旧小田小学校本館

三重県上野市小田町141−1


旧小田小学校本館 平成16年2月8日

旧小田小学校本館について

旧小田小学校本館は、明治14年(1881)に建てられたもので、現存する小学校校舎としては県下最古の建物です。
創建当時「啓迪後人」(教え導く)より校名をとり「啓迪学校」と呼ばれ親しまれていましたこの本館は、木造洋風二階建てで寄せ棟造り、屋根は桟瓦さんがわら葺きで、延べ274uあります。
最も意匠をこらしているのは正面の造りで、中央部に膨らみをもたせた洋風の円柱を用い、階上・階下とも吹き放ちになっています。
玄関入口の上部には、竜の彫刻がはめこまれており、創建当時のギヤマンの色ガラスも数枚残っています。

小田小学校は昭和40年に児童数の減少により廃校になりましたが、近代初等教育の草創を象徴する記念物として、昭和50年に三重県の文化財(建造物)に指定されました。

しかし、長年の風雨にさらされ老朽化がひどく、保存修理を行って新たな活用を図ることになりました。
平成2年度から県費補助を受け、解体調査や当時の図面をもとに太鼓楼の復原をともなう保存修理工事を実施し、平成6年11月に5か年にわたる工事を完了し、往時の再現をみるに至りました。

平成7年10月
上野市教育委員会

(館内説明パネルより)


玄関ポーチ・バルコニー
玄関ポーチ・バルコニー

中央部にふくらみをもたせたエンタシス風の円柱を用い、壁がなく吹き放ちになっています。
屋根の頭部にあるのが太鼓楼です。
洋風建築のシンボルとして建築当初からあったと思われますが、明治末期にはなくなっていたようです。


玄関玄関

啓迪けいてき

啓迪という言葉は、中国の書物『書経』の中の「太甲上」の「啓迪後人」という一節からとったもので、教え導くという意味です。

玄関入口の上部には「學」の文字と竜の彫刻がはめこまれています。


近代初等教育資料展示室 近代初等教育資料展示室(2階)

市民から寄贈された3500余点の中から、明治初期〜昭和40年頃までの教科書・証書・賞状・児童作品・学習用具等300余点が展示されています。
ギヤマンの色ガラス
ギヤマンの色ガラス

数枚残っていたギヤマンの色ガラスをもとに復原されています。
ガラスの向こう側がバルコニーです。

啓迪学校設立とその背景

旧小田村は、木津川(長田川)と服部川の合流する低地に開かれてきた集落である。
村を大きく変えたのは嘉永7年(1854)の「安政の伊賀地震」である。
この地震によって小田村付近盆地床が沈下し、たびたび水害を受けるようになった。
特に、明治3年(1870)俗にいう午年うまどしの水害では、溺死者16名、家屋の流失・浸水は全村に及び、村は壊滅状態となり復旧にほぼ2年を要した。
こうした災害の抜本的対策として計画されたのが明治7年(1874)から4か年をかけた避水移居ひすいいきょであった。
このような状況の中でも、明治6年に夜学会が開かれ、明治8年には小田学校小舎が開設された。
明治14年(1881)9月には校名を「啓迪学校」と改め、同年10月19日本館の竣工をみた。
困窮した村財政の中での校舎建築のため、資材の骨格は赤坂町菅野家の酒蔵の古材を譲り受けるなどの工夫をこらし、村民の寄付・労力奉仕によって短期間に完成した。
しかし、屋上には太鼓楼を加えエンタシス風の柱で支えたバルコニーを取り入れた先進的な洋風建築とした。
また、2階に残されている色ガラスは、当時の建築係が神戸市まで出向いて調達したと伝えられ、ギヤマンの学校として評判になったという。
この校舎には関係者の高邁こうまいな姿勢が現され、村民の教育に対する期待がこめられている。
啓迪学校の命名は、学務委員村田順造氏発案で、「書経」の「啓迪後人」(教え導く)からとったもので倫理尊重・徳学の精神は廃校となるまで約85年伝えられ、数多くの人材育成の場となった。

(説明パネルより)


正面図 (展示パネルより)

1階平面図 (展示パネルより)

2階平面図 (展示パネルより)


旧小田小学校本館
旧小田小学校本館


伊賀上野城の近くにありますが、ちょっとわかりづらい場所に建っています。
昔の町並みの狭い路地の裏にある感じです。
大きな案内板があるといいのになぁと思いました。



(平成16年2月8日)

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