久留米城 くるめじょう

(別称:篠山ささやま城)

福岡県久留米市篠山町


久留米城の石垣 平成16年6月12日

久留米城趾

戦国時代より土豪・豪族の間に、この古城をめぐって興亡の歴史を綴りながら、元和7年(1621)有馬豊氏丹波福知山より転封入城し、以降廃藩に至るまで11代250余年の間、有馬家累代の居城として藩府が置かれていました。
本城は北西に筑後川を自然の濠とし、天恵の地勢を活用したすこぶる険要の地にあります。
築城法は平山多聞たもん造りで、高い白土の城壁にそびえたつ二層と三層の7つの櫓やぐらがあり、本丸東南隅の三層建の巽たつみ櫓は壮大な偉容を誇っていました。
現在は石垣だけが残り、城内には有馬三氏を祀る篠山神社や、有馬家資料を展示する有馬記念館があります。
春は花見、6月はしょうぶ、8月25日には鈴虫祭と、市民の憩いの場となっています。

(説明板より)

久留米城本丸趾入口 久留米城本丸跡入口
篠山神社 本丸跡には『篠山神社』が建っています。
小早川神社



小早川神社

篠山神社境内(久留米城本丸跡)にある古くて小さな神社です。




(平成16年6月12日)

小早川神社

当神社の御祭神は旧久留米城主の毛利秀包公であります。
公は毛利元就公の末子として永禄10年(1567)安芸国に出生、初名は元総、一時、兄の小早川隆景の養子となったので、小早川神社と称します。
豊臣秀吉に仕え戦功により久留米城主と成りましたが、関ヶ原の戦で西軍に組した為に領地を失い、本家の領地で慶長6年(1601)に没しました。
秀包公は妻(豊後のキリシタン大名大友宗麟の七女)の引地と共に熱心なキリシタンでしたので、この神社の扉にはアンドレアス十字が刻まれています。

(説明板より)

本丸趾 久留米城本丸趾

久留米城沿革

永正えいしょう年間(1504〜1521)地元の土豪が城砦を築いたのが始まりです。
近世城郭の始まりは、豊臣秀吉の九州平定後(1587)毛利元就の子である秀包ひでかねが入ってからです。
秀包は中世城郭を改築。
秀吉から貰った大坂城の一室をここに移し『大阪書院』と号しました。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで毛利秀包は西軍に属したため改易。
翌年、石田三成捕縛で功績を上げた岡崎城主の田中吉政が柳川城に入り、当時支城だった久留米城には次男の吉信が入り、城郭の改修が行なわれました。
元和げんな6年(1620)柳川城主・田中忠政が病死後、嗣子がいないため断絶。
柳川城には立花宗茂が入り、久留米城には丹波たんば福知山城から有馬豊氏が入りました。
以後、有馬氏11代の居城となります。
有馬豊氏は、知行高に応じた新家臣団の構成と領内の古城の石材を再利用して石垣を築いたり堀を構築したり、順次城郭の拡張を行ない、城下町の建設に着手しました。
明治に入り廃城となりました。

久留米城の特徴

本丸のみ石垣で築き、周囲には隅櫓すみやぐら7棟(すべて三層)を配し、それらの間を多聞(すべて二層)で囲むという堅固な構成になっているのが特徴です。

蜜柑丸跡

蜜柑丸跡

この場所には蜜柑丸と称する腰曲輪があり、蜜柑が植えられていたためとの呼び名がある。
後には、御宝蔵が設けられた。
(久留米市の説明石碑より)


(平成16年6月12日)

筑後川の土手から見た本丸跡 筑後川の土手から見た本丸跡

有馬氏

名前 説明
初代 豊氏とようじ 天文2年 播州三木郡満田城で生まれる。
元和6年12月8日 久留米城就封。筑後八郡21万石領有。
寛永19年9月 没。74歳。
2代 忠頼ただより 慶長8年 丹波福知山城で生まれる。
寛永19年11月5日 襲封。
承応4年3月20日 没。53歳。
3代 頼利よりとし 承応元年 江戸邸で生まれる。
明暦元年7月3日 襲封。
寛文8年6月24日 没。17歳。
4代 頼元よりもと 承応3年8月25日 久留米城で生まれる。2代・頼利の弟。
寛文8年8月21日 襲封。
宝永2年7月20日 没。52歳。
5代 頼旨よりむね 貞享2年6月3日 久留米城で生まれる。
宝永2年9月5日 襲封。
宝永3年4月8日 没。22歳。
6代 則維のりふさ 延宝2年3月3日 石野則員の第二子として生まれる。
宝永3年 頼旨の養子となる。
宝永3年5月21日 襲封。
享保14年7月6日 隠居。
元文3年4月1日 没。65歳。
7代 頼僮よりゆき 正徳4年11月24日 久留米城で生まれる。
享保14年7月6日 襲封。
天明3年11月23日 没。70歳。
8代 頼貴よりたか 延享3年4月2日 久留米城で生まれる。
天明4年1月23日 襲封。
文化9年2月3日 没。67歳。
9代 頼徳よりのり 寛政9年6月22日 江戸邸で生まれる。8代・頼貴の孫。
文化9年3月18日 襲封。
天保15年4月23日 没。48歳。
10代 頼永よりとう 文政5年3月23日 久留米城で生まれる。
弘化元年6月17日 襲封。
弘化3年7月3日 没。25歳。
11代 頼咸よりしげ 文政11年7月17日 久留米城で生まれる。10代・頼永の弟。
弘化3年10月12日 襲封。
明治7年2月 隠居。
明治14年5月21日 没。54歳。
12代以降は略しました。

(参考文献:『久留米藩政史年表及び有馬氏系図』)


有馬記念館

有馬記念館
(久留米市篠山町444番地)

開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:毎週火曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
入館料:高校生以上100円


(平成16年6月12日)

記念館の概要

有馬記念館の位置する久留米城は、江戸時代のほとんど、約250年間を治めた有馬氏の居城跡で、古くは笹原城とも呼ばれていました。
天正15年(1587)、近世大名として初入城したのが、毛利秀包で、その後田中則政が居城し、さらに有馬豊氏が福知山から転封され、以来廃藩置県までの居城跡です。
今は、平山城づくりの本丸跡が残るのみですが、見事な城の石垣、正面側(南側)の内濠に昔の姿をしのぶことができます。
本記念館は、この久留米城本丸跡にあり、有馬家資料を中心とした久留米藩政資料を主に展示し、併せてこの久留米市の発展の基礎となった城下町久留米の変遷を当時の絵図を中心に展示したコーナーも設けております。
本館の見学を通じて、久留米の歴史と文化に対してご理解を頂き、私達の祖先が残してくれた貴重な文化遺産を次の世代に伝えていくてだてとなれば幸いです。

(パンフレットより)

『久留米藩政史年表及び有馬氏係図』
監修・財団法人有馬記念館保存会 理事 古賀幸雄
久留米市史全巻出版記念文化講演録
『明治維新と久留米藩難〜有志者たちの先駆的運動と挫折〜』
平成15年7月31日発行 著者:古賀幸雄

黒豚角煮入りラーメン 黒豚角煮入りラーメン(とんこつしぼり)
文化街の『満洲屋が一番』
コーヒーと生クリーム
コーヒー

一番街入口の喫茶店『カルディー』

コーヒーを頼んだら、アイスクリームのようなものが出てきた。
何かと思ったら生クリーム!
久留米では、これは普通なんだそうです。
驚きました。

(平成16年6月12日)


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