(別称:矢留城・葛根城)
秋田市千秋公園1−39
(令和2年10月9日 全面改訂 )
平成26年11月21日再訪問
久保田城跡
久保田城は秋田20万石佐竹氏の居城である。
秋田初代佐竹義宣(よしのぶ)が慶長7年(1602)入部し、翌8年現在地に築城した。
天守閣と石垣のない城として知られている。
本丸は明治13年(1880)7月の火災で全焼した。
同23年公園として解放されその後千秋公園と称し現在に至っている。
公園面積 162,900平方メートル
平成10年10月 秋田市
(説明板より)
佐竹義宣は関ヶ原の合戦時に東西両軍に態度を明確にせず、中立的な立場をとったために、戦後、54万5千石の常陸から20万5千石の秋田に転封されてしまいました。
穴門の堀 | 大手門の堀 |
(平成26年11月21日) |
千秋公園の由来
この公園は、秋田20万石佐竹氏の居城、久保田城の城跡である。
久保田城は、慶長7年(1602)常陸ひたちから国替となった初代秋田藩主佐竹義宣さたけよしのぶが翌8年に築城したもので、天守閣と石垣のない城であった。
明治23年(1890)城跡を秋田市が佐竹氏から借り受けて公園としたが、明治29年(1896)秋田県に移管され、造園家・長岡安平ながおかやすへいの設計により整備された。
昭和28年(1953)再び秋田市に移管、継続的に整備、管理されてきたが、昭和59年(1984)に、15代佐竹義榮さたけよしながの遺志により秋田市に寄贈されて、名実ともに市民の公園となった。
千秋公園の命名者は、秋田県出身の漢学者・狩野良知かのうりょうちで、「千秋」の由来は、秋田の秋に長久の意の千を冠し、長い繁栄を祈ったものと言われている。
公園面積 16.29ヘクタール
平成15年11月
秋田市
(説明板より)
説明板より
大手門跡 (平成26年11月21日) |
大手門跡
久保田城の正門にあたる大手門の跡である。
城下町から外堀に架かる上土橋うわどばしを渡り、かぎの手を左に曲がった所に二層の大手門があったが明治初期に取り壊された。
(説明標柱より)
黒門跡 |
松下門跡 (平成26年11月21日) |
松下門跡
中土橋なかどばし方面からの二の丸の入り口に位置する。
藩政時代、正式な登城路は黒門側であったが、土崎、城下町中央部に近い松下門側も多いに利用された。
門の周囲の縄張なわばりは初代義宣よしのぶ自身が手がけた自慢の設計であったと伝えられる。
(説明標柱より)
二の丸跡 (平成26年11月21日) |
二の丸跡
本丸に次ぐ城の要衝地であり、城内に入城する道は、内堀を渡って二の丸に集まった。
勘定所・境目方役所・安楽院(祈祷所)・時鐘・金蔵・厩などがおかれ、特に、二の丸広場は多数の家臣が集まる際の集合場所として利用されたほか、能や踊りの見物のために町人に開放されることもあった。
(説明標柱より)
平成14年10月5日訪問 | 平成26年11月21日再訪問 |
秋田市立 佐竹史料館 (安楽院・勘定所・境目方役所跡) |
若山牧水の父子碑 (平成26年11月21日) |
長坂門跡 (平成26年11月21日) |
長坂門跡
長坂門は本丸の玄関口である表門(一の門)の前に設けられており、二の門とも呼ばれていた。
現在、久保田城跡に唯一残っている御物頭御番所(秋田市指定文化財)がこれらを管理していた。
長坂門の名称は、二の丸から本丸へとのぼる長い石段「長坂」にちなんで名付けられたものである。
(説明標柱より)
平成14年10月5日訪問 | 平成26年11月21日再訪問 |
久保田城表門 |
久保田城表門
表門は久保田城本丸の正面で、一ノ門とも呼ばれていた。
本丸の玄関口として警備上からも重要な地点とされており、左手には門の警備と管理をする「御番頭局ごばんがしらべや」、門の下手には侵入者を警戒する「御物頭御番所おものがしらごばんしょ」を置いて厳重な守りを固めていた。
久保田城は慶長8年(1603)に築城して翌年に完成し、表門は元和8年(1622)に最初の建て替えが行われている。
その後、寛永10年(1633)、安永7年(1778)など何度か火災に見舞われている。
この門は、絵図などの文献資料や発掘調査の成果をもとに再建したもので、構造は木造二階建て瓦葺き櫓門やぐらもんであり、佐竹20万石の正門にふさわしい壮大なものとなっている。
平成13年3月 秋田市
(説明板より)
説明板より
御物頭御番所 (平成26年11月21日) |
御物頭御番所おものがしらごばんしょ
御物頭は秋田藩の行政機構の中では番方に属す役職であり、配下の足軽を指揮して二の門(長坂門)の開閉及び城下一帯の警備を担当した。
