空母 飛龍 ひりゅう


「飛龍」の碑



『飛龍』の碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地





(平成20年11月23日)

碑文

在天の
山口司令官
加来艦長はじめ
たくさんの戦友たちよ
あの日のことども
ともに語りたい
その後のことも
聞いてほしい
だが今は
それもかなわず
とこしな■に
この聖地に
み霊安らかに
眠れかしと
ただ祈るのみ

慰霊碑建立の記

航空母艦飛龍(17,300噸)は昭和14年7月横須賀海軍工廠にて竣工、支那事変の際は支那沿岸各地に於いて戦功を樹て昭和16年12月大東亜戦争勃発するや開戦劈頭僚艦と共に真珠湾奇襲に成功し更に「ウエーキ」島、豪州、比島、蘭印、インド洋作戦に武勲を樹て昭和17年6月5日「ミッドウエー」島攻略戦に於いては敵陸上基地を猛攻し赤城加賀蒼龍の三航空母艦被弾後は飛龍只一隻孤軍奮戦敵空母「ヨークタウン」を撃破し、更に攻撃準備中武運拙なく被弾大破し火焔に包まれ必死の消火作業も其の効なく遂に総員退去の止むなきに至り第二航空戦隊司令官山口多聞中将、艦長加来止男少将は従容として艦に止どまり多数の戦没者と運命を共にさる
茲に三十三回忌を期し慰霊碑を建立して航空母艦飛龍の功績を顕彰し併せて英霊の冥福を祈念す

昭和49年6月5日
航空母艦飛龍遺族生存者有志一同
合掌

(碑文より)


飛龍

昭和15年のロンドン条約の制限下に昭和9年度軍備拡充計画により建造された。(飛龍と蒼龍の2艦)
再三再四設計を変更改善して、蒼龍が昭和12年末に完成。
飛龍は更に改良を重ね、昭和14年に完成した。

真珠湾攻撃に参加。
艦上機51機をもって戦艦、基地機を攻撃した。
その後ポート・ダーウィン、チラチャップ及びコロンボ、トリンコマリに転戦し活躍。
昭和17年(1942年)4月5日、セイロン島沖で蒼龍機と協力の上、重巡コーンウォールに命中弾8発を与え撃沈。
4月9日、蒼龍隊と共に37発の命中弾を与えて、英空母ハーミスを撃沈し、さらに豪駆逐艦バンパイアを沈めた。
ミッドウェー海戦において、第2航空戦隊旗艦として参加。
昭和17年(1942年)6月5日、飛龍は他の空母3隻が大損害を受けた後、ひとり米空母を攻撃し、ヨークタウンを大破、行動不能とさせた。
しかし、命中弾4、至近弾2発を受け、遂に友軍駆逐艦2隻により自沈。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


【要目】

公試排水量:2万165トン
機関出力:15万3000馬力
速力:34.59ノット
航続力:18ノットで7,670海里
乗員数:1,101名
兵装:12.7cm連装高角砲×6
    25mm三連装機銃×7
    25mm連装機銃×5
搭載機数:57機(補用機16機)

