工藤祐経 くどう・すけつね

久安3年?(1147年?)~建久4年5月28日(1193年6月28日)


平安末~鎌倉初期の武将。
京に上り平重盛に仕えるが、その間に一族の伊東祐親に伊豆国伊藤荘(現・静岡県伊東市)を奪われる。
安元2年(1176年)、その恨みから従者に命じて祐親の嫡子・河津祐泰すけやすを暗殺。
元暦元年(1184年)以前、関東に下り源頼朝に仕え、平家追討や奥州合戦にも参加した。
在京中に養った文化的教養から頼朝に厚く信任され、囚人として鎌倉に下った平重衡の接待を命じられたり、源義経の妾・静が鶴岡八幡宮社頭で舞った際には鼓を奏したりした。
建久4年(1193年)、富士の巻狩の折、河津祐泰の遺児・曽我兄弟に父の敵として殺害された。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月 第1版第1刷発行)






工藤祐経の墓

(静岡県富士宮市上井出361)




(平成25年12月14日)
工藤祐経の墓

工藤祐経すけつねの墓

建久4年(1193年)5月28日、しのつく雨の夜、工藤祐経は、曽我兄弟の仇討あだうちにより、陣屋じんやで殺害されました。
富士の巻狩まきがりの夜に起きたこの事件は、当時大騒動になりました。
曽我兄弟の兄十郎は、仁田にった四郎によって斬殺ざんさつされ、弟五郎は、捕らえられ翌日処刑されました。

この墓は、曽我兄弟によって討たれた工藤祐経が、この地に埋められたと伝えられることから、長い間ひっそりと守られてきました。
この西方にある「曽我の隠れ岩」とともに、この地が、武士道を象徴する三大仇討の一つの舞台となった歴史をしのばせてくれます。
なお、この東南約1kmのところ、上井出字上原かみいであざわはらには、源頼朝の命によって兄弟の霊をなぐさめるために建てられた曽我八幡宮があります。

富士宮市

(説明板より)




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