2.博物館めぐり

(赤軍博物館・郷土博物館)


平成25年(2013年)7月26日・2日目

今朝、目が覚めたら8時半!
寝坊した!(大汗)
まぁ、日本時間なら午前6時半だから、寝坊してもおかしくはないのだが・・・(大笑)
持参してきた目覚まし時計・・・
アラームをセットしていなかった・・・(涙)
間抜けである。
幸いにも今日の出発時刻は午前10時だから良かったが・・・

で・・・朝食・・・
ホテルのレストランでバイキングなのだが、時間が遅かったせいもあるのか、食べるものが何もない。(涙)

結局・・・朝食は、こんなもので済ませる。

ツアーバスに乗り移動・・・
バスの中で現地ガイドから今日の予定を聞かされ驚く。
我々のスケジュールと違うのである!(唖然)
今日は博物館などに行く予定なのだが、「そういう話は聞いていません。普通の観光だと聞いています」と現地ガイドが言う。
「軍事博物館を見るために、このツアーに参加したんだから、それじゃ困るよ」と“ヨコヤマさん”が声を上げた。
ごもっとも、である。
一体、この企画はどうなっているのやら・・・(大汗)
とにかく会社に連絡をして確認を取ってみる、と現地ガイド・・・

ホテルを出て直ぐに停車・・・ん?ホテルの直ぐ脇である。
ここに銅像が建っている。

ヤコブ・ディアチェンコ像

後ろに見える建物は、我々が宿泊しているホテルである。

この銅像・・・
ヤコブ・ディアチェンコとかという軍人の銅像で・・・
1858年・・・日本では安政5年ごろ・・・井伊直弼が大老になったころであるが・・・(笑)
国境警備隊長として、この地にやってきて、要塞を築いた人だという。
それにしても、ホテルのすぐ脇なんだから、バスに乗る必要なんかあったのだろうか?(苦笑)

で・・・道の反対が「郷土博物館」だそうで・・・
見学をするのかと思ったら、敷地内を通過して、博物館裏手にある公園へ向かう。

郷土博物館

ここにも、もう一つ、銅像が建っていた。

ムラヴィヨフ・アムールスキー像

この人は・・・ムラヴィヨフ・アムールスキーという名の提督である。
19世紀の頃の東シベリア提督で、清国(中国)と条約を結んで、アムール川の左岸をロシア領にした人らしい。

だから、この人の名を取って、この目の前を流れる川を「アムール川」って名付けたのかな?

公園から見たアムール川

このアムール川の深さは平均で5~6メートルだそうで、冬には厚さ1メートルの氷が張るのだそうだ。

この公園には昔の大砲が置かれていた。
郷土博物館の野外展示品なのだろう。

この大砲は1860年製のものである。
日本では桜田門外の変で我が水戸の浪士によって井伊直弼が殺された年である。
当時の日本には、こんな大砲はなかっただろうなぁ。
これ、鉄製だもんなぁ~・・・当時の日本の大砲はせいぜい青銅製か?
こちらの大砲は、1884年製で、ドイツのクルップ社が製造したものである。
日本は明治17年・・・
この年に「清仏戦争」が起こっている。
この戦争は、ベトナムの領有を巡って清国とフランスが戦った戦争である。
もしかしたら、そういうこともあって、ドイツはロシアにこの大砲を売り込んだか?(大笑)

次に向ったのは、すぐ近くにある『赤軍博物館』で、いわゆる軍事博物館である。
今回のツアー・・・ここに訪問するのが目的という参加者も多い。(私もその一人)
だから、ここを行程から外されたのでは、何しに来たのかわからないのである!
会社と連絡が取れたのだろう、当初の我々の旅程に従った案内をしてくれることとなったようである。

赤軍博物館

ここには、ノモンハン事件の資料や日本軍の遺品などが展示されているという。
が・・・なんと・・・今日は休館だと言うのである!(驚)
そんな・・・馬鹿な・・・である。
休館日に合わせてツアーを組むバカがどこにいるんだ?(怒)

現地旅行社の女社長(・・・とみんなが言っていた)がやってきて、交渉の結果、屋外に展示されているものだけは見学させてくれるということになった。
う~ん・・・ノモンハン事件の展示が見られなかったのは痛い!(大涙)
ホテルから歩いても来れそうな距離だから、次回はツアーじゃなくて個人旅行で来てみようかな・・・