(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


【「飛龍」飛行機隊】

搭載定数:艦上戦闘機21機、艦上爆撃機21機、艦上攻撃機21機

日中戦争には海南島方面などに出動したものの戦闘はなかった。

太平洋戦争では第2航空艦隊旗艦として、真珠湾奇襲に参加。
(第1次攻撃隊)
水平爆撃隊第4攻撃隊として九七式艦攻8機を楠美正少佐が指揮して参加。
雷撃隊特第4攻撃隊として九七式艦攻8機を松村平太郎大尉が指揮して参加。
制空隊第4制空隊として零戦6機を岡嶋清熊大尉が指揮して参加。
(第2次攻撃隊)
降下爆撃隊第14攻撃隊として九九式艦爆18機を小林道雄大尉が指揮して参加。
制空隊第4制空隊として零戦9機を熊野澄夫大尉が指揮して参加。
(戦果)
雷撃隊はウェストバージニア型あるいはカリフォルニア型に1発命中、ウェストバージニア型に2発命中、アリゾナ型に2発命中、巡洋艦に5発命中、ユタに2発命中。
水平爆撃隊はアリゾナ型に2発命中。
降下爆撃隊はウェストバージニア型に6発命中、ウェストバージニア型に1発命中、巡洋艦に3発命中、その他、艦種不明に3発命中(不確実)、巡洋艦に2発命中(不確実)。
制空隊は撃墜3機、地上破壊49機以上(主としてフォード、バーバース飛行場にて)
真珠湾攻撃の帰途、「蒼龍」飛行機隊とともにウェーク島を攻撃した。

昭和17年1月〜2月、ジャワ攻略の前哨戦として第1航空艦隊主力とともに出撃。
アンボン、ポートダーウィン(オーストラリア北西部)、チラチャップ(ジャワ島中央東岸)などの攻撃に参加。
17年4月、インド洋作戦に参加。
コロンボ空襲では、わずか零戦9機でハリケーン16機、ソードフィッシュ8機を撃墜。
トリンコマリ空襲では艦爆隊が英空母「ハーミス」攻撃に参加した。

昭和17年6月、ミッドウェー海戦に参加。
第1次ミッドウェー島攻撃隊では「飛龍」飛行機隊長の友永丈市大尉が指揮官となり、自らも「飛龍」艦攻6機を率いた。
また第4制空隊として零戦9機を重松康弘大尉が指揮して参加した。
友永隊長の「第二次攻撃の要あり」の報告に基づき、対艦兵装で待機していた各艦の第二次攻撃隊は、兵装を陸用爆弾に換えた。
それが終るか終らないかのうちに、「利根」4号索敵機から米機動部隊発見の報告がもたらされ、再び対艦兵装の積み直しが開始された。
「飛龍」にあった第2航空戦隊司令官・山口多聞少将は、陸用兵装のまま発艦して米機動部隊攻撃に向かうことを通信で主張したが、受け入れられなかった。
対艦用の雷撃・爆弾への交換が終わって発艦準備が整った瞬間、「赤城」「加賀」「蒼龍」は順に約1分おきの急降下爆撃にさらされ、それぞれ大火災や大爆発を起こして沈没。
「飛龍」は急ぎ二次に分けて攻撃隊を発進させた。
小林道雄大尉が指揮する艦戦6機、艦爆18機、友永大尉が指揮する艦戦6機、艦攻10機である。
攻撃隊は米空母「ヨークタウン」に集中攻撃をかけ、航行不能に陥れ、のちに「伊168潜水艦」が撃沈した。
この攻撃で小林大尉機、友永大尉機を含む艦戦6機、艦爆13機、艦攻5機が未帰還となった。
「飛龍」もまた、6月5日午後2時30分、急降下爆撃を受けて炎上、駆逐艦の魚雷で処分された。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月20日 追記)


