ボソボソ地区の慰霊碑

(ボソボソ)


5月8日(第3日目)

やっとアンチポロ市(ANTIPOLOーCity)のサムロン(SUMULONG)というところで昼食をとることが出来ました。
時刻は2時半。もう死にそうだ。

ファーストフード店 『Jollibee』というフィリピンでは有名で、どこでも見かけるファーストフードチェーン店で昼食を取りました。

途中の町でいくらでも食事が出来たはずなのに・・・・
ふと気がついたのですが、昨日の昼もファーストフード店。
ドライバーは、ファーストフード店が好きなのか?
それとも私に気を遣ってのことなのか・・・

お店はマルコス・ハイウェイとサムロン・ハイウェイの交差点の所にあります。左に見えるのがサムロン・ハイウェイ。
どこがハイウェイ?ただの道路に見えますが・・・・
昼食 フライドチキンと春雨みたいなヌードルのセットとコーラを頼みました。
3人分の昼食代248ペソ(496円)なり。
しかし・・・これだけじゃ私には足りない。お腹がすき過ぎた。
更に別のセットを追加注文。75ペソ(150円)なり。
結局2人前食べてしまいました。

ここアンチポロ地区は振武集団の守備範囲の南端に位置します。
第105師団(勤兵団)の歩兵第81旅団(野口兵団)を主体とした部隊がこの周辺に展開しており、特に独立歩兵第181大隊長である黒宮隆文中佐の”黒宮支隊”(独歩181大隊及び臨時編成歩兵部隊)がここを守っていました。
しかし、3月に米軍の猛攻を受け部隊は次々と玉砕してしまいました。
このアンチポロ周辺での戦死者は約6,530名とされています。

ボソボソ地区

アンチポロから車で30分ほどでボソボソ(BOSO−BOSO)に到着しました。
ここも野口兵団の守備地域です。
このボソボソ地区の南部に独立歩兵第186大隊を基幹とする”冲田支隊”(冲田一夫大佐)が展開していました。
ボソボソ地区における戦没者は8,150名とされています。

雑木林の中の”町”というより”村”の中を走っていると、突然ドライバーが車を止めた。
「あれ、何ですか?」
指さす先を見てみると・・・・立派な日本語の看板。
『ボソボソ地区日本軍慰霊碑』
「おおぉ!ここだ!ここだ!ここを右折!右折!」
狭い道を右折して入ったは良いが、ここから先がわからない。
途中で出会った地元の子供たちにドミンが慰霊碑の場所を尋ねました。
どうも小学校にあるらしい。

しばらく走ると、雑木林の丘の上に小学校がありました。
かなり整備されている立派な小学校です。
日本の田舎の”分教場”より少し立派という感じ。(私の個人的主観ですが・・・)
小学校は休みなのか誰もいません。
勝手に敷地内に入って慰霊碑を捜すも見つからない。

敷地内で、オバサンを見つけたので、尋ねてみたがわからないという。
すると一緒にいた小学3年生ぐらいの子供が、「知ってるから、案内する!」と言って駆け出した。
案内された場所は敷地内の小さな花壇。
そこにはマリア様の像が・・・・・
「これじゃないよ。」とドミン。
”お参りするところ”と聞いてマリア様だと思ったらしい。
思わず吹き出したくらい、この少年はガッカリしたぁ〜とジェスチャーで私に示してくれた。

更に附近を探索。工事をしていたオジサンに尋ねたら、隣りの丘に何かあると教えてもらう。
とにかく行ってみよう。

慰霊碑の入口 慰霊碑の入口。

さっきの少年とその友達の2人が先頭を歩いて案内してくれました。
立派なコンクリートの階段が作られています。
こんな立派なものが学校のすぐ隣りにあるのに誰も知らないとは・・・
慰霊碑 丘の頂上にはこんな立派な慰霊碑がありました。

碑文
『ここBosobosoの地域で戦没された日本・フィリピン・アメリカ全ての人々が怨親平等に安らかな永遠の眠りにつかれることを祈ります』

碑文はこれだけで、いつ誰が建立したのかはわかりません。
川北大隊の墓標 慰霊碑を囲む柵の柱に『川北大隊の墓標』というのがはめ込まれていました。

碑文はいくつかに砕けた断片を合わせてあります。
どこか他の所にあった壊れた碑から集めてここに埋め込んだのではないかと思われます。
碑文
3個中隊の内第9中隊は北部ルソンオリオン峠方面に転し各小隊長以下多数の戦没者を出せり

どうもこの碑文は元々あった碑の一部のようです。
いきなり3個中隊って言われてもねぇ〜
その前に何かの文章があったはずです。
それにしても・・・・”川北大隊”っていうのはどこの部隊なんだろうか?