御番所の南側14畳の部屋に物頭が詰めて登城者を監視した。
北側には7畳半の休息所や台所・便所があり、中二階には8畳の部屋が配置されている。
『国典類抄』などの史料によれば、御物頭御番所は宝暦8年(1758)に焼失したのち再建され、安永7年(1778)以降の火災では類焼を免れたと考えられることから、建築年代は18世紀後半と推定される。
久保田城内で旧位置のまま今日まで残っている唯一の建造物である。
昭和63年3月、保存修復工事を行い、平成2年に秋田市文化財に指定された。
形式 切妻造南庇付 こけら葺屋根
間口 約10.5m(5.5間)
奥行き 約9.5m(5間)
平面積 約100u(30坪)
平成13年11月 秋田市
(説明板より)
御本丸跡 (平成26年11月21日) |
久保田城本丸跡
久保田城が築かれた神明山しんめいやまは、3つの高地からなる標高約40メートル程の起伏のある台地で、別名三森山みつもりやまとも呼ばれていた。
築城は慶長8年(1603)5月から着工され、翌9年8月に完成した。
本丸は、最も高い所を削平や土盛をし、平らにして造られた。
東西65間(約117メートル)、南北120間(約215メートル)のほぼ長方形を呈し、周囲には高さ4〜6間半(約7.3メートル〜11.8メートル)の土塁を構築している。
本丸の建造物には、表門から入った正面に玄関が置かれ、政庁である政務所が設けられており、池を配した中央部には藩主の住居である本丸御殿があった。
また、土塁の上を多聞長屋たもんながやと板塀で囲み、要所には隅櫓を置き、北西隅には兵具庫を兼ねた御隅櫓おすみやぐらを設けた。
西南隅の土塁上には櫓座敷と呼ばれた書院風二階建ての「御出おだし書院しょいん」が造られた。
出入口は周囲に表門(一ノ門)、裏門、埋門うずみもん、帯曲輪門おびくるわもんの4門に、御隅櫓に通じる切戸口があった。
平成6年12月
秋田市
(説明板より)
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隅櫓 (平成26年11月21日) |
久保田城御隅櫓くぼたじょうおすみやぐら
この御隅櫓はもと城内に8ヵ所あった櫓の一つで本丸の北西隅 一番高い台地 (標高約45メートル)に位置しており 物見や武器の貯蔵庫などに使われたものです
資料と発掘調査に基づき 当時の二階造りを基本としてその上に市街地が一望できる 展望室を加えました
市制施行百周年記念事業として21世紀にむけての市制の発展を願い 千秋公園の 歴史的シンボルとなるよう復元したものです
構造形式 鉄筋コンクリート造り三層
4階建屋根本瓦葺入母屋造り
間 口 19.70メートル
奥行き 7.88メートル
高 さ 21.85メートル
総床面積 430.3平方メートル
床面積
1階 165.83平方メートル
2階 185.28平方メートル
3階 59.00平方メートル
4階 47.26平方メートル
秋田市制百周年記念日
平成元年(1989)7月12日 秋田市
(説明板より)
隅櫓から見た景色 (平成26年11月21日) |
展示写真
明治初期の久保田城
手前に穴門橋と左上に御隅櫓、右上に御出し書院を望む。
(説明文より)
多門長屋跡 (平成26年11月21日) |
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埋門跡 (平成26年11月21日) |
埋うずみ門跡
埋門は本丸の背面(西側)に設けられ、土手を切って出入口とし、その上に多門長屋を渡した一種の隠し門である。
門は西曲輪くるわの兵具蔵に通じており、攻撃や防御、また緊急避難的な役割をはたしたと考えられる。
(説明標柱より)
歩兵第十七聯隊之碑 (秋田県秋田市・久保田城址) 十七比島会長尾張三郎 謹書 (平成26年11月21日) |
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八幡秋田神社 (平成26年11月21日) |
八幡秋田神社説明板
八幡秋田神社は、初代藩主佐竹義宣公始め、歴代の藩主を祀る、秋田県の有形重要文化財でありましたが、平成17年1月9日の放火により社殿を焼失しました。
以来、皆々様のお力を戴きまして、平成20年12月に竣工することができました、これも偏に皆様の御陰様と心より感謝をし、厚く御礼を申し上げます。
又、社殿の再建は成りましたが、皆様より尚一層のご理解、力強いご支援、ご協力を賜ります様、切にお願い申し上げます。
平成21年10月吉日
八幡秋田神社
穴門跡 (平成26年11月21日) |
穴門跡
穴門は、外町や土崎湊へ通じる重要な門であった。