真珠湾攻撃(昭和16年12月8日)
南雲機動部隊主要職員表
部隊(艦) 氏名
第1航空艦隊司令部 司令長官 中将 南雲 忠一
参謀長 少将 草鹿龍之介
参謀(首席) 中佐 大石 保
参謀(航空甲) 中佐 源田 実
参謀(航空乙) 少佐 吉岡 忠一
参謀(航海) 中佐 雀部利三郎
参謀(潜水艦) 中佐 渋谷 龍■たつわか
参謀(通信) 少佐 小野寛治郎
参謀(機関) 機少佐 坂上 五郎
機関長 機大佐 田中 実
軍医長 医大佐 新井 甫
主計長 主大佐 清水 新一
第1航空戦隊 赤城 艦長 大佐 長谷川喜一
飛行長 中佐 増田 正吾
飛行隊長 中佐 淵田美津雄
加賀 艦長 大佐 岡田 次作
飛行長 中佐 佐多 直大なおひろ
第2航空戦隊 司令部 司令官 少将 山口 多聞
参謀(首席) 中佐 伊藤 清六
参謀(航空) 中佐 鈴木栄二郎
参謀(通信) 少佐 石黒 進
参謀(機関) 機少佐 久馬きゅうま 武夫
機関長 機大佐 篠崎 磯次
蒼龍 艦長 大佐 柳本 柳作
飛行長 中佐 楠本 幾登
飛龍 艦長 大佐 加来かく 止男
飛行長 中佐 天谷あまがい 孝久
第5航空戦隊 司令部 司令官 少将 原 忠一
参謀(首席) 中佐 大橋 恭三
参謀(航空) 少佐 三重野 武
参謀(通信) 少佐 大谷藤之助
参謀(機関) 機少佐 吉田 毅
機関長 機大佐 牟田 菊雄
瑞鶴 艦長 大佐 横川 市平
飛行長 中佐 下田 久夫
翔鶴 艦長 大佐 城島 高次
飛行長 中佐 和田鉄二郎
第3戦隊 司令部 司令官 中将 三川 軍一
参謀(首席) 中佐 有田 雄三
参謀(砲術) 中佐 竹谷 清
参謀(通信) 少佐 森 虎男
参謀(機関) 機少佐 竹内由太郎
機関長 機大佐 奥村 敏雄
比叡 艦長 大佐 西田 正雄
霧島 艦長 大佐 山口 次平
第8戦隊 司令部 司令官 少将 阿部 弥毅ひろあき
参謀(首席) 中佐 藤田 菊一
参謀(水雷) 少佐 荒 悌三郎
参謀(通信) 大尉 矢島源太郎
参謀(機関) 機少佐 佐藤 良明
機関長 機大佐 松島 悌二
利根 艦長 大佐 岡田 為次
筑摩 艦長 大佐 古村 啓蔵
警戒隊 第1水雷戦隊司令部 司令官 少将 大森仙太郎
参謀(首席) 中佐 有近 六次
参謀(砲術) 少佐 三上 作夫
参謀(通信) 大尉 岩浅 恭助
参謀(機関) 機少佐 吉川 積つもる
機関長 機大佐 田辺 保里やすのり
阿武隈 艦長 大佐 村山 清六
第17駆逐隊      司令 大佐 杉浦 嘉十
谷風 駆逐艦長 中佐 勝見 基
浦風 駆逐艦長 中佐 白石 長義
浜風 駆逐艦長 中佐 折田 常雄
磯風 駆逐艦長 中佐 豊嶋 俊一
第18駆逐隊      司令 大佐 宮坂 義登
不知火 駆逐艦長 中佐 赤澤次寿雄しづお
駆逐艦長 中佐 戸村 清
駆逐艦長 中佐 緒方 友兄
陽炎 駆逐艦長 中佐 横井 稔
秋雲 駆逐艦長 中佐 有本輝美智
哨戒隊 第2潜水隊      司令 大佐 今和泉喜次郎
伊19 潜水艦長 中佐 なら原 省吾
伊21 潜水艦長 中佐 松村 寛治
伊23 潜水艦長 中佐 柴田 源一
補給隊 第1補給隊 極東丸 特務艦長(指揮官) 大佐 大藤 正直
健洋丸 監督官 大佐 金桝 義夫
国洋丸 監督官 大佐 日台 虎治
神国丸 監督官 大佐 伊藤 徳堯
第2補給隊 東邦丸 監督官(指揮官) 大佐 新美 和貴
東栄丸 監督官 大佐 草川 淳
日本丸 監督官 大佐 植田弘之介

(参考:平塚柾緒著『パールハーバー・真珠湾攻撃』)

 (真珠湾) (平成21年12月9日・撮影)

