黒田清隆像平成22年5月26日

黒田清隆 くろだ・きよたか

天保11年10月16日(1840年11月9日)〜明治33年(1900年)8月23日

北海道札幌市・大通公園でお会いしました。


尊皇攘夷運動に携わり、戊辰戦争では追討参謀として活躍。
五稜郭開城に際しては榎本武揚を助命した。
明治維新後、開拓次官、のちに参議兼開拓長官として北海道開発に尽力。
樺太・千島交換条約の実現や西南戦争でも尽力した。
大久保利通の死後は薩摩閥の長老として、北海道の官有物払い下げ中止に反対して明治14年の政変で辞任。
第一次伊藤博文内閣で農商務相。
明治21年(1888年)には首相となり、憲法発布の際に超然主義の演説を行なった。
大隈重信外相と条約改正を試みたが失敗。
首相辞任後は元老として活動。
第二次伊藤内閣の逓信相、枢密院議長などを務めた。


黒田清隆の像




黒田清隆之像
(札幌市・大通公園・西10丁目)





(平成22年5月26日)

【碑文】

黒田清隆は鹿児島県の人。
明治3年開拓次官、のち開拓長官に任ぜられ、北海道開拓の大任にあたった。
清隆はその性、明察果断にして、開拓の知識を先進国に学ぶ必要を痛感し、自ら海外におもむき知見を広めるとともに、ホーレス・ケプロンをはじめ、多数の外国人技師を招き、その進言を入れ、着々開拓の巨歩を進めた。
北海道開発の基礎は、まさに清隆の卓見により確立したものというべく、その勲業まことに偉大である。
ここに北海道百年を迎えるにあたり、その偉業を回顧し、功績を永く後代に伝えるため、この像を建立する。

昭和42年10月
北海道開拓功労者顕彰像建立期成会
会長 ■■■一


【樺太問題と北海道開発】

幕末に樺太の国境画定問題が解決しなかったため、樺太には、日本人、ロシア人の雑居生活が続けられていたが、さまざまな紛糾は避けられなかった。
1869年(明治2年)6月には、ハッコトマリ(函泊)の日本人漁場に突然ロシア兵が侵入してきて、家の建築をはじめ、囚人や農民を移住させ、日本人の漁場を妨害することが起こった。

明治政府は、ロシアの侵入に備えるため、黒田清隆を開拓使次官に任じ、樺太に派遣した。
黒田は、各地を視察して回り、「樺太の維持は、今後3ヵ年しか保てない」という悲観的な結論に達した。
彼は、「樺太を放棄して、北海道開拓に全力を尽くした方がいい」と政府に意を述べた。
それから、樺太開拓使が廃止され、北海道と同じ行政管内に復帰することになり、北海道開拓使の下に樺太支庁が設置された。
黒田は、開拓使長官となり、アメリカからケプロン一行の顧問を招き、北海道開発に全力を尽くした。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)


【妻を斬殺】

黒田には酒乱の気があり、深酒すると理性の抑えがきかなかった。
明治10年の西南戦争で功績を挙げたあと、最初の妻・お清きよを酔った勢いで斬殺した。
この事件は秘密裏に処理されたが、近い人たちの間では公然の秘密で、明治天皇の耳にも達して一時彼を遠ざけられた。

(参考:『歴史読本 2001年3月号』 新人物往来社 発行)

(令和2年9月7日 追記)


【酒乱】

黒田は薩摩出身でありながら、西南戦争では西郷隆盛を征伐する羽目となり、心がすさんでいた。
大久保利通が明治11年(1878)に暗殺されてからは、西郷従道と薩閥の双璧をなしていたが、長州が政治の実権を握ったこともあって、酒乱に拍車がかかっていた。
それをなだめるのが西郷従道の役目でもあった。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月5日 追記)




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