熊谷直実 平成18年10月19日

熊谷直実 くまがい・なおざね

永治元年2月15日(1141年3月24日)〜承元2年10月25日(1208年12月4日)
(※ 没年:承元2年9月14日の説あり)

埼玉県熊谷市・JR熊谷駅前でお会いしました。


平治の乱には源義朝方に属するが、乱後、京都大番役勤務中に平知盛に仕える。
治承4年(1180年)石橋山の戦で平家方の大庭景親に従うが、まもなく源頼朝に服す。
2年後、本領の武蔵国大里郡熊谷郷(現・埼玉県熊谷市)の地頭職を安堵される。
源義仲や平家との戦いでも活躍し、一の谷の戦では先陣を争い、平敦盛を討ち取る。
文治3年(1187年)流鏑馬やぶさめの的立て役を忌避して所領の一部を没収される。
建久3年(1192年)久下くげ直光との所領争いで不利な裁決が下ると、上洛して法然の門下に入る。
法名は蓮生れんしょう


熊谷之次郎直実像



『熊谷之次郎直實』像

(埼玉県熊谷市・JR熊谷駅前)

銅像を説明する説明板・碑文等なし



(平成18年10月19日)

熊谷市のあゆみ

熊谷の歴史は古く、縄文・弥生時代にまでさかのぼります。
8世紀ごろに敷かれた条里制が今も別府・奈良・中条・星宮地区に残されています。
また、平安時代から鎌倉時代にかけて、関東地方で武士が台頭し始めると、熊谷地方の武士は“武蔵武士”としてめざましい活躍をしました。
その中でも一の谷の合戦で平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実(正面の銅像で北村西望作)はあまりにも有名です。
江戸に幕府が移されると、江戸の日本橋から熊谷を通り、長野・木曽を経て京都に至る中山道が主要な道路となり、それ以後、熊谷は重要な宿場町として栄えました。
中山道と合わせ秩父街道への分岐点「熊谷宿」として交通の要衝の役割を担い、また商業都市としての形態も整え大きく発展しました。
同時に荒川その他の河川を利用した舟運によって江戸をはじめ各地と交流しており、現在の商業都市としての機能はすでにこの時代から備えていたといえます。
明治16年7月に上野―熊谷間61.1kmの鉄道が開通し、中山道の宿駅であった熊谷は、交通手段が徒歩から鉄道へ移り、さらに発展を続けてきました。
昭和8年に県下で2番目に市政を施行し、秩父や県北地域の広域圏の商業中心都市として機能してきました。
第2次世界大戦の末期には戦災を受け、市街地の大半を焼失しましたが、いち早く戦災復興計画基本方針に基づき特色ある都市づくりを行い、みごとに復興を遂げ、今日では県北の中核都市、新幹線都市として発展しています。

(駅前の説明板より)


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