【空母『飛龍』所属・零戦(西開地重徳一飛曹)】

西開地一飛曹機の残骸

(ハワイ・太平洋航空博物館)

ニイハウ島の零戦不時着事件
1941年12月7日〜13日、ニイハウ島、ハワイ准州

ここに展示されている三菱社製のA6M2ゼロ戦の残骸は1941年12月7日からニイハウ島にあった本物です。
パイロットだった日本海軍一等飛行兵曹、西開地 重徳(にしかいち しげのり)は、ベローズ基地とカネオヘ海軍航空基地に向かった第二次攻撃隊に参加し、オアフ島上空において対空砲火を受け、ガソリンタンクを損傷し、燃料切れのためにニイハウ島に不時着しました。

日本海軍の救助を待つ間、西開地一等飛行兵曹は島に住んでいた原田 義雄に日本語で話しかけられます。
原田は奪われた軍の書類を取り戻すために、島に住むハワイ人達を制圧しようとする西開地一等飛行兵曹を助ける決意をします。
しかし、結局、島の住民だったベネ カナヘレと彼の妻のエラとの短くも激しい格闘の末に、西開地一等飛行兵曹は殺害され、原田も自殺を遂げます。

日本軍がすぐにハワイへの侵攻を始めるかもしれない状況下で、米軍の調査隊はゼロ戦の伝説的な飛行能力の秘密を探るために、この残骸を急いで分解して徹底的に調べました。
部品の一部は更に詳しく調査するためにオアフ島に輸送されます。
ニイハウ島の住人だったギルバート カラオラ バフレハウアと彼の息子は、唯一残ったエンジンを自宅に持ち帰り保管しました。

ロビンソン一家の助力と支援によって、2006年にこの飛行機の残骸はここ太平洋航空博物館に移送されました。
この様な驚くべき歴史を持った飛行機が一般公開されるのは、世界でも初めてのことです。

展示物の概観について

背景の写真は実際に西開地1等航空兵曹が不時着した場所の様子です。
残骸は当時の不時着の状態とほぼ同じに配置してあります。
館内の一番左端に展示されたゼロ戦が攻撃当日の朝に飛行機がどのように現れたかの様子を想像させてくれます。
機体の殆どの重要な部分は情報収集のために1941年にアメリカ軍によって回収されました。
その後、何十年にも渡って野ざらしとなった結果、ここに展示されているのが西開地のゼロ戦の現存する残骸の全てです。

(日本語説明板より)





日本海軍1等飛行兵曹 西開地 重徳。

(説明板より)





(平成21年12月8日)



不時着直後の西開地一等兵曹のゼロ戦

(説明板より)



(平成21年12月8日)



不時着して1週間後の西開地のゼロ戦の残骸
(説明板より)



(平成21年12月8日)


B西開地と共謀して島の制圧を図った日本人労働者の原田義雄。
C西開地と原田がニイハウ島住民を威嚇するために使用した、ゼロ戦に搭載されていた機銃の内の1丁。
Eニイハウ島事件の功績で、功績勲章と紫心勲章を受けたベネ・カナヘレ。
F実際の不時着現場付近に立つ現在のニイハウ島の所有者の1人であるキース・ロビンソン

(説明板より)

(平成21年12月8日)

(平成27年6月19日・追記)


ミッドウェイ海戦(昭和17年6月5日〜7日)

【異彩を放つ陣容】

昭和17年4月20日付で、川口 益すすむ少佐が、空母「龍驤」飛行長から「飛龍」飛行長として着任。
同じく昭和17年4月に、霞ケ浦や宇佐航空隊で教官を務め、航空魚雷に関しては第一人者といわれた友永丈一大尉(戦死後中佐)が飛行隊長として「飛龍」に着任。
当時、ミッドウェー島を「水無月島」と命名し、特設第6航空隊を設置するため「飛龍」には派遣飛行機の一部を搭載していたが、その基地飛行長に予定されている玉井浅一少佐(川口と同期)も乗艦。
賀来止男艦長は航空出身、同乗する山口多聞司令官は日華事変における重慶空軍の消滅・敵軍事施設の攻撃に偉功を立て、ハワイ空襲でも大戦果をあげた名将。
「飛龍」は空母4隻の中でもひときわ異彩を放つ陣容を誇っていた。

