜粋)



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