楠木正成像 平成15年4月24日

楠木正成 くすのき・まさしげ

永仁2年(1294年)〜延元元年(南朝)・建武3年(北朝)5月25日(1336年7月4日)

東京都・皇居外苑の公園でお会いしました。


”元弘の乱”で、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵しますが落城。
翌年の冬に再度挙兵、千早城で幕府の大軍を引き受けて悪党的戦法で悩ませました。
これらの軍功で建武政権下で河内国司、河内・和泉両国守護となりました。
建武3年=延元元年(1336年)2月、関東から上洛した足利尊氏を九州へ敗走させましたが、5月に尊氏の東上を摂津国湊川(現:神戸市兵庫区)で迎え討ち敗死してしまいました。43歳。


楠正成銅像



楠正成銅像
(東京都千代田区皇居外苑)




(平成16年1月27日再訪問)

楠正成銅像について

皇居外苑に立つこの銅像は、南北朝時代の武将、楠正成(「楠公ーなんこうー」と敬称、1294頃〜1336年)の像です。
鎌倉の北条得宗家による武家政権の打倒を目指した元弘の変(1331年)で、天皇方として戦った正成は、河内国(大阪府)にある赤坂城、千早城に立てこもり、幕府方の軍勢を大いに討ち敗りました。
その間、護良親王(1308〜35年)の檄に応じた武士たちが、各地で幕府に対する反乱を起こし始め、倒幕の気運が高まってきました。
そうした情勢の中、当時隠岐島(島根県)に流されていた後醍醐天皇(1288〜1339年)は、幕府の監視を逃れて島を脱出し、伯耆国(鳥取県)の武将、名和長年(?〜1336年)に迎えられ、船上山にある砦に入りました。
その後、足利高氏(のち尊氏、1305〜58年)や赤松則村(1277〜1350年)によって、当時の京都における幕府勢力の中心地であった六波羅が落とされます。
こうして京都が天皇方の手に落ちたことで、後醍醐天皇は船上山を出て京都に向けて進軍を開始しましたが、その途上、正成が兵庫まで手勢を率いて、進軍中の天皇一行を出迎えた時の姿をかたどったものが、この銅像の姿とされています。
時に元弘3(1333)年。
この時の正成は39歳であったとされ、彼の人生におけるもっとも晴れがましい時の姿として今に伝えられています。
銅像本体の高さは4メートル、台座部分まで含めると8メートルを超す巨大な像で、我が国で初めて分解鋳造された銅像としても知られています。(それまでの銅像は、奈良の大仏のように下から一段一段鋳上げる「登り鋳」や、小さいものを一度に鋳上げる「丸鋳」が一般的でした)。
東京には他にも有名な銅像がありますが、特に皇居外苑の楠正成像、上野恩賜公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像をもって、「東京の三大銅像」と呼称しています。

明治23年(1890)年、伊予国(愛媛県)別子銅山の開坑200年を記念し、時の住友家当主、友忠が、皇室に対する忠臣としてその名を知られた楠正成の銅像を、自らが経営する別子銅山の銅を用いて鋳造し、宮内省(現、宮内庁)に献納することを志しました。
残念ながら友忠は銅像の完成を見ることなく、若くして亡くなりましたが、その遺志を継いで銅像を献納したのが、記文に名を残す住友吉左衛門です。
銅像の制作を依頼された東京美術学校(現、東京藝術大学)では、当時木彫科の主任教授であった高村光雲(「智恵子抄」などで知られる詩人、高村光太郎の父)をはじめ、複数の教授および学生が制作にたずさわり、6年後の明治29(1896)年に完成しました。
その後台座部分が完成し、現在の位置に据付が完了するのは明治33(1900)年ですが、台座部分の記文は銅像完成直後の明治30(1897)年1月の日付が記されています。
記文はすべて漢文で記されており、その読み下し文は以下のとおりです。

臣の祖先友信が伊予別子銅山の銅坑を開いてより、子孫業を継ぎ二百年、亡兄友忠深く国恩に感じ、その銅を用いて楠公正成の像を鋳造し、之を闕下に献ぜんと欲し、允を蒙りて未だ果たさず、臣其の志を継ぎ、工事を董し功竣るに及んで謹んで献す
明治三十年一月 従五位 臣 住友吉左衛門 謹識

闕下:朝廷
允を蒙りて:(像献納の)許可をもらって
董し:監督し
功竣:竣工と同意

尚、この像の正面には記文がはめ込まれている側になりますが、像の顔は正面とは反対側の皇居側を向いています。
これは、皇居に対して顔を背けるのは失礼にあたるという理由によるもので、像の正面から見て顔が反対側を向いているという珍しい作りの銅像でもあります。

(銅像側の無料休憩所でもらった説明文のチラシより)


