甲府城 こうふじょう

(山梨県甲府市丸の内1丁目)


【甲府城の歴史】

甲府城は、古くは甲斐府中城、一条小山城、赤甲城などとよばれていました。
天正10年(1582)、甲斐国は戦国大名武田氏の滅亡後、織田信長の領国となりましたが、本能寺の変の後は徳川家康の支配をうけました。
その後、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉は甲斐国に甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰、浅野長政・幸長父子を順に配置して築城を命じ、浅野氏のころ(慶長年間)に完成しました。

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、江戸時代には再び徳川の城となり、将軍の子弟が城主となりました。
宝永元年(1704)、時の城主徳川綱豊(のちの6代将軍徳川家宣)が5代将軍徳川綱吉の養子となると、綱吉の側用人柳沢吉保が城主となりました。
武田氏にゆかりのある柳沢氏は、子の吉里にいたるまで約20年間甲斐国をおさめました。
この間それまで城主が在城することのなかった甲府城で、御殿の新築や石垣の改修、城下町の再整備がおこなわれ、甲斐国は大いに発展しました。
しかし、享保9年(1724)柳沢氏が大和郡山へ移封となると、甲府城は幕末にいたるまで幕府直轄地として甲府勤番制度のもと管理されました。

明治時代にはいると甲府城は廃城となり、明治10年前後には建物はすべて取り壊され、次第に市街化され解体されていきました。
現在は本丸を中心とした内城の一部が城跡としての良好な景観を保ち、県指定史跡甲府城跡(舞鶴城公園)として保護されています。

(参考:『舞鶴城公園 県指定史跡 甲府城跡』 山梨県 平成24年12月発行 パンフレットより)


 平成25年9月10日

舞鶴城公園・甲府城跡

県指定史跡 甲府城跡
舞鶴城まいづるじょう公園案内図

甲斐国は、天正10年(1582)武田家滅亡後は、織田信長・徳川家康(城代じょうだい平岩親吉ひらいわちかよし)の時代を経て、天正18年(1590)豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝はしばひでかつ、加藤光泰かとうみつやす、浅野長政あさのながまさ、幸長よしなが親子により治められました。
甲府城は慶長5年(1600)頃に浅野氏により完成したと考えられます。
関ヶ原の戦い後は徳川義直とくがわよしなお(家康の九男)、忠長ただなが(2代将軍秀忠ひでただの三男)、綱重つなしげ(3代将軍家光いえみつの三男)、綱豊つなとよ(後の6代将軍家宣いえのぶ)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。
宝永2年(1705)には、徳川家以外の大名として武川衆出身の柳沢吉保やなぎさわよしやす・吉里よしさと親子が領主となり、この時期に城下町も大きく発展しました。
柳沢氏の大和郡山やまとこおりやま移封後は、甲府勤番制となり、また、大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われていきました。

明治時代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒ぶどうしゅ醸造所じょうぞうしょが造られるなどして、明治37年(1904)に舞鶴公園として開放されました。
大正6年(1917)に明治維新後陸軍省所管となっていた甲府城跡を、甲府市(旧柳町在住)の村松甚藏むらまつじんぞう氏の寄付をもとに払い下げを受けて県有地としました。
戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和39年(1964)に都市公園「舞鶴城公園」として都市計画決定され、昭和43年には県の指定史跡となりました。
その後広く県民に利用されて来ましたが、施設の老朽化などの理由により、昭和60年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。

そこで山梨県は、平成2年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門かじくるわもん・内松陰門うちまつかげもん・稲荷曲輪門いなりくるわもん)や塀の復元、稲荷櫓やぐらの建設などをおこないました。
またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦しゃちがわら、鬼瓦が多く出土しました。

(説明板より)

稲荷櫓

稲荷櫓いなりやぐら

城内の鬼門(北東)に位置することから艮櫓うしとらやぐらともよばれ、江戸時代には武具藏ぶぐくらとして使われていた建物です。
明治初年まで残っていたことが古写真などでわかっており、発掘調査でも2度にわたり建物を建築した痕跡(遺構)と、土地の平安を祈るための輪宝りんぽう(地鎮具じちんぐ)が6点見つかりました。
今の建物は、この遺構や残っていた絵図や史料などをもとに、できるだけ当時の姿に復元したもので、平成16年に建築しました。

櫓の外観
二階層 入母屋造り 瓦葺 白壁 窓 鯱 北・東側に石落とし

櫓の規模
南北(梁間)五間(10m) 東西(桁)六間(12m)

(説明板より)

稲荷櫓の内部

甲府城復元模型
模型縮尺 1:300

甲府城跡は、甲府市街のほぼ中心にあって、堀や石垣をめぐらせた山梨でただ一つの本格的な城郭遺構です。
この城は、天正10年(1582)の武田氏の滅亡後、徳川氏により築城が始められ、さらに豊臣氏系の人々によってほぼ完成をみますが、後に再び徳川氏の城となって発展をした歴史をもちます。
この模型は柳沢氏が城主であった18世紀初頭ごろの甲府城のすがたを再現しています。

