旧崇廣堂 きゅうすうこうどう

三重県上野市丸之内78−1


旧崇廣堂 平成16年2月8日

国史跡 旧崇廣堂

崇廣堂は、文政4年(1821)伊勢津藩第10代藩主藤堂高兌の時代に伊賀・大和・山城の領地に住む藩士の子弟を教育するため、津の藩校有造館の支校として建てられたものです。

位置は、上野城跡の南西外堀内、西土居側(西外堀に沿う地域を指す)で、南側は、本丸の南を東西に走る大名小路(上級武士の役宅が立ち並ぶのでこうよばれる。)に面していました。
創建当時の主な建物は、講堂、北控所、表門、御成門、母屋、玄関等など講堂を中心とする文場(文教場)のみで武場(武道場)は設けられていませんでした。
その後、文場の西(現在市立崇廣中学校所在地)に馬術・槍術・柔術など各流派の練武場・兵学寮からなる武場が設けられました。

創建から約30年たった嘉永7年(1854)、伊賀地方を中心とした大地震(安政の伊賀地震)のため、講堂を除く多くの建物が崩壊する大被害を受けましたが、翌年から復興されることになりました。

復興後の元治元年(1864)の図によると、敷地の東を文場、西に武場とし間は溝で仕切られています。
この時の敷地面積は、約2635坪(8,695u)建坪は770坪(2,541u)でした。

明治維新後、津県を廃し、安濃津県管内に編入された際、それまで続いた藩校は廃され、私立上野義学校が設けられました。
その後、近代的な教育制度に切り替えられていく過程で、学制発布後には村立上野学校、小学校令公布後は町立丸之内尋常小学校などと次々に名称が改められました。
明治38年からは、阿山郡立図書館となり、市制の実施後は、市立図書館として昭和58年まで使われました。

昭和5年には、藩校時代の様子を多く残していることから国の史跡に指定されました。

(リーフレットより)


明治終わりの古写真  古写真(展示写真より)

明治5年、旧藩学校が廃され、施設の一部は新設の私立上野義学校ぎがっこうに使用され、明治38年から阿山郡立図書館に利用されました。
明治29年に移転改修された御成門おなりもんと有恒寮ゆうこうりょうが正面に見えます。

(展示写真の説明文より)

模型 模型


表門 表門

創建当時の建物である。
弁柄塗で、赤門と称され通用門として使用されてきた。
玄関棟 玄関棟(母屋、玄関)

創建当初の建物である。
正面に入母屋造の式台玄関をもち、教師の控え室や台所頭以下事務職の部屋として使われていた。
文政3年(1820)の祈祷札を残している。
講堂 講堂
講堂内部 講堂内部

講堂

文政4年(1821)の棟札があり、創建当初の建物です。
嘉永7年(1854)の大地震にも倒壊を免れました。
入母屋造いりもやづくりで7間4面の大建築であり、四方からの採光を得るため独立して建てられ、四方の庇ひさしは高く、その軒出のきでも短くおさえられています。
崇廣堂では、学科目によって教場を分けることなく、この講堂で一堂に教授されていました。
教員約10名、学生約300名で、作詩、作文、医学、算術など教育がなされていました。
生徒は、玄関からでなく、講堂正面に設けた3か所の階段から直接出入りしていました。

(説明板より)


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