BM-13

愛称「カチューシャ」と呼ばれる「多連装ロケット砲」
1944年製

8本のレールの上下に2本づつ・・・計16本の132ミリロケット弾を装填して、連続で発射する。
シュン!シュン!シュン!シュン!・・・とものすごい音をたててロケット弾を発射して撃ち込むという怖ろしい兵器である。
これがあの有名な「カチューシャ」かと、実物を見て感動した。

MC-1(T-18)

1927年型

時速16.4km
装甲 10~12mm
武装 37mm砲、6.5mm連装機銃

これはまた、ちっちゃな戦車である!(笑)
説明板があるが、全てロシア語!
でも・・・なんとなくわかる。(笑)
この戦車は「T-18」という戦車で1927年製らしい。
1927年は、日本では昭和2年・・・芥川龍之介が自殺した年である。(関係ないか・・・)
この戦車・・・重量は5.9トン、乗員は2名だそうだ。
こんなに小さけりゃ、2名が限界だろうねぇ。

キッチンカー

1951年製

これは、写真か何かで見た覚えがあるんだよなぁ~
英語で言えば、「キッチンカー」(?)
日本語では「炊飯車」「炊事車」かな?
「野戦炊事車」というのかな・・・馬に引かせて移動する車で・・・戦場で食事を作る車なんだよね。
ロシア語の説明板は・・・・ロシア語の単語がわからないので、想像するしかない。
1951年製造ということらしいが・・・
ん?私が生れる9年前に作られたの?・・・馬で引く「炊飯器」が?(汗)
ゴムタイヤが装着されているから、本体の形は変わらないけど・・・馬で引かずに車で引いていたのかな?
ということは、炊事するにはかなり便利なので、その形を継承している「優れもの」ということか?

BT-7

1935年型

乗員 3名
重量 14.65トン

この戦車の説明板に面白いことが書かれていた。
ロシア語は単語の語尾等が変化するので、辞書で調べてもドンピシャの単語に当たることが滅多にない。
これも、そうなのだが・・・
どうも速度について、「キャタピラ使用の場合は時速53.4km、車輪使用の場合は時速73km」と書いてあるようである。
戦車なのに、キャタピラを外して車輪だけでも走れるのか?(唖然)
にわかには信じられないのだが・・・(大汗)
私の訳し方がおかしいのかな?
ちなみに、この戦車は昭和14年(1939年)に起こった「ノモンハン事件」の後半戦に投入された戦車である。
この戦車のおかげで日本軍は散々な目に遭っている。
う~ん・・・この戦車か・・・我が日本軍を苦しめた戦車は・・・
感無量・・・である。

T-34-85

1939年型

重量 32トン
乗員 5名

ロシア語の説明板を自己流に翻訳すると・・・・(苦笑)
正面装甲は45mm、砲塔の装甲は90mm。
武装は、85mm砲と7.62mm機銃2挺。
舗装道路上における最高時速は55kmだそうである。

「T-34]というこの戦車はソ連の有名な戦車である。
しかし、説明板には1939年製(または1939年型)と書かれているが、これはちょっとおかしい・・・
初期型のT-34は1940年に試作車が作られたので、「1939年」はあり得ないと思うのだが・・・
自国の兵器の説明文を間違えるとは思えないのだが、もしかしたら西側の我々の知識の方が間違っているのか?(苦笑)
「T-34-85」というのは1943年以降に作られた85mm砲搭載の型で、それ以前の初期型は76.2mmの砲である。
この「85型」の生産数は約3万両にも及ぶという。
第二次大戦中は主にドイツ軍と戦った戦車で、大戦後には海外にも輸出された型である。

ここには、ミサイルやら近代の戦車など、戦後に作られた兵器も展示されていたが・・・
私は全く興味がない・・・(笑)
興味があるのは、第二次大戦のものだけ・・・である。

ツアー参加者、それぞれ自由に見て回っていたが・・・
その姿を見て現地ガイドが半分呆れていた・・・(大笑)
「ここに来る人は、大概、戦車の前で記念写真を撮っておしまいなのですが、皆さん、熱心に見られるのですねぇ」・・・と言う。
皆さん・・・というより、特に私が・・・と思っていて話しかけてきたのではあるまいか?(大笑)

次に「郷土博物館」に行くという(汗)
さっきの場所でしょ?戻るの?・・・・なんだろ・・・それ・・・

で・・・行ってみたら休館だという。(唖然)
さっき、ここの前を通ったでしょ?
気が付かなかったの?