※「さぁぷらす戦史図書館」の佐藤様よりご教示を戴きました。
川北大隊とは野砲兵第53連隊第3大隊のことで、大隊長は川北松男少佐。
本隊はビルマで戦っていますが、第3大隊のみ移動中にフィリピンに滞留となり、振武集団の集団砲兵隊(野砲兵第8連隊主幹)に所属していたとのことです。(平成16年5月23日追記)


※川北大隊遺族会『山吹を偲ぶ会』の中村様・西村様・河原井様より御連絡を頂き、貴重な資料をお送りいただきました。ありがとうございました。

1)川北大隊の以前の慰霊碑はボソボソの教会の道を挟んだ反対側にありましたが破損甚だしく、現地人に依頼して廃棄、御光山の『野口兵団慰霊碑』に合祀されたとのこと。その後、厚生省の手により破片が集められ、この地に”復元”されたようです。
遺族会ではこの”復元”件は全くご存じなく、私のHPを見て知ったとのこと。
その後、遺族会の調査で厚生省の手で”復元”されたことが判明したとのことです。
廃棄前の慰霊碑の碑文は以下のようになっていたそうです。

正面 京都野砲川北大隊奮戦之地
縁故者有志一同
右側面 京都野砲川北大隊戦史
昭和19年8月21日出征途中海没の難に遭いルソン島に上陸以後振武集団下で転戦此処
ボソボソ地区に於いて最後の一発を撃ち盡し5月以降山岳地帯を転戦玉砕せり
左側面 昭和56年8月15日終戦紀念日建之
後面 3個中隊の内第9中隊は北部ルソンオリオン峠方面に転じ各小隊長以下多数の戦没者を出せリ 噫

2)ボソボソの慰霊碑は遺族会の調査によれば、京都のお寺のお坊さん(敢えて匿名とします)が『平和パゴダ』として1999年12月に発願、敢えて建設者の名を伏して建立したものだそうです。
周囲のコンクリートによる整備は厚生省によって行なわれたらしいとのことです。

3)野口兵団の慰霊碑はボソボソの私の訪れた所とは別の場所に『野口兵団及び海軍の英霊鎮魂の碑』として建立されているとのことです。
(平成16年10月31日追記)


※ボソボソの慰霊碑を鉄柵と鉄扉などで取り囲んで整備したのは厚生省ではなく”May Peace Prevail On Earth”(世界平和の祈り)という団体ではないかという話が出ていますが、真偽のほどは不明です。

また、平成17年11月20日に川北大隊遺族会(山吹を偲ぶ会)の方々を案内してこの地を再訪問いたしました。
『1年半ぶりのボソボソの慰霊碑』を参照して下さい)
(平成18年1月23日追記)


私が写真を撮っていると子供達が珍しがって後から覗き込みます。
そりゃ、デジタルカメラなんていうのは珍しいだろうねぇ〜
子供達には案内してくれた御礼に、それぞれ20ペソ(40円)あげたところ飛び上がって大喜び。
無邪気に表現するところがなんとも可愛い。
でも20ペソは大金だったかな?
教育上良くなかったかな・・・・・

慰霊碑のある丘 左の丘の上に慰霊碑があります。
肩を組んで歩いてる少年達が、道案内をしてくれた少年達です。

続いて、ボソボソの町の中心にある教会に行きました。
この教会のすぐ側に日本人墓地があるという情報を得ていた為、寄ってもらったのですが・・・・
どこを捜しても無い。
どうも私の掴んだ情報はガセネタだったようで・・・・・

ボソボソの教会 ボソボソの教会。

史跡に指定されているらしく、説明板がありましたが、残念ながらタガログ語で書かれていて読めませんでした。

ドライバーとドミンに訳してもらったところ・・・
この教会は17世紀に作られたそうです。日本では江戸中期、徳川吉宗の頃でしょうか?
そして1868年に地震の被害にあったそうです。
日本では明治元年のことですね。
壁に残る弾痕 地震の被害を修復した後、今度は日本軍がやってきて戦争。
そのため壁には多くの弾痕が残っています。
教会の屋根も焼け落ちたようです。
そのまま廃墟として放置されていたようですが、1995年に屋根などを修復して現在は現役の教会として使われているようです。

私が訪問した日も、これからここで結婚式を行うのだと掃除のオバチャンが言っていました。

メインストリート

教会の前の通り。
メインストリートなんだそうです。これが・・・・メインストリートねぇ。
写真が暗いのですが、時間は4時20分です。
電線にぶら下がっているのは選挙ポスターです。
お祭りの飾りみたい・・・・・

 


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