マバラカット東飛行場跡

(マバラカット)


平成16年5月7日(第2日目)

クラーク博物館を出発して”クラークスペシャルエコノミックゾーン”の敷地内を走る。
しばらく走ると左に『マバラカット西飛行場』の案内板。
「おお!ここ、ここ!」
「え?西飛行場に行きたいのか?」とドライバーとドミン。
あれ?話がおかしいぞ。今回の旅の目的地に加えておいたはずなんだが・・・
彼等の反応は”意外”という感じです。
彼等の持っている”予定表”に入っていないらしい。そんな・・・馬鹿な・・・
「それじゃ、帰りに寄りましょう」と言われ、車は敷地のゲートを出てしまった。
さて・・・これからどこに行くのやら・・・・

しばらく走ると・・・・
「はい!着きましたよ!」とドライバー。
はぁ?ここは・・・・
昨年も来た『マバラカット東飛行場跡』ではないですか!
「私が行きたいと頼んでいたのはイースト(東)じゃなくて、ウエスト(西)だ!」

しかし、何度来ても良い場所だから・・・・まぁ、いいか。

解説文の碑 ドライバーが「ここに日本語の説明があります」と案内してくれたのですが・・・
だからさぁ〜、昨年も来てるって言ってるのにさぁ〜

左が英文、右が日本文です。
折角案内してくれたんだから碑文を読んでるふりでもするしかないか・・・と思って日本文を読んでいたら・・・
あれ?昨年来た時と若干違っているぞ。
誤字脱字などの間違いが直っている!

折角ですから、碑文をまたもやご紹介いたしましょう。

神風東飛行場平和記念碑
本場所は、第二次世界大戦中、日本最初の神風特別攻撃隊が飛び立ったマバラカット東飛行場の跡である。
1944年10月20日、神風特別攻撃隊は海軍中将大西瀧治郎により此処ルソン島パンパンガ州マバラカットに於いて創設された。
同攻撃隊の最初の志願隊員は、当時マバラカットに駐留していた日本帝国海軍第一航空艦隊・201航空隊に所属する玉井浅一中佐麾下の23名のパイロット達であり、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の4隊に分けられ、関行男大尉が全体の隊長に任命された。
1944年10月25日朝7時25分、関行男大尉は中野盤雄一飛曹、谷暢夫一飛曹、永峰肇飛長及び大黒繁男上飛の敷島隊を率いてこの東飛行場から飛び立った。
同日午前10時45分、レイテ島沖の米機動部隊に対し同敷島隊は攻撃を開始、関機が先ず最初に米空母セント・ローに体当たりした。
同艦は炎上、20分後に沈没した。
他の隊員も全員体当たりを果たし、米空母カリニン・ベイ、キトカン・ベイ、サンガモン、サンティー、スワニー及びホワイト・プレーを大破あるいは中破させ、米軍に多大な損害を与えた。
成功裡に終わったこの最初の神風特別攻撃は、当時敷島隊を空から掩護・誘導した西澤広義飛曹長ー103名の米軍撃墜死が確認されている、日本の撃墜王と言われた名パイロットによって目撃・報告されている。
戦後、多くの戦争歴史研究者が関行男大尉を世界最初の人間爆弾であったと公に認めている。
(注記)
マバラカット観光局(MTO)が神風平和記念廟の建立を推進した理由は、神風特別攻撃隊の栄光を称賛する為ではなく、その歴史的事実を通じて世界の民族に平和と友好の尊さを訴える為である。
神風平和記念廟が神風特別攻撃隊のような不幸な出来事を二度と繰り返さないと誓う場所となることを祈念する。
マバラカット観光局長
ガイ”インドラ”ヒルベロ

※昨年の碑文は こちら です。

神風平和記念廟 昨年は鳥居だけでしたが、今年来てみると門扉が付けられていました。
コツコツと着実に整備されていく姿に感激しました。
マバラカット東飛行場跡 マバラカット東飛行場跡はこんな感じです。

 


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