ここに二層の一の門があり、足軽番所を置いて警備をしていた。
その西方に二の門があり、そこから外堀の穴門橋(木橋)を渡って通町方面へ通じていた。
一の門は、当初湊城の門を移したものであったが、安永5年(1776)の外町とまちの大火で類焼した。
その後再建されたが、維新後とりこわされた。
(説明標柱より)
秋田藩
時代 | 西暦 | 和暦 | 藩主 | 事項 | 歴史的事項 |
安土桃山 | 1602 | 慶長 7 | 佐竹義宣 | 佐竹義宣秋田に移封される | |
江戸 | 1603 | 慶長 8 | 久保田城の築城を始める 領内最初の総検地を実施 院内銀山開坑 |
徳川家康 征夷大将軍 に任ぜられる |
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1604 | 9 | 久保田城竣工 | |||
1607 | 12 | 久保田城下の町割りが始まる | |||
1613 | 18 | 第2回総検地を実施 | |||
1614 | 元和 1 | 大阪冬の陣 | |||
1615 | 2 | 大阪夏の陣 | |||
1616 | 3 | 家康没す | |||
1620 | 6 | 一国一城令により、十二所・角館 湯沢・檜山城を破却 |
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1623 | 9 | 3代将軍家光 | |||
1630 | 寛永 7 | 久保田・湊・大館・十二所・能代 横手に町代官を置く |
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1632 | 9 | 久保田城下大洪水し町内浸水 | |||
1633 | 10 | 佐竹義隆 | 義宣、江戸で歿す(64歳) 義隆よしたか2代目藩主となる 久保田城焼失 |
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1637 | 14 | 島原の乱 | |||
1643 | 正保 2 | 第3回総検地を3年間に渡り実施 | |||
1650 | 慶安 3 | 久保田大火、2,000軒焼失 | |||
1651 | 4 | 4代将軍家綱 | |||
1655 | 明暦 1 | 初めて土崎湊から東廻り廻船を江戸に出す | |||
1664 | 寛文 4 | 初めて領地判物(20万5800石)を与えられる | |||
1672 | 12 | 佐竹義処 | 義処よしすみ3代藩主となる | ||
1674 | 延宝 2 | 久保田大火、1966軒焼失 | |||
1680 | 8 | 5代将軍綱吉 | |||
1685 | 貞享 2 | 生類憐みの令 | |||
1689 | 元禄 2 | 松尾芭蕉、象潟に来遊 | |||
1692 | 5 | 秋田藩の人口、34万6411人となる | |||
1702 | 15 | 赤穂浪士討入り | |||
1703 | 16 | 佐竹義格 | 義処、江戸よりの帰途に 横手城中で没す(67歳) 義格よしただ4代藩主となる |
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1709 | 宝永 3 | 6代将軍家宣 | |||
1712 | 正徳 1 | 7代将軍家継 | |||
1715 | 5 | 佐竹義峯 | 義格、没す(22歳) 義峯よしみね5代藩主となる |
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1716 | 6 | 8代将軍吉宗 | |||
1730 | 享保15 | 久保田大火、1110軒焼失 | |||
1732 | 17 | 享保の飢饉 | |||
1737 | 元文 2 | 川尻村に鋳銭所を設ける 翌年より鋳銭を始める |
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1745 | 延享 2 | 幕命により、秋田の鋳銭座停止される | 9代将軍家重 | ||
1746 | 3 | 領内の人口、38万4592人となる | |||
1749 | 寛延 2 | 佐竹義真 | 義峯、没す(60歳) 義真よしまさ6代藩主となる |
||
1753 | 宝暦 3 | 佐竹義明 | 義真、没す(22歳) 義明よしはる7代藩主となる |
||
1754 | 4 | 銀札を発行 | |||
1755 | 5 | 銀札発行により各地で騒ぎ起こる 大凶作で米価高騰 |
|||