(説明プレートより)

数寄屋櫓跡

数寄屋櫓すきややぐら跡(別称:巽櫓たつみやぐら

城内で最も東側に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。

(説明板より)





小田切謙明君頌徳碑





(平成25年9月10日)

小田切謙明翁おきなは、幕末の弘化3(1846)年に甲府で生まれました。
明治維新後は、山梨県最初の小学校設立に尽力し、本県の自由民権運動の中心人物としても、新聞の発行や、市議会および県議会議員を歴任するなど、山梨県の近代化に大きな足跡を残しました。
また地域振興にも意を注ぎ、かつて甲府駅前を賑わせた「海州かいしゅう温泉」の呼び名は、開発者であった小田切謙明の雅号がごうからつけられました。
このように、山梨県の近代化に大きな役割を果たしながら、明治26(1894)年に48歳の若さで亡くなりました。
石碑はその功績を漢文で記したものです。
左の読み下しを参考に漢文に触れてみてください。

小田切謙明君頌徳碑(要約)

君諱謙明字伯卿小田切氏幼名小太郎稱八右衛門海州其號
君、諱は謙明、字は伯卿、小田切は氏なり。幼名小太郎、八右衛門と称す海州は其の号なり
慶應戊辰鎮撫使柳原前光修甲府城擧君督工有功
慶應戊辰、鎮撫使柳原前光甲府城を修むるや、君を挙げて工を督せしめて功有り
十二月板垣退助組織自由黨君以常議員與東洋自由新聞發刊之議
(明治13年)12月、板垣退助の自由党を組織するや、君、常議員を以て東洋自由新聞発刊の議に与る。
二十六年四月九日病歿年四十八葬于甲府清運寺
26年4月9日病みて歿す、年48。甲府清運寺に葬る。
君嘗相舞鶴城外之地掘鑿鑛泉名日海洲温泉
君、嘗て舞鶴城外の地を相して鉱泉を掘鑿し名づけて海洲温泉と日う
銘日
銘に曰く
時務明辨 夙唱民権 厚生施澤 立祠生前
時務、明らかに弁じ、夙に民権を唱う。厚生、沢を施し、祠を生前に立てらる。
峩峩蓮獄 淙淙富川 出斯善士 遺徳萬年
峩々たる蓮岳、淙々たる富川。斯の善士を出だす、遺徳万年ならん。

昭和十一丙子年十一月

解説版設置 平成22年3月 県土整備部

(説明板より)

 遊亀橋から見る甲府城跡





鍛冶曲輪門





(平成25年9月10日)

鍛冶曲輪かじくるわ

鍛冶曲輪と楽屋がくや曲輪をつなぐ門です。
明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成8年に復元しました。

(説明板より)





坂下門跡





(平成25年9月10日)

坂下門跡

鍛冶曲輪と天守曲輪・二の丸をつなぐ門です。
江戸時代の本『裏見寒話』には、城を建てる前にあった一蓮寺の門を使用していたとあります。

(説明板より)





中の門跡





(平成25年9月10日)

中の門跡

天守曲輪・本丸へ通じる門です。
絵図には柵の門として描かれています。

(説明板より)

鉄門くろがねもん




鉄門の内部






(平成25年9月10日)




謝恩碑






(平成25年9月10日)

謝恩碑

この謝恩碑は、明治44年3月11日、山梨県内にあった皇室の山林を明治天皇から本県にいただいたことを記念して建てられたものです。
碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊東忠太氏および同局技師大江新太郎氏の設計により、大正6年12月から同9年12月までの3か年、当時の金額で9万9528円を費やして行われました。
なお、碑の材料として使われている花崗岩は、東山梨郡神金村(現塩山市)の旧皇室の山林から切り出したものです。
碑の高さ約18.2メートルで、碑身はオベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を、また、碑台はバイロンと呼ばれるこれも古代エジプトの神殿の入口に設けられた塔状の門を形どっているものです。

謝恩碑メモ

総高・・・
約30.3メートル
碑身・・・
下部約2.1メートル、上部約1.8メートルと一辺の長さが上部ほど短くなるように10個の碑石を積み(約15.8メートル)、その上に高さ約2.4メートルの方錐体(ピラミッド型)をのせる。
碑台・・・
一辺約9.4メートル、高さ約7.4メートル
台座・・・
一辺約16.1メートル、高さ約1.1メートルの本台座とその下部に副台座を設ける。
敷地・・・
東西約24.5メートル、南北約33.6メートルで面積は約823平方メートル。

