倉場富三郎像 平成19年3月26日

倉場富三郎 くらば・とみさぶろう

明治3年12月8日(1871年1月28日)〜昭和20年(1945年)8月26日

長崎県長崎市・グラバー園『旧グラバー住宅』でお会いしました。


倉場富三郎像



倉場富三郎像

(長崎市・グラバー園『旧グラバー住宅』)





(平成19年3月26日)

倉場富三郎像

トミー・グラバは明治3年(1870)12月8日長崎市西小島町に生る。
日本に帰化し学習院に学ぶ。
英国紳士の君は、紋服、袴も持ち又諏訪神社の氏子。
トロール船を購入遠洋漁業を創立した。
水産県長崎の功労者であり、内外倶楽部を設立、日本と外国との親善につとめその誠実さは終生変わることがなかった。
終戦の年神経衰弱症昂じ昭和20年8月26日逝去、坂本町国際墓地に葬る。

昭和37年9月
長崎内外倶楽部閉鎖清算委員会

(碑文より)

倉場富三郎



倉場富三郎
(展示パネルより)





(平成19年3月26日)

倉場富三郎(1870〜1945)

1870(明治3年)トーマス・B・グラバーの息子として生れた。
アメリカのウエスレヤン大学とペンシルベニア大学に留学し、生物学 特に魚類を専攻した。
帰国後ホーム・リンガー商会に社員として入社した。
入社後 下関支社への転勤を命じられ約1年間下関に勤務し1893(明治26年)長崎にもどり その後 中野ワカとグラバー住宅の自宅でささやかな結婚式を挙げた。
リンガー商会勤務の彼は、年と共に昇進を重ね重役まで勤めた。
又、著名な日本人 外国の商人 政治家及び役人と共に「内外倶楽部」という英国風の男性クラブを結成した。
この倶楽部は、“多国民社会”長崎を一つにするのと同時に日本の政財界とを結ぶコミュニケーションの場としての役割を果たした。

水産国 日本の父

1907年(明治40年)10月ホーム・リンガー商会は、日本で初めて蒸気トロール船を取り入れた「長崎汽船漁業」を設立し、専務取締役に富三郎が任命された。
彼は、ただちにアバディーン在住の知人を通して、蒸気トロール船購入手配をするなど力をつくし、新会社を急速に発展させ日本の漁業会社のリーダー的存在となった。
「長崎汽船漁業」は、4隻のトロール船をフル操業させ今日の水産県長崎への大きな第一歩となった。

鶴江丸



日本最初のトロール漁船の1隻「鶴江丸」
(展示パネルより)





(平成19年3月26日)

グラバー魚譜(日本西部及び南部魚類図譜面)

トロール船が最初の出漁から帰港して以来港には、水揚げされる魚を見つめる富三郎の姿があった。
彼は、アメリカ留学時に生物学を専攻し動物や魚の綿密な水彩画と銅板画を学んでいた事を思い出していた。
欧米では、大掛かりな魚譜があり日本でもそのような魚譜を作成する必要があると考えていたのであった。
1912年(明治45年)富三郎は、地元の画家を使って写生を開始、ここにうろこの数までも正確に描くという前代未聞のグラバー魚譜がスタートしたのであった。
魚譜の完成には、4名の画家により21年の歳月と莫大な費用がかかり、今日の日本四大魚譜の一つに数えられるグラバー魚譜が完成した。
この魚譜は、水彩画558種、写生画700種、更に123枚の貝及び鯨の魚譜を含み823枚が長崎大学図書館に保存され、活用されている。

(解説文:『旧グラバー住宅』展示パネルより)

旧グラバー住宅



旧グラバー住宅

(長崎市・グラバー園)





(平成19年3月26日)

【倉場富三郎の死】

富三郎は、日本初のトロール船を購入したり、遠洋捕鯨の草分け的功業を残した人物で、中でも日本人画家4人を指導して20年余りかけて制作した南西海域の魚を描写したグラバー図鑑は、水産業界でも高く評価されている。
ところが、日英混血ということで、第二次大戦中、スパイの嫌疑をかけられ続け、終戦直後の昭和20年8月26日、失意のうちに、長崎市松ヶ枝町の自宅でピストル(?)自殺した。
76歳だった。

1986年10月の新聞紙面で、富三郎のこのピストル自殺に触れたところ、数日後に電話がかかってきた。
長崎の南山手に住むウォーカー・アルバートという人物で、「トミー(富三郎のこと)は、ピストル自殺なんかじゃない、首吊りです。事実を書いてください。でなきゃあ、トミーが可哀想ですよ」と涙声で語って電話を切った。

富三郎の死を悼んで、友人が綴った『トミーの思い出』(小曽根均治郎)には、「富三郎は典型的な英国紳士であり、そしてまた完全に日本人になり切ろうとしていた。生活も和洋をとり入れ、日本の紋服やハカマを持ち、諏訪神社の氏子にまでなっていた」と書かれている。
富三郎には子はなく、今、グラバーの血を引く者は、富三郎の姉ハナの娘が、アメリカにいるという。

(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)

(令和元年10月19日 追記)


倉場家の墓

倉場家之墓
(長崎県長崎市・坂本国際墓地)

倉場富三郎 明治3年12月8日誕生
昭和20年8月26日永眠 行年76歳
倉場富三郎妻ワカ 明治8年8月15日誕生
昭和18年5月4日永眠 行年59歳


(平成20年11月22日)
グラバー家墓地



グラバー家墓地
(長崎県長崎市・坂本国際墓地)





(平成20年11月22日)

市指定史跡 グラバー家墓地
指定年月日 平成16年6月3日
所在地 長崎市坂本町 坂本国際墓地
所有者 長崎市

トーマス・ブレイク・グラバーは、明治44年(1911)12月16日、東京麻布の自邸で死去した。
遺体は荼毘だびに付されたのち、長崎での葬儀が同年12月に行われた。
現在の墓碑が完成したのは翌年8月のことらしい。
ここにはグラバーの遺骨に加えて、明治32年(1899)に太平寺に葬られた妻ツルの分骨も合葬されている。
その隣には「倉場家之墓」と刻された墓碑が建っており、昭和18年(1943年)に死去した息子富三郎の妻ワカと、第二次世界大戦終結直後の昭和20年8月26日に自死した富三郎が埋葬されている。
グラバー父子の生涯は、日本の近代化と密接な関係を有している。
墓地の管理と保存は、長崎の地域史だけでなく幕末維新史、日本近代産業史からも意義あることである。

長崎市教育委員会(平成17年3月設置)

(説明板より)


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