池ノ台のM4戦車と藤原山

(サラクサク峠・アキ陣地)


平成17年(2005年)5月4日

朝7時起床予定が4時半には目がさめてしまった!
前回の2年前に泊まった時は夜寒くてガタガタ震えた経験があったので、今回はジャージを持ってきて着たのだが、今年は全然寒くない。少し蒸し暑いくらいだった。
しかし、さすがに明け方は冷える。ジャージを持ってきて正解だった。
もう一度寝ようかとしたが、寝られず、まだ夜が明けぬ中、外に出てタバコを吸って夜が明けるのを待つ。
そのうち夜が明け始めたが、サラクサク峠の山々は霧に包まれている。

今回は、サラクサク峠のアキ陣地近くにある破壊されたM4戦車を見るのと、サラクサク第1峠に登るのだ。

午前9時、ジェイソン君、村の青年のケネディ君の2人が先導で私とドミンの4人で出発。
オマリオさんの家を出てテクテクと歩く。
近くの家々から住民が出てきて、不思議そうに見ている。
朝の挨拶をしながら村を通過。
さぞかし変な日本人だと思っているだろうなぁ~
何が楽しくてあんな山に登るのか・・・・と思っているんだろうなぁ~

M4戦車の残骸 米軍のM4戦車の残骸

ここには4年前の平成13年に一度だけ訪れている。
あの時は途中の道が崩れていて、肝を冷やしながら崖に張り付きながら歩いた。
足を踏み外せば奈落の底へ・・・・高所恐怖症の私としては足のすくむ思いをした。
今回訪れた時は、その場所にも道が作り直されており楽に到着できた。(助かったぁ~)

松林の中にポツンと1台のM4戦車が放置されている。
ここは高所のため松の木が茂っている。
よくもまぁこんな山奥に戦車が登って来れたもんだ。
どこをどうやって登ってきたのか・・・・
周りを見てもそれらしき道が見当たらない。
サンニコラスからこの池ノ台近くまで米軍は自動車道を作っており、100台近いトラックで弾薬や食糧の補給を行なっていたのです。
そして、その道は私の祖父が米軍と闘いながら後退してきた本来は小道だった道です。
米軍は祖父の部隊(捜索第10連隊基幹の鈴木支隊)を追いながらブルドーザーで道を拡幅して自動車が通れる道を作っていたのです。
しかし、その後、米軍がブルトーザーで切り開いた道は崩落してしまっているのでしょう。
どこにも往時を物語る道が見当たらないのです。
ここは山の中の50m四方程度の台地状の多少の起伏のある平坦地。
当時はもっと平坦で広く、池があったらしい。
だから日本軍はここを『池の台』とか『池の平』と名付けたようだが・・・今は池は見当たらない。
戦後、かなり大きな崩落があったのだろう。
まわりは急斜面で取り囲まれており、ポツンとこの狭い台地だけが残っている。

M4戦車 M4戦車

横の人物が先導役を務めてくれたケネディ君

昭和20年4月9日、戦車第2師団命令により隷下の各部隊は各1班の斬込み隊を編成、各班それぞれ別目標に対して一斉斬込み攻撃を行いました。
この時、戦車第7連隊の滝ケ平軍曹の班が、この池ノ台のM4戦車に攻撃をかけたのです。
斬込み班は4晩5日、至近距離に待機して好機をうかがい遂に敢行。
M4戦車1両を破壊しました。
今も残るこの戦車がその時に破壊された戦車です。

M4戦車の内部 M4戦車の中

大砲だけが残っているだけで、あとは空っぽ!
これは屑鉄の価格が上昇した時期に取り外せるものは全て取り外して村の人が売ってしまったらしい。
キャタピラもエンジンも全て無くなっている。
さすがに大砲は取り外せなかったようである。
M4戦車 戦車の周りにいくつかの穴が掘られていました。

ジェイソン達の話によれば「山下財宝」を捜して穴を掘った跡だという。
もう、笑うしかない。
こんな場所に財宝が隠せるわけがない。
ここは米軍の陣地なのだ。何度も斬込み攻撃をかけて戦果を挙げてはいるが日本軍が占領したことはない。
しかし、そんなことは現地人が知らないのも当然か・・・
ジェイソンに戦史を話してやったら笑って頷いていた。

ここで小休止して、道を戻ることにする。
途中で、ジェイソンが「この山を登って帰ろうか?」と目の前の山を指さした。
ん?この山は・・・おおっ!藤原山ではなかろうか!願ってもない!
「行け!行け!」と手で合図する。
ケネディ君がしばらく登山ルートを捜し、急斜面を登り始めた。