「もしかして、俺達、日本の“右翼”には見せたくないものがあるから、急遽、休館にしたんじゃないの?」(笑)と私が言ったら、みんなが笑った・・・
なにせ、このツアー・・・例によって例の如く・・・保守派(簡単に言うと右翼・・・笑)の参加者ばかりなのである。(大笑)

しばらく待たされたが、現地ガイドの交渉により、一部だけを見学できることになった。
はぁ・・・一部ねぇ~・・・(笑)

館内では、掃除のオバチャンが床掃除をしていた。(笑)
その他、業者らしき人達がなにやら工事も行なっていたから、どうやら本当に休館だったようである。
が・・・あとから数人、ロシア人が見学に入って来た・・・
となると・・・これは何だ?
休館なのかどうかさっぱりわからん。(苦笑)

展示物の説明文は、全てロシア語である!(当然でしょうが・・・・笑)
大学時代に、第二外国語はロシア語を選択していたのだが、30年以上も接していないと、ほとんど忘れてしまっている。(涙)
かろうじて、なんとか文字は読めるが、意味は全くわからない・・・
ボキャブラリーなんか全然ない・・・
大学を卒業後も独学でロシア語を勉強していたらなぁ~・・・30年だからなぁ~
さぞかしペラペラになっていただろうに・・・などと思うが・・・
英語すら満足に出来ないんだから、多分、私には語学の才能がないのだと思う。
30年かかっても多分、無理だな・・・(涙)
しかし、英語での説明文を併記してくれたら、少しは何とか理解できたかも・・・残念である。
個人的にガイドを雇って、翻訳してもらいながら見学するという方法しかないな・・・これは・・・(苦笑)
また来るか?(大笑)



「1888年~1917年ごろのウラジオストック」の写真だと思う。私の翻訳では・・・・(苦笑)

ロシアの内戦の時の様子を描いたジオラマである。
その昔、ロシア国内が赤軍と白軍に分かれて内戦をしたのである。
たしか・・・1922年の内戦終結間近の様子を描いたものだったと思うが・・・
ガイドさんが「バラチャイスカ村」とかなんとか言っていたけど・・・
よく聞いていなかったから、わからない。(苦笑)
興味がないから、どうしようもない・・・予備知識はないし、聞いても頭に入らないし・・・

それより、このロシアの内戦の時にニコラエフスクで起こった「尼港事件」のほうが興味があるんだけど・・・(笑)
この事件は大正9年(1920年)にニコラエフスクで起こった赤軍パルチザンによる虐殺事件である。
虐殺を行なった赤軍側には朝鮮人や中国人も加わっていたという。
彼ら赤軍はニコラエフスクを占領し、ロシア人住民を処刑したのだが、それだけでは済まず、現地に住んでいた日本人居留民も襲ったのである。
特に女性はことごとくレイプされた挙句、虐殺されたと言う。

我が親父は子供の頃、映画館で、この尼港(にこう)事件の記録映画を見たことがあると言っていた。
虐殺事件後、現地に入った日本軍が撮影したものだろう。
いわゆる「ニュース映画」だったのではあるまいか?
虐殺された日本人のショッキングな映像は、今も忘れられないと言っていた。
その貴重なフィルムは、今はどこにあるのだろう?・・・見てみたいものである。

ここには日本軍の守備隊も駐留していたのだが、彼らも皆殺しになった。
我が水戸の歩兵第2連隊第3大隊を主力とする部隊である。
武器の引渡しを要求した赤軍に対し抵抗をしたところ、赤軍と、なんと、中国海軍が共同で日本軍守備隊を攻撃し、虐殺したのである!
だから、私は中国人が嫌いなのである!(怒)
なんで、お前ら中国人がロシアの内戦に首を突っ込んでいるんだよ!(怒)
ニコラエフスクのロシア人住民の約半数が虐殺されたそうだが、日本人居留民と日本軍守備隊は、ほぼ全員が虐殺されたと言われている。

茨城県人として、わが歩兵第2連隊の将兵が虐殺されたニコラエフスクを訪問してお参りしてあげたいのだが・・・
やっぱり、もう一度、今度は個人旅行で来るしかないかな・・・(涙)

1時間にも満たない、せいぜい30分程度の見学を終えて、次に向う・・・・
やっぱり、ゆっくりと見学するには、博物館は個人で訪れたほうがいいよな。


   


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