(参考:川口 益 著 「空母「飛龍」 賀来止男 艦と運命を共にした最期」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月13日 追記)

【ミッドウェイ海戦】

昭和17年6月5日、ミッドウェイ海戦が始まる。
午前4時45分、「飛龍」飛行隊長・友永丈一大尉は「飛龍」「蒼龍」の艦上攻撃機36機、「赤城」「加賀」の艦上爆撃機36機、4隻の空母から発艦した戦闘機36機を指揮してミッドウェイ攻撃に発進した。
間もなく敵の第一次攻撃隊B-17(6機)が高々度より「飛龍」付近に爆弾を投下。
「飛龍」は一時、激しい弾幕に覆われたが、幸い命中弾はなくこれを回避した。
次の第二次攻撃では、雷撃機40数機が主目標の「赤城」「加賀」を攻撃。
最後の4機が「飛龍」を目標として攻撃に移ったが、これを回避し、事なきを得た。

ミッドウェイ島では米軍の地上砲火は予想よりはるかに猛烈で、友永大尉は左翼の燃料タンクに砲弾を受けた。
「飛龍」艦上攻撃機第1中隊長の菊地六郎大尉は被弾のため海中に突入して戦死。
第2中隊長の角野博治大尉は敵戦闘機との空中戦で左足に被弾しながらも片足操縦のまま果敢に爆撃を敢行し、着艦収容された。

第一次攻撃を終えた各艦の飛行機の収容の最中に、「蒼龍」「赤城」「加賀」が敵の急襲を受け、ほぼ同時に炎上。
このとき「飛龍」も爆撃機12機の攻撃を受けたが、肉迫した急降下爆撃の爆弾は全部舷外に振り払い事なきを得た。
味方空母3隻は被弾して再起不能。
「飛龍」の小林道雄大尉(戦死後少佐)の指揮する艦爆18機と森茂大尉(戦死後少佐)の指揮する戦闘機6機が直ちに米空母「ヨークタウン」の攻撃に向かった。
敵戦闘機や防御砲火にも関わらず二段三段の警戒網を突破して、壮烈にも敵空母に3発の命中弾を与えた。
このとき、指揮官は敵空母に体当たりを敢行して、空母1隻を撃破。
しかし、味方の被害も甚だしく、わずか艦爆5機、戦闘機1機が帰還したのみ。

友永大尉は先に被弾したガソリンタンクを修理する暇もなく、片道燃料しか搭載できないにもかかわらず800キロ魚雷を搭載して、再び残存機(艦攻10機、戦闘機6機)を集めて第三次攻撃隊を編成、筑摩の偵察機(筑摩5号機)が新たに発見した空母の攻撃に向かう。
進撃すること30分、断雲の下に敵艦隊を認め、友永大尉は第2中隊長の橋本敏男大尉と2隊に分れて共同攻撃をする。
友永大尉は魚雷発射後、被弾して紅蓮の炎に包まれつつ敵空母の艦橋に激突し壮烈なる戦死を遂げたが、この攻撃で敵空母1隻を撃破、巡洋艦1隻を大破する戦果を収めた。

「飛龍」では、第三次攻撃隊発進後、第四次攻撃が計画されたが、残存機を全部集めても艦攻5機、戦闘機3機しか準備できなかった。
味方の被害を最小限にして敵を破るには薄暮に攻撃することであると艦長以下は判断し、約2時間出撃を延期させた。
その時、「飛龍」の真上の雲間から敵爆撃機10数機が攻撃をかけてきた。
最初の3弾は回避運動で両舷に振り落としたものの、第4、第5、第6弾と相次いで飛行甲板に命中した。
その一つが前部昇降機に命中したので、昇降機の鉄板が艦橋の前面に叩きつけられ、艦の操縦が不自由になってしまった。
同時に艦内では各所に火災が起こって猛火に包まれ、最後の攻撃も断念せざるを得なかった。