これから後の文は謝恩碑西面に書かれている碑文を現代的に表現したものです。

明治44年3月11日、明治天皇陛下は度重なる水害に悩んでいた山梨県の復興のため陛下の■■にあった御料地を県の財産として与えてくださり、以後、山林をよく手入れして国土を守るようにとおおせになった。
陛下のこの厚くありがたい■心に県民はこぞって感激し、県議会ではさっそくこれを恩賜県有財産と名づけて御心に■うように努め、県もまた■しく■■県有財産管理課を設置して積極的に区画の管理に当たるようにした。
さらに翌年には、管理に必要な■■を公布して、■■■■査し面積を明らかにした。
次いで植林や伐採に関する大綱を定め、森林が県内の■■■■■に■うように■■こと■■■した。
こうした県の施策に基づいてどの郡や村でも同じように森林を愛護しなければならないということを■り、また■■なった■■の悲惨さを思い起こしては、おそれないものはなかった。
そういうわけで陛下の■心をありがたく■い、■■することし■りであった。
考えてみると、本県の地形はまわりには重なり連なった高い山々がけわしくそびえ、地質の■いところが多い。
それ故、■しい雨がいく日も降ると、がけがすぐにくずれ落ち、土砂が平地に流れ込んで、長年にわたって大■な被害を受けた。
特に甲府の付近一帯は、高い山に囲まれて多くの川が集まっている地形であるから、その被害は甚だしかった。
これより先の明治40年8月の水害のときには、濁流が山や丘を切りくずし、見渡すかぎりの村々は勢い盛んな泥水にのまれ、人や家畜がたくさんおぼれ死に、田畑は川原となってしまった。
このことは、陛下のお耳に達し、陛下は特別のおぼしめしをもって近くにおつかえする■を本県に派遣して実情を調査するとともに、慰問に御心を配られた。
続いて43年8月にもまた水害があり、このときは前よりやや小規模であったが、40年の水害のときの被害もまだ復旧していなかったため、地力はやせ衰えていて、人々は一段と心配の色を濃くしたのであった。
このように、しばしば災害を受ける原因といえば、本県の地形はその面積の8割を山林が占めているにもかかわらず、無計画に木を切っていたため、良材が残らないばかりか、枯野を焼く火が低い山や谷にまで及んで緑はますます薄くなるばかりであり、とうとう長雨が山をくずしたり、濁流が堤防を切りくずしたりして災害を起こすようになってしまったのである。
今、われわれ県民は無計画に木を切り災害をこうむった当時のことを思い出すとき、陛下がそのことを戒め■土を守ることを諭されたありがたい御心に報いようと発奮し、謝恩のための記念の事業をしないでいられようか。
ここに県議会の議決を受けて舞鶴城址によい場所を選び、ここに謝恩の碑を建てるため礎石を東山梨郡神金村(現塩山市)から見つけることに成功した。
この地はもともと御料地の一画であった。
こうして予定の地に碑を建て、陛下の御心に感謝する碑文を記して県民の心に永遠に伝えようとするものである。
私、春樹(山梨県知事 山脇春樹)は、かたじけなくも本県知事に着任し、これを実現し得たことは誠に感激にたえないものである。
したがって、事の大略を右のように記して最後に次のような銘文を掲げる次第である。

山梨県は高い山々や高原を持つ地形でありながら、その連峰は緑が少なく、木こりや草刈りの人々が山林を荒らしている。
一度長雨が降ると山からの濁流が四方に押し出し、家々は土砂流に流され、田畑は水の深い所と化してしまう。
この時に明治天皇陛下のありがたい御心により、本県にある御料地をわが県に与えられた。
すべての県民は感激して陛下の御心に報いるために、将来、美しい森林が繁るようにと心から願う。
陛下の御心は甚だ深く、県民は永久に感謝し、堅固で美しい石を碑とし、ここに県民すべての心を刻みつける。

大正8年3月
山梨県知事従四位勲三等 山脇春樹 撰文

(※ ■は劣化により判読不可能な文字)

(説明銘板より)





天守台






(平成25年9月10日)

天守台

お城が建てられた当時の姿がそのまま残っています。
天守台はお城のシンボルとしての天守閣が建てられる場所です。

(説明板より)

天守台から見た景色




「明治天皇御登臨之阯」碑


昭和13年3月 建之



(平成25年9月10日)




本丸櫓跡






(平成25年9月10日)

本丸櫓跡

城内の中心に建てられた櫓やぐらで、昭和初年までは残っていたことが古写真でわかっています。

(説明板より)





銅門跡






(平成25年9月10日)

銅門あかがねもん

天守曲輪くるわから本丸へ通じる西側の門です。
礎石はお城が建てられた当時のものです。

(説明板より)





内松陰門






(平成25年9月10日)

