久米平内 くめのへいない

?〜天和3年6月6日(?)(1683年7月29日)(?)


江戸前期の武術家。
一般には縁結びなどに霊験があるとされる江戸浅草寺の久米平内石像で名を知られるが、像自体は後世の別人とする説もある。
九州から江戸に出て、陸奥国泉藩主・内藤政親らに一時出仕したという説などがあるが、経歴の詳細は不明。
本姓は兵藤氏で、武勇を頼み辻斬りなどを行なったとされる。
没年についても、貞享元年(1684年)とする説がある。


久米平内堂



久米平内堂
(東京都台東区浅草・浅草寺)




(平成17年1月20日)
久米平内堂



久米平内堂






(平成17年1月20日)

久米平内堂くめのへいないどう

台東区浅草2−3

久米平内石像で世に知られた平内堂は、昭和20年3月の戦災で焼失。
現在のお堂は同53年10月浅草寺開創1350年記念に浅草観光連盟が建立・寄進したものである。
『増訂武江年表』(東洋文庫)に、平内は天和3年(1683)に没したとあるが、その生涯については諸説があって明らかではない。
平内堂には次のような伝承がある。
平内は剣の道にすぐれ、多くの人をあやめた。
その供養のため、仁王坐禅の法を修行し、後年、浅草寺内の金剛院に住んで禅に打ちこみ、自らの坐禅の像を刻ませ、お堂に祀った。
臨終にのぞみ犯した罪を償うため、この像を人通りの多い浅草寺境内に埋め多くの人に踏んでもらい、その後、お堂に納めたという。
「踏付ふみつけ」が「文付ふみつけ」に転じ、願文がんもんをお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸中期以降、特に縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
平内の墓は、海蔵寺(文京区向丘2−25−10)にある。

昭和63年10月

浅草観光連盟
台東区教育委員会

(説明板より)



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