ドラグの慰霊碑とHILL120の慰霊碑

(ドラグ)


平成17年(2005年)5月7日

ブラウエン飛行場跡から車で約15分東に走るとドラグ(DULAG)の町に入りました。
タウンプラザの裏手の住宅街の奥に「メモリアルパーク」があります。
ここに、米軍、フィリピンゲリラ部隊の記念碑がいくつも建っていますが、この中に日本の慰霊碑もありました。

メモリアルパーク ドラグのメモリアルパーク
DEDICATION
THE PEOPLE OF DULAG LEYTE ERECTED THIS MARKER TO REMIND THEM AND THEIR POSTERITY OF THE EXACT SPOT WHERE THE FIRST BATCH OF THE ALLIED LIBERATION FORCES LANDED IN DULAG AT ABOUT 10 A.M .,ON 20 OCTOBER 1944. 
ACKNOWLEDGMENT
DULAG MUNICIPAL GOVERNMENT AND DULAG CIRCLE INC.,MANILA FOR FINANCIAL
AID,MAYOR FAUSTINO SERRANO AND DR.DAVID L.VIVERO FOR REALIZATION AND CONSTRUCTION OF PROJECT ARCHITECT ALBERTO TUPAZ AND ENGR.MIKE VILLEGAS FOR PLANS. 

公園の中 公園の中

慰霊碑 慰霊碑

英文と日本文の碑文が刻まれていました。
碑文
ここは、太平洋戦争に於て、比・日・米の多くの戦士達が祖国の為に、激しい攻防戦の中で無残に散り果てた痛恨の地である
人類が再びあの愚かにして悲惨な殺戮を繰り返さぬ為に、ドラグ市長F・セラノ氏のご協力を得て、不戦の誓いをこめて、弔魂の誠を捧げると共に、悠久の平和を祈念して、この碑を建立するものである。

1976年 京都垣兵団・遺族・生存者

昭和19年10月20日、米軍がドラグの海岸に上陸して攻撃をしてきた時、ここを守っていたのは歩兵第20連隊第3大隊でしたが、上陸2~3日後には全滅してしまったようです。

ドラグには日本軍の飛行場があり、米軍の上陸目的はドラグの町の確保と飛行場の占領だったのですが・・・
さて、飛行場ってどこにあったのだろうか?
ドミンに尋ねても知らないらしい。
私の事前調査不足は否めない・・・・・仕方がないか。

公園には米国の星条旗がはためいていましたが、何故かフィリピンの旗が揚がっていませんでした。
これはおかしいだろう。
「なんで星条旗だけなんだ?フィリピンの旗も揚げるべきじゃないのか?」とドミンに話しかけたのだが・・・
なんと!ドミンは私の言葉をドライバーにこう伝えたのです。
「この人がフィリピンの旗と日本の旗が揚がっていないのはおかしいって言ってるよ」って・・・
おい!俺はそんなこと言ってないぞ!
日本は敗戦国だから旗が揚がってなくても構わない。
米軍と一緒に戦ったフィリピンの旗が揚がっていないのはおかしいだろうって言っているのに・・・
参ったなぁ~
反感買っちゃうじゃねぇか!

時刻は11時30分。
「ヒル120に行く?」とドミン。
「え?そこに慰霊碑はある?あるなら行くけど・・・」
・・・・ということで、ヒル120に行くことにしました。
12時頃到着。

案内標識 『HILL 120』の案内標識

この丘は米軍がドラグを占領した時に星条旗を揚げた場所らしい。
ヒル120の場所 道路の右側の森が「HILL 120」です。
説明板
ATOP THE HEIGHT OF THIS HILL
120,BLUE BEACH,DULAG,LEYTE,
PHILIPPINES AT 1042 A.M.
20 OCTOBER 1944,
ONLY 42 MINUTES HAD ELAPSED
SINCE THE FIRST ASSAULT
TROOPS OF THE 3RD BN
382 INFANTRY,96TH DIVISION
OF THE AMERICAN FORCES
OF LIBERATION HAD LANDED,
ST LT.CLIFFORD W.MILLS
RAISED THE AMERICAN FLAG
IN PHILIPPINE SOIL AFTER IT
HAD BEEN LOWERED AT
BATAAN ON 9 APRIL 1942
FLOATING HIGH AND PROUD
WAS TANGIBLE PROOF THAT
THE AMERICANS HAD MADE
GOOD THEIR PROMISE TO THE
FILIPINOS

丘のふもとのところに日本の慰霊碑がありました。

日本の慰霊碑 日本の慰霊碑

慰霊碑 レイテ島 戦没者慰霊碑

比島に眠る勇者たちに捧ぐ

平成16年3月15日
秋田市山王 佐々木辰雄
秋田市川尻 川村暢
CENOTAPH
DEDICATED TO CONSOLE ALL SOULS OF FILIPINOS,JAPANESE AND AMERICAN WHO PASSED AWAY IN LEYTE DURNING WORLD WAR Ⅱ.
SWORN THAT THE SAME TRAGEDY AND MISTAKE SHOULD NEVER BE REPEATED.
PRAYER FOR THE TRUE WORLD PEACE AND FRIENDSHIP FOREVER.
THE GENEROUS ARRANGMENT AND THE PERMISSION BY HON.MAYOR MANUEL”BOY”SIA QUE DULAG,LEYTE,PHILIPPINES ARE SINCERELY APPRECIATED.

JANUARY 08,2003
CONTRIBUTED BY:
MR.SASAKI TATSUO AKITA CITY JAPAN & MR.NAGAMINE KATSURO NAGANO KEN

碑文を書き写していたところ、後のほうでドミンが誰かと話をしている。
「あの人は日本人だよ」と言っているのが聞こえる。
振り向くとそこに一人の日本人が・・・・
マニラ新聞の記者のF氏。
日本からの依頼で慰霊碑の所在調査をしているのだそうだ。
今回私が回った慰霊碑について情報を提供しましたが、果たしてお役に立ったかどうか・・・・

そのうち、近くで遊んでいた近所の女の子が話しかけてきました。
「英語話せる?」って。
「少しだけね」と私。
「日本人?」
「うん、日本人だよ~」
何故か得意顔をして幼稚園児らしい弟に説明しています。
おお、お姉ちゃんとしての威厳を示したかったのね。
日本人と話をしちゃった!というのが彼女のいい思い出になってくれればいいなぁ~

地蔵 慰霊のお地蔵さん

比・日・米の戦没諸英霊の菩提を弔い、世界平和と比・日親善を祈る

1977.8.15
元垣兵団歩兵第9連隊Ⅱ大隊有志会
地蔵 慰霊のお地蔵さん

比・日・米の戦没諸英霊の菩提を弔い、世界平和と比・日親善を祈る

1988.10.22
元垣兵団野砲兵第22連隊U.P有志会
丘の頂上へ向かう道 ヒル120の頂上へ向かう道

ちょっと登ってみましたが、結構キツイ。
暑さと運動不足で息切れ甚だしい。
頂上 ヒル120の頂上

ここには米軍の立派な記念碑が建っていました。

ドラグの海岸 ドラグの海岸



     


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