(リモン峠)
平成17年(2005年)5月6日 |
さて、移動するぞ!
レイテ島には1泊2日しか滞在しないのだから、とにかく時間がない。
急がねば!
9時18分、ヒル522を出発。一路北上します。
ヒル522―(約40分)―ハロ(JARO)―(約10分)―トゥンガ(TUNGA)―(約5分)―カリガラ(KARIGARA)―(約10分)―カポーカン(KAPOOKAN)―(約15分)―りモン峠
ヒル522から約1時間20分でリモン峠に到着しました。
この時のスピードは時速60km~80km。
コンクリート舗装されている道路を走るとはいえ、そんなに広い道路でもないし、また歩道と区分けされているわけでもない。
道端で遊んでいる子供たちの横を時速80kmで走り抜けるのだからハラハラものだ。
かといって、私が何だかんだと後部座席から言う訳もいかないしねぇ~
乗っているだけで精神的に疲れる・・・・
リモン峠のクネクネしたカーブを曲がりながら坂道を下り、しばらく走って第1師団慰霊場に到着。
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近くに案内板がありましたが・・・ う~ん、錆びが出てしまっていてわかりづらい。 |
JAPANESE SHRINE (BREAKNECK RIDGE) SITE OF ONE OF THE BLOODIEST BATTLES IN THE LIBERATION OF THE PHLIPPINES |
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峠の下から見たところ。 右側の木の生えているあたりが第1師団慰霊場。 左に写っている車が私が乗っている車です。 |
第1師団(東京)は満洲からフィリピンに送られた1,3000名の決戦師団です。
ルソン島に到着と同時にレイテ島の防衛のために派遣されました。
昭和19年11月5日に米軍はリモン峠に侵入。
日本軍は第1師団歩兵第57連隊(千葉・佐倉)や歩兵第1連隊などが米軍に対し頑強に抵抗しました。
12月21日、第1師団はりモン峠を棄てて西のカンギポット山方面へ転進。
慰霊場
ここが第1師団司令部跡という話もあるのですが、私の勘では司令部はもっと峠の下のほうじゃないかと思うのです。
どちらかといえば歩兵第57連隊本部があった場所ではないかという気がします。
(確証は全くありませんが・・・)
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第1師団戦没者英霊之碑を中心に、主に歩兵第57連隊関係の卒塔婆が建っています。 |
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慰霊場の脇に建つコンクリート製の慰霊碑の残骸。 これは慰霊碑の跡のような気がします。 プレートを剥がしてしまったようなような跡があります。 一説には第16師団の慰霊碑跡だともいわれますが・・・ どうなんでしょうか? 慰霊碑跡と焼香台の裏に大きな穴が開いています。 これも「山下財宝」探しの跡らしいです。 |
この場所の地面には以前、「山下財宝」探しの大きな穴が開いていたそうですが、現在では修復されておりました。
『レイテ生き残り記』の著者の筒井忠勝様からのメールでは、このプレートの剥がされた慰霊碑は第1師団の慰霊碑だそうで、「日本兵だけを慰霊する」と書いてあったので、元フィリピンゲリラがプレートを剥がしたそうです。 (平成18年8月24日追記) |
慰霊場の丘から見たカリガラ湾
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慰霊場の近くの丘 いかにも陣地や観測所、本部を置くのに良さそうな丘です。 ここに行けば塹壕とか陣地跡らしきものがあるんじゃないかなぁ~ でも、他人の土地だったら勝手に入るとトラブルの元ですからね。 写真だけで我慢しましょう。 |
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慰霊場のある丘 この丘の斜面から多くの日本兵の遺骨が出てきたとドミンが話してくれました。 |
リモン峠の争奪戦では米軍の資料によれば日本軍の戦死者5,252名、捕虜8名、米軍の戦死傷者・行方不明者は1,498名だったという。
(参考:筒井忠勝著『レイテ生き残り記』)
(平成18年1月8日追記)
【歩兵第57連隊のご遺族からメールで頂いた情報】
リモン峠の慰霊場は『第1師団レイテ会(現在では解散)』が設置し、現在は『第1師団玉の会』が自主管理しているとのことです。
隣接するコンクリートの慰霊碑は『埼玉県遺族会の有志』が建立。維持管理されず放置されていたこの碑は最近撤去されたとのこと。この碑が「第16師団の碑」ではないかという話は間違っているとのことです。
また、この碑の金属プレートが剥がされた理由は「日本兵だけを慰霊する」と書いてあったからではなく、単に金属プレートが金目のものだったからではないかとのご指摘をいただきました。
このリモン峠の慰霊場がある場所は、当時の激戦地のど真ん中に当たり、特に司令部などがあった場所ではないとのことです。
歩兵第57連隊本部は、ここからもう少し南のリモン部落の東側に、第1師団司令部は、ここから12km南の“ビサレス”にあったそうです。
(平成19年1月1日追記)