内松陰うちまつかげ

屋形曲輪やかたくるわと二の丸をつなぐ門です。
明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の結果をもとに、平成11年に復元しました。

(説明板より)


甲府市歴史公園・甲府城山手御門

【山手御門

甲府城の出入口は、南側の追手(大手)御門、北側の山手御門、西側の柳御門の3ヵ所がありました。
山手御門とこれに続く出入り口は、平成9年(1997)の発掘調査によってその位置が確認されました。
城外から木橋と土橋で堀を渡り、その先に山手門があり、虎口空間を直角に折れて二階建ての山手渡櫓門があります。
出入り口の防御を固めるため、非常に厳重なつくりとなっています。
枡形門虎口型式の両者を総称して、山手御門と呼んでいます。

(『甲府市歴史公園・甲府城山手御門』リーフレットより)





山手門
(甲府市歴史公園)




(平成25年9月10日)

甲府市歴史公園
山手門

「楽只堂年録らくしどうねんろく」絵図には、両脇に低い石垣と土塀も描かれており、近世城郭の主要な虎口では、外側に高麗門、内側に櫓門を設けております。
門扉を支える両側の鏡柱の上に冠木を渡し、前後に腕木を出して切妻屋根を架け、鏡柱の背後にそれぞれ控柱を建て、本屋根より小振りな切妻屋根を載せる特徴的な構造です。

(説明板より)

山手門




山手渡櫓門
(甲府市歴史公園)




(平成25年9月10日)

甲府市歴史公園
山手渡櫓門

「楽只堂年録らくしどうねんろく」絵図には、石垣を渡し架けているように描かれており、一層目の門の上に櫓やぐらが載る櫓門形式の門としています。
一層目は石垣の間に門扉もんぴ、ケヤキ材の鏡柱かがみばしら、添柱そえばしら等が配置され、75cmもの太さの大梁等を支えます。
二層目の規模は「甲斐府中城図」等複数の絵図に記されている3間×7間としています。

(説明板より)

山手渡櫓門 山手渡櫓門の内部

 山手渡櫓門から見た甲府城


【甲府城】

一条小山は、愛宕あたご山から西に延びた小さな丘陵で、古く平安時代の末、武田信義の次男である一条忠頼が館を構えていた。
一条小山の館は、その後、忠頼の夫人によって一蓮いちれん寺という尼寺に改められ、孫の時信の代に時宗じしゅうに属して、一条道場福応寺と称した。

武田氏の滅亡後、甲斐国は織田信長の指図で河尻秀隆かわじりひでたかに与えられたが、信長が本能寺の変に倒れると、秀隆もまた一揆によって殺害された。
徳川家康は、領主不在となったその隙をついて、甲斐国を侵略し、支配の拠点として一条小山の地に、甲府城築城に乗り出した。

家康が甲斐国を手に入れて4年後の天正13年、家康から甲斐郡代に任じられた平岩親吉ひらいわちかよしが、甲府城の縄張を行ない、築城に着手する。
しかし、当時はまだ戦国の余燼よじんがおさまらず、そのため築城工事はしばしば中断された。
甲府城がほぼ完成をみたのは、ふつう浅野長政が城主となった時代と言われている。
長政の嫡子・幸長よしながが紀伊(和歌山県)37万6千石に栄転して以後は、義直よしなお、忠長ただなが・綱重と3代、徳川一門が甲府城に入る。
宝永元年(1704年)にいたって、5代将軍綱吉の寵ちょうを得て権勢を振るった柳沢吉保やなぎさわよしやすが新城主となり、甲府城に最後の大修築を加えた。

内堀に囲まれた城域は凸とつ字形をしており、本丸を中心として二の丸、鍛冶曲輪、稲荷曲輪、数寄屋曲輪、清水曲輪などが段差をつけて設けられ、それぞれの曲輪がいくつかの門をもって仕切られているというふうに、縄張は極めて複雑である。
天守があったかどうかは不明だが、石垣はほとんどが野面のづら積みで、城下町も取り込んだ総曲輪が施されていて、その城下町は躑躅ヶ崎館跡の近くまで広がっていた。

柳沢氏が、享保9年(1724年)、二代の吉里よしさとのときに大和やまと(奈良県)郡山こおりやまに転封になると、甲斐国は一国天領、すなわち幕府の直轄地とされ、以後は甲府勤番支配が甲府城を預かることになった。
その配下の勤番士は、普段あまり素行の良くない旗本・御家人ごけにんの中から選ばれることが間々あったので、俗に甲府行きは「山流し」「甲州勝手」などといって、左遷的な意味合いが強かった。
しかし、天領とされたおかげで、甲府の町は江戸との交流が一層繁くなり、何度も大火に見舞われたにもかかわらず、「西江戸」と呼ばれるほどの繁栄を江戸時代を通じて享受することが出来た。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月9日 追記)




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