楠木正成像 平成20年9月20日

茨城県那珂市・一乗院でお会いしました。

忠臣楠公の銅像



忠臣楠公之銅像

(茨城県那珂市・一乗院)





(平成20年9月20日)
日本一の毘沙門天



日本一の毘沙門天
(茨城県那珂市飯田1085・一乗院)





(平成20年9月20日)

北方の守護神
日本一の毘沙門天
宇宙最強の神(高さ16メートル)

千年の息吹を今に伝える毘沙門堂は、その昔、桓武天皇の御願所として國の平安を願い延暦年間(平安時代)に創建されました。
鎌倉時代に大仏師運慶により毘沙門天が奉安され、八百年の間、常陸の国(茨城)に生きた人々の信仰を集めてまいりました。
写実的で力強い姿は、足下に邪鬼を踏みつけ邪悪なものを払い威厳あるお姿です。
代々、水戸城の鬼門よけ、方除けとして、佐竹氏、水戸徳川家にも崇拝されました。
毘沙門天は、武人にも信仰篤あつく、上杉謙信公は、自身を毘沙門天の生まれ変わりと信じ『毘』を旗印とし、楠正成まさしげ公は幼名 多聞丸(毘沙門天)といわれております。
吉祥天は毘沙門天の妃(きさき)、善尼子ぜんにし童子は、毘沙門天の子いわれております。

日本一の毘沙門天堂内には千体仏と宝塔ほうとうがおまつりされており、マンダラ(自分と宇宙とが一体となる)の世界を体験できます。

茨城県文化財指定
毘沙門天
吉祥天
善尼子ぜんにし童子
『毘沙門堂に安置されています』

平成19年11月4日 入仏開眼大法要

(説明板より)


【ゲリラ戦と孫子の兵法】

正成は多聞丸といわれた幼少の頃、河内の加賀田の隠者と尊称された大江時親から兵法を学んだとされています。
時親は朝廷の秘書「孫子」の管理者で、源義家に兵法を伝授した大江匡房まさふさの7代目の子孫といわれています。

元弘元年(1331年)10月、楠公は下赤坂城で幾十倍もの東国勢に対し数日間耐えました。
この間、講談物語に伝えられるような「二重釣り堀」「熱湯浴びせ」のような戦法を採ったかどうかは明確ではありませんが、そのような伝説を生み出したことに注目する必要があるでしょう。

下赤坂城が陥落した約半年後に突如として、その下赤坂城を奪回しますが、その時には元の規模の戦闘部隊に復帰していました。
この時採った戦法は「トロイの木馬」のように下赤坂城へ食糧を搬入する輸送隊に家臣を潜り込ませ、外からの攻撃と内応して城を奪ったとされています。
ここにも正成の想像力豊かな奇計が現れています。
さらに半年後には難攻不落の金剛山千早城に菊水の旗を翻すことになる戦力回復の足跡を見てみると、正成の卓越したゲリラ戦遂行能力が浮き彫りになってきます。

ゲリラ戦において不可欠なのは・・・
第1に、不屈の闘志と創造の知略を備えたリーダーシップ。
第2に、分散しながらも統一した戦闘を維持するための兵の精錬さ。
第3に、地域住民の協力。
第4に、ゲリラ戦を可能にする地形です。
正成の場合、第1の要件を満たしているばかりでなく、平素から愛情深い統治が民心を引き付け、民衆の敬愛の的となっていたため、地域住民の協力が絶大であったことが窺われます。
ゲリラ戦を遂行する上で、地域住民は情報と補給を提供してくれるので、これほどやり良い環境はないと言えます。
まさしく「孫子の兵法」用間篇第十三の「郷間」です。

正成は戦略的に大局を見て、孫子の言う「己を知る」戦いを行っていました。
その一つが、元弘3年(1333年)1月の渡辺橋の戦いでした。
約6千の六波羅勢が、正成のいる河内に南進してきた時、正成は約2千の軍勢で淀川に架かる渡辺橋付近で敵を深く引き入れてから包囲撃滅したのですが、その追撃に際し敵の大将宇都宮公綱きんつなが増援隊約700を率いて前進してきたとの急報が諜者からもたらされました。
この時、勢いに乗じて一挙に六波羅を陥れるべきであるとの部下の進言に進言に対し、正成は金剛山に向かって退却したのです。
この時の正成の判断は、「今回の目的は要塞周辺の掃討戦であり六波羅を陥れることではない。今追撃を遂行すれば六波羅は取れるかもしれない。しかし奪取してもそれを守り通せるだけの兵力はなく、その間に金剛山を狙われたら危うい。天下の形成はまだまだ我が方に有利とはいえない」という情勢見積もりに基づいていました。

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行

(令和元年11月8日 追記)


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