1757 | 7 | 銀札事件(秋田騒動)起こる 久保田町大火、1288軒焼失 |
|||
1758 | 8 | 佐竹義敦 | 義明、没す(36歳) 義敦よしあつ8代藩主となる |
||
1760 | 10 | 10代将軍家治 | |||
1772 | 安永 1 | 老中・田沼意次 | |||
1778 | 7 | 久保田城本丸全焼 | |||
1783 | 天明 3 | 久保田城下外町大火、1956軒焼失 | |||
1784 | 4 | 大飢饉 | |||
1785 | 5 | 佐竹義和 | 義敦、江戸邸で没す(38歳) 義和よしまさ9代藩主となる |
||
1786 | 6 | 11代将軍家斉 | |||
1787 | 7 | 老中・松平定信 | |||
1795 | 寛政 7 | 平田篤胤、20歳で江戸に上る 藩校に医学館を併置 |
|||
1802 | 享和 2 | 伊能忠敬、秋田地方を測量する | |||
1804 | 文化 1 | 鳥海山地震、象潟隆起して陸地となる | |||
1810 | 7 | 男鹿地震、寒風山噴火 | |||
1815 | 12 | 佐竹義厚 | 義和、没す(41歳) 義厚よしあつ10代藩主となる |
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1825 | 文政 8 | 異国船打払令 | |||
1828 | 11 | シーボルト事件 | |||
1834 | 天保 5 | 大凶作、疫病で死者5万2464人 | |||
1837 | 8 | 12代将軍家慶 大塩平八郎の乱 |
|||
1841 | 12 | 天保の改革 | |||
1843 | 14 | 老中・阿部正弘 | |||
1846 | 弘化 3 | 佐竹義睦 | 義厚、江戸邸で没す(35歳) 義睦よしちか11代藩主となる |
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1849 | 嘉永 2 | 久保田町大火、 内町2500件、外町2,000軒焼失 |
|||
1853 | 6 | ペリー来航 | |||
1854 | 安政 1 | 土崎湊に西洋流砲台を築き 海岸防備を強化 |
|||
1857 | 4 | 佐竹義堯 | 義睦、没す(19歳) 義堯よしたか12代藩主となる |
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1858 | 5 | 14代将軍家茂 大老・井伊直弼 安政の大獄 |
|||
1860 | 万延 1 | 桜田門外の変 | |||
1862 | 文久 2 | 生麦事件 | |||
1863 | 3 | 江戸市中取締役の幕命を拒否して 義堯帰国する |
薩英戦争 | ||
1864 | 元治 1 | 第1回長州征伐 | |||
1865 | 2 | 第2回長州征伐 | |||
1866 | 慶応 2 | 秋田領内で台風の被害甚大、大凶作 | 15代将軍慶喜 薩長連合 |
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1867 | 3 | 大政奉還 | |||
明治 | 1868 | 明治 1 | 鳥羽伏見の戦い 江戸無血開城 |
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1869 | 明治 2 | 版籍奉還により、義堯、知藩事に任命される | 戊辰戦争終結 版籍奉還 |
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1871 | 4 | 久保田藩を秋田藩と改める 由利・鹿角を合わせて秋田県となる |
廃藩置県 | ||
1872 | 5 | 本丸(千秋公園)において秋田県庁開庁する | 新橋〜横浜間 鉄道開通 学制公布 |
(リーフレット『佐竹史料館』を参考に作成)
旧下亀ノ丁 (平成26年11月21日) |
旧下亀ノ丁
慶長年間に町割りされた職人を中心とした町である。
江戸時代の社交場であった髪結い床(理髪店)も多く町人の憩いの場として賑わい、城下の情報が集まった地域である。
(説明標柱より)
旧茶町菊ノ丁 (平成26年11月21日) |
旧茶町菊ノ丁
茶・紙・絹・砂糖などの専売権をもっていた商人の町である。
慶長12〜3年(1607〜8)ころに町割りされ、茶町1丁目と呼ばれた時もある。
(説明標柱より)
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