藤原山は、成田山・天王山と3つの山で構成されている日本軍の守備陣地「アキ」の一つ。
米軍の最前線(池ノ台)に一番近い山。
ここに昭和20年2月、第10師団歩兵第10連隊第1大隊(海没再編部隊=約100名)が布陣しており、大隊長は輸送船が海没して戦死してしまったため、第2中隊長の乾中尉が大隊長として指揮を取っていた。
この乾中尉という人は若いながら人格傑出した人物だったという。
私の祖父は、この人を一時指揮下に置いて戦う。
この部隊の機関銃中隊の成田分隊が布陣していた山を「成田山」と名付け、藤原分隊が布陣していた山を「藤原山」と名付けていました。

藤原山南西斜面 藤原山の南西斜面

斜面はかなり崩落しています。

この藤原山は日米両軍が取ったり取られたりという激戦を展開した山です。
この時の日本軍の攻撃ルートは北斜面。
我々は反対の米軍陣地側から登る形です。

昭和20年3月9日の払暁、10日の陸軍記念日を期して米軍に占領された天王山・藤原山の奪回総攻撃が行なわれた。
総反撃する主力に呼応して、戦車第10連隊第3中隊段列小隊の須之内清准尉以下7名が重機関銃2挺をもって、藤原山山腹を西から迂回し、丁度私たちのいる南西斜面あたりに進出。
ここは米軍陣地のある池ノ台と藤原山の中間地点。
ここで、池ノ台の米軍陣地からの反撃を引き付けるとともに、藤原山への援護射撃を行ない挟み撃ちをするのが目的。(同士討ちを避けるため主力は藤原山の頂上には立つなという命令が出る)
9日の払暁、周辺は濃い霧に包まれ、視界は20m程度だったという。
総攻撃開始後しばらく後、霧の中から突然米兵が飛び出して池ノ台方面へ逃げていくのに出会う。
そのうち続々と米兵が敗走し始め斜面を駆け下りてこちらに向かってくる。
これを須之内班は2挺の重機で殲滅。
米兵100名以上を撃ち倒したという。

その斜面を我々は登るのです。

塹壕跡 藤原山南西斜面に残る塹壕と思われる穴

斜面にはいくつもの穴がありました。
米軍の塹壕は1.5m四方の四角い穴で、日本軍の塹壕は丸い穴だと言われていますが・・・・
さて、これは日本軍のものなのか、米軍の四角い塹壕が崩れた跡なのか・・・・
または砲撃で出来た穴なのか・・・
さっぱりわからない。
少し掘ってみて、遺留品でも出てくればはっきりするのですが、我々はスコップを持ってきていないしねぇ~
しかも暑い!とにかく暑い!
斜面を登るだけで精一杯。

そのうち突然ドミンが座り込んだ。
あれ?
そのうち胸を押さえて苦しみ始めた!
マズイ!
駆けつけてみるとドミンは顔面蒼白。
心臓発作なのか?呼吸困難なのか?
何か言っているが意味がわからない。
75歳の人に炎天下のこの斜面を登らせたのがいけなかったか。
ドミンがいつもたくさん薬を持っていたのを思い出した。
「薬は?」
「ハウス!ハウス!」
どうもオマリオさんの家に置いてきてしまったらしい。
とにかく動かしてはマズイ。
ジェイソン達に木を切らせて日陰を作らせ、私は持参した扇子で風を送る。
そのうち顔色も戻り大事に至らずに済んだ。
焦ったぁ~

どうもジェイソン達若い連中がドンドン先に進んでしまうので、無理して後を追ったためペースを崩し、呼吸困難か貧血を起こしてしまったらしい。
私は、ビデオを撮りながらマイペースで一番後をかなり遅れて歩いていたからマイペース。
彼らのペースでは問題があるので、連中にこまめに休憩を取るように指示する。

小休止中にケネディ君があちこち歩き回り遺留品を持ってきた。

遺留品 藤原山で見つけた遺留品

中身が空っぽの手榴弾
銃弾
銃弾が装てんされた未使用のマガジン

いずれも米軍のもの。
成田山 藤原山の隣り(北側)にある成田山(野焼きの跡のある山)

その向こうに見えるのが「ナツ陣地」(?)
更に一番遠くに見える一番高い山が「イムガン山」(戦車第6連隊・戦車第2師団速射砲隊等の部隊が布陣)
この時、イムガン山に担ぎ上げた戦車砲がオマリオさんの家の庭にある。
藤原山頂上 天王山から見た藤原山頂上

尾根を歩き天王山へ到達
頂上の半分ほどは野焼きの跡が黒々と広がっていました。

しかし・・・銃弾などが落ちているかもしれない場所を野焼きしたら暴発して危ないんじゃないかなぁ~

既に時刻は12時半、天王山からサラクサク第2峠に降り、そこから真っ直ぐオマリオさんの家に戻ることにした。
オマリオさんの家で昼食を頂き、”お昼休み”となる。


     


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