旧済生館本館

(山形市郷土館)

山形県山形市霞城町1-1


旧済生館本館 平成17年6月18日

重要文化財
旧済生館本館
昭和41年12月5日指定

明治初年の洋風建築として名高いこの建造物は、明治11年(1878)に竣工しゅんこうした当時の公立病院済生館さいせいかんの本館であります。
文明開化の推進者として著名な三島通庸みしまみちつね(鹿児島県人)が山形県の初代県令として赴任ふにんするや、県庁、郡役所ぐんやくしょ、学校をはじめ公共物等の洋風による新築工事を急速にすすめました。
この建物も係官を上京させて、東京、横浜等の各病院を視察させ、それに当時の学者や権威者の指導助言をうけ、明治11年2月着工、同年秋9月竣工したものであります。
明治12年、時の太政大臣だじょうだいじん三条実美さんじょうさねとみにより「済生館」と命名、同年1月8日開院式をあげましたが、その華麗さは当時の人々の目を見はらせ、錦絵にしきえとして出版販売されるにいたりました。
しかも翌13年9月には、オーストリアのドクトル、フォン・ローレツを招いて医学寮の教頭として西洋医学の診療と教育を実施し、名声があがりました。
山形県のみならず東北における近代医学の黎明れいめいを証徴しょうちょうする殿堂として、昭和41年12月5日、重要文化財に指定され、同42年6月、山形市の中心街七日町にあったものを現在地に移転したものであります。
現在、この建物は山形市郷土館として活用され、医学、医療関係の資料を中心に、郷土資料が陳列され、一般に公開されております。

昭和57年9月
山形市教育委員会

(説明板より)


済生館本館



済生館本館






(平成17年6月18日)

建造物の特徴

本館は三層からなる洋風の楼建築である。

全体の構造は角面からなる円形の特異な形態で、明治初期における木造下見板張りの最高作とうたわれ、本格的洋風建築と無縁な地方人の設計、施工からなる創造意欲の現われとして、今なお高く評価されている。

1階部分



1階部分






(平成17年6月18日)

1階

変形の八角形の平面で、正面前半に吹き放しののベランダを設け、塔屋背面後半から円形の回廊になり、十四角のドーナツ形をしている。

2階へ向かう階段



1階から2階へ向かう階段






(平成17年6月18日)
3階へ向かう螺旋階段



2階から3階へ向かう螺旋階段






(平成17年6月18日)

2階

十六角形の広間で、屋根はドーム型の大屋根である。
2階から螺旋階段で階段室にいたり、さらに3階に登る。

3階

八角形の小部屋で、前面に広いベランダが出ている。

(『山形市郷土館』リーフレットより)


沿革

明治10年 7月 県令三島通庸が県立病院長谷川元良病院長、筒井明俊一等属を上京させ、
大学医学部病院、陸軍病院、横浜海軍病院を視察、筒井が本館の平面図を作成。
明治11年 2月 県十等出仕原口祐之を棟梁とし、本館西洋造り三層楼建築に着手。
明治11年 9月 病院本館竣工。
明治11年12月 太政大臣三条実美によって「濟生館」と命名。
明治12年 1月 山形県済生館として8日開院式挙行する。
明治13年 9月 オーストリアの医師アルブレヒト・フォン・ローレツ着任。
医学寮教頭・済生館医として約2年間在任。
明治21年 4月 民営となる。
医学校廃止。
明治27年 5月 26日、山形大火。
本館災を免る。
明治37年 4月 山形市市営となり「山形市立病院済生館」と改称。
明治44年 5月 8日、山形大火。
県庁、市役所等焼失。
本館類焼を免る。
昭和20年 7月 太平洋戦争のため三層楼塔部撤去。
昭和24年 3月 18日、病院失火。
本館の類焼免る。 
昭和41年12月 済生館本館、国の重要文化財に指定。
昭和42年 7月 本館、七日町より霞城公園内に移築工事着手・
昭和44年12月 移築工事完了、管理棟附設。
昭和46年 4月 1日、「山形市郷土館」として開館、現在に至る。

展示概要

重要文化財 旧済生館本館資料
郷土の医学・医療関係資料
郷土史関係資料

案内

場所:霞城公園(山形駅から徒歩15分)
観覧料:大人200円
開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:月曜日(国民の祝日と重なる場合はその翌日)年末年始(12月29日~1月3日)

(『山形市郷土館』リーフレットより)


ローレツのレリーフ



ローレツのレリーフ

(旧済生館前庭)




(平成17年6月18日)

旧済生館の絵



旧済生館の絵

(山形市立病院済生館中庭)




(平成17年6月18日)



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