久坂玄瑞像 平成15年7月25日

久坂玄瑞 くさか・げんずい

天保11年(1840年)〜元治元年7月19日(1864年8月20日)

山口県萩市郊外の萩往還公園(道の駅)でお会いしました。


幕末の萩藩士。
藩医・久坂良廸りょうてきの次男として生まれる。
藩校・明倫館に入学、ついで吉田松陰に学び、高杉晋作とともに松下村塾の双璧と称されました。
安政4年(1857年)松陰の妹・文あやと結婚。
安政5年、江戸に遊学して蘭学・医学を修行、翌年帰藩。
松陰が処刑されると、その遺志を継承し攘夷論を唱え、藩論の航海遠略策を批判しました。
文久2年(1862年)武市瑞山の使者として萩を訪れた坂本龍馬に面会。
藩をこえた草莽そうもうの結合を提示しました。
また攘夷の勅命降下を図って、高杉らと品川のイギリス公使館を焼討ちしました。
翌年、下関で攘夷派公家の中山忠光を擁して光明寺党を結成。
5月10日における攘夷戦では、光明寺党を率いてアメリカ艦を夜襲。
この光明寺党が、のちに奇兵隊の基盤となりました。
8月18日の政変後は、京都・山口間を往復して藩の勢力回復に尽力しました。
当初実力による入京に反対しましたが、元治元年(1864年)6月、藩の方針が京都進発論に決すると諸隊を率いて上洛。
7月19日に禁門の変となり、堺町御門で越後・会津・桑名・薩摩諸藩兵と力戦しましたが、流れ弾にあたって鷹司邸で自刃しました。
享年25歳。

(平成16年8月10日改訂)


久坂玄瑞・吉田松陰・高杉晋作の銅像

萩往還公園に建つ銅像
(山口県萩市)

右:久坂玄瑞
中:吉田松陰
左:高杉晋作


(平成15年7月25日)

久坂玄瑞

天保11年(1840)〜元治元年(1864)
萩城下の平安古で生まれました。
松陰と出会ったのは17歳の頃で、松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と評されました。
松陰の妹の文ふみと結婚して松陰の実家・杉家に同居し、松下村塾での松陰の教育事業を助けていました。
吉田松陰の亡くなった後の村塾ではつねに中心的人物でした。
京都での蛤御門はまぐりごもん(禁門)の変の戦いで負傷し、25歳の若さで亡くなりました。

(説明板より)





久坂玄瑞生誕の地
(山口県萩市平安古町)

石碑は「久坂玄瑞君追憶の碑」です。


(平成15年7月27日)

久坂玄瑞

幕末の志士。
この地に出生。
明倫館に入りのち医学館で学ぶが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。
長井雅樂の航海遠略策に反対し藩論を尊攘討幕に一変させ、、攘夷督促勅使東下の奏請に奔走、英国公使館の焼打ちに下関の外国船砲撃に参加した。
元治元年(1864)蛤御門の変に敗れ、鷹司邸で自刃した。
享年25。

萩市

(説明板より)


翠紅館跡



翠紅館跡

(京都市東山区高台寺南門通)





(平成19年3月17日)
翠紅館跡



翠紅館跡

(京都市東山区高台寺南門通)

京都霊山護国神社に向かう道の右側が翠紅館跡です。



(平成19年3月17日)

翠紅館すいこうかん

ここに、幕末の頃、西本願寺の別邸で、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士たちの会合の場所となっていた。
文久3年(1863)正月27日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。
この数年前から攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の会議で、攘夷の具体的な方法が検討された。
世にこれを翠紅館会議という。
同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし8月18日に政変が起こって攘夷派は失脚、代って公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を加えていった。

京都市

(説明板より)


 (関連商品のご紹介)

久坂玄瑞


 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] カード比較  冷え対策 温泉宿 動画無料レンタルサーバー SEO