歩兵第82旅団(河嶋兵団)の戦跡

(イポダム)


平成16年5月8日(第3日目)

午前6時起床。7時半出発。
今日はマニラ東方の戦跡訪問をする。

イスパニア通りを走ってケソン橋を渡り、ダウンタウンのケアポという町を通過する。
カオロカという町を通過。
ドミンが「ここは昔はマラリアが多かった町なんだ」と説明してくれた。
今ではマラリア蚊の発生は見られないようだが、でも異様な匂いがする。

ガタゴトガタゴトと山道を登る
胃液が上がってくる。う〜気持ち悪い〜

1時間後、ノーザガライ(NORZAGARAY)という町を通過。
更に15分ぐらい走った小さな部落でミネラルウォーターを買う。10ペソ(20円)なり。

このあたりの山は全て大理石(Marble)だとドミンが教えてくれた。
まもなく『慰霊碑』のある場所に到着。
ここまでホテルから丁度2時間かかりました。

イポの慰霊碑

慰霊碑に到着して、写真を撮ろうとしたら続々と村人が集まり始めました。
ドミンが「写真を撮るんだから・・・」と村人を両側によけたところで・・・パチリ!

碑文
過ぐる第二次世界大戦に於いて当イポダム地区は昭和20年2月より8月の終戦に至るまで激しい戦斗が続きました
日米双方多大な死傷者を出しましたが特に日本軍はイポ地区を含みマニラ東方山地で4万名に達する兵が祖国の安泰を祈りつゝ散華されました
此処に彼我全戦没者の霊に対し哀悼の意を表し心より冥福を御祈り致します
サンタ・マリアさんのお孫さん 慰霊碑に日本から持参したお線香をあげていたら、一人の女性が分厚い”日記帳”を持ってきました。
この慰霊碑のために土地を提供してくれたサンタ・マリアさんのお孫さんだそうです。
彼女が持っているのが”日記帳”ですが、参拝者の”芳名帳”として使われています。
日本人がやってきたので、「ここに書いてくれ」ということで持ってきたそうです。
彼女には御礼に100ペソ(200円)を寄付させていただきました。
 (芳名帳の中)クリックすると拡大します。

慰霊碑は1987年5月14日に『イポ慰霊碑協会』によって建立されました。
”芳名帳”の最後に書かれた方は2004年3月14日に訪れた方です。
年々訪れる方が減っているようです。
これから先、どうなるのだろうか・・・・・
この慰霊碑建立に関わった西本さん、梶原さんはもう亡くなられているし・・・・
とても寂しい気持ちになってしまいました。


ここイポ地区は横山静雄中将が指揮する”振武集団”(約75,000名)の防衛担当地域の一番北に当たります。
イポダムはマニラ市の水道の約半分を供給しているといわれている重要拠点。
ここを守ったのが第105師団(勤兵団)の歩兵第82旅団を中核とする”河嶋兵団”(約10,000名)でした。
ここでは2月から戦闘が開始され、健闘空しく5月17日にはイポダムは占領されてしまいました。
多くの部隊は更に奥地へ撤退しましたが、独立歩兵第358大隊(笠間部隊)は終戦までここで頑張っていました。
イポ地区での戦死者は約4,600名といわれています。

慰霊碑に集まった村人たちに別れを告げて、更に進むこと10分程度で、イポダムのゲートにたどり着きました。
ところがゲートの警備員が通してくれません。
許可証がないと駄目だというのです。
理由は・・・テロリスト対策。
マニラ市の重要水源地・供給地ですからね。分かる気がします。厳重な警備は無理もないでしょ。
しかし・・・事前に何で調べておかなかったのかねぇ。こういうこと。
ゲートから約1kmくらい先にダムがあるらしいのですが・・・・残念です。
ここでUターン。
ゲートの写真を撮ろうと思いましたが、テロリストの下見と間違われたら悲惨なのでやめました。

ところで、日本の場合はどうなんでしょうか?
ダムは重要拠点ですけど、こういう厳重なテロリスト対策をしていますかね?
平和ボケしている日本は少し見習ったほうが良いかもしれませんね。

ビクティという集落


帰り道の途中の山の中の小さな集落ビクティ(BIGTE)。
道路の左方向奥が”花房部隊”(第9航空情報連隊・別称:神州歩兵第2連隊)の防衛担当地区。
道路の右方向奥が”友野部隊”(第12航空通信連隊・別称:神州歩兵第1連隊)の防衛担当地区。

 


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