艦内全員が消火配置につき、駆逐艦を横付けにして消火に努めたが、その効果はなく、火は機械室に及んだ。
爾後、夜を徹して消火に努めたが、その効果なく、巨体は傾斜して全く航行不能になってしまった。
「飛龍」の機械が停止し、飛行甲板は鉄屑の山と化して左舷に30度以上傾斜したとき、艦長は今や総員退去のやむなしと判断された。
総員集合を命じ、訓示後、故国に向かって遥拝し、水盃で別れの言葉を交わし、軍艦旗と将旗を降ろして駆逐艦に横付けを命じ、総員退去するよう厳命された。
この時、副長・鹿江中佐は各科長を集めて艦長と運命を共にすることを進言されたが、加来艦長は頑として聞き入れられなかった。
先任参謀が山口多聞司令官に「何か別れのしるしをいただきたい」と申し出ると、「これを以て行け」と、かぶっておられた戦闘帽を手渡された。
そして「いい月だなぁ、艦長、月でも見よう」と言われ、悠々とお二人は艦橋に昇って行かれた。

(参考:川口 益 著 「空母「飛龍」 賀来止男 艦と運命を共にした最期」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月13日 追記)

 

(ミッドウェイ島・平成22年6月2日訪問・旅日記参照)


『滄海よ眠れ』

ミッドウェイ海戦慰霊碑
平成10年6月4日建立

ミッドウェイ島(サンド島)

(平成22年6月2日)

(平成27年6月19日・追記)


大日本帝国海軍 軍艦超精密模型展
宮城県護国神社(平成21年11月9日訪問)

航空母艦 飛龍

基準排水量 17,300トン
乗員 1,103名
全長 222.0m
全幅 22.32m
出力 153,000馬力
最大速力 34.5ノット
搭載機数 常用57機/補用16機
主要兵装 40口径12.7cm連装高角砲 6基12門 他 機銃多数

(説明プレートより)


【艦長・賀来止男かくとめお

賀来止男艦長は、熊本県八代の孤島である大島に生まれ、八代中学を経て大正3年12月に海軍兵学校を卒業した。
大正8年12月、第4期航空術学生を修了の後、高等課砲術専攻(弾道)をも修め、海軍大学校を卒業。
海軍中佐当時は連合艦隊司令長官・小林躋造せいぞう大将の航空参謀として、作戦参謀であった山口多聞大佐と共に艦隊司令部に勤務した。
艦長は高潔な人格、剛毅果敢な用兵の識量を持たれ、さらにその半面優しい情愛の持ち主であったことは、艦長を知る者の等しく認めるところである。
洋上暗夜の飛行訓練時は、飛行機の保安警戒に対しては人一倍の細心の注意をされていた。
これは、幼少より母堂の庭訓に胚胎して法華経を信じ、長じては自ら進んで宗教家・田中智子先生の三保講習会に参加せられた結果であると思われる。

昭和16年9月8日、賀来止男大佐は、第2航空艦隊所属の「飛龍」艦長に補せられ、ハワイ空襲に大戦果を挙げた。
その後、ウエーキ島の作戦に出撃、昭和17年1月21日からのアンボン攻略戦、2月15日から4月22日までの印度洋機動戦と休む暇もなかった。
そして6月5日、ミッドウェー作戦に出撃、無念にも6月6日、「飛龍」と共に永遠の旅路につかれたのであった。

(参考:川口 益 著 「空母「飛龍」 賀来止男 艦と運命を共にした最期」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月13日 追記)




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