墓参り

(バギオ〜サンフェルナンド〜アゴー〜サンファビアン))


フィリピン4日目
午前7時半チェックアウト。

バギオ市内にある英霊追悼碑

1973年2月11日にバギオライオンズクラブなどによって建立されたものです。
ティーチャーズ・キャンプ

ここは日本軍の病院があったところ。
ドミンによれば、昔ここで遺骨収集をした時に大量の日本兵の遺骨が見つかったということです。
現在でも当時の病院の建物が使われています。
ティーチャーズ・キャンプは「教師会館」とでも言えばわかりやすいかな?全国の教師がここで研修などをしてるということです。
バギオの展望台から見た景色

バギオは高地ということもあって松林に覆われています。
フッと日本にいるような気になってしまいます。
バギオの日本人墓地

この墓地は戦前からあった日本人墓地です。
明治36年(1903年)に日本からここに最初の移民が来ました。
彼ら日本人労務者は一時総勢1,500人にも及び、道路の建設に従事。その三分の一もが死亡するという犠牲を払って道路を開通させたのです。
ここはその当時の人達のお墓です。
日本から持ってきたお線香をあげました。

午前9時過ぎ、バギオに別れを告げて日本人移民達が建設した道路を降ります。
サンブランという坂の途中の部落でドミンがバナナを買ってくれました。
ここのバナナはおいしいとのこと。
フィリピンのバナナなんですけど、私たちが日本のスーパーで見かけるフィリピンバナナとは形が違います。
モンキーバナナを大きくした感じかな?
2種類のバナナを一房づつ買いこんで・・・・私は5本平らげました!(笑)。確かにウマイ!

今日はこれから西海岸へ向かいます。
車で2時間ほどかかって西海岸のサンフェルナンド出ました。

展望台から見たサンフェルナンドの町

この沖合いには多くの日本の輸送船が沈んでいます。
昭和19年12月23日、歩兵第39連隊の乗った”乾瑞丸”もここで米潜水艦によって撃沈されました。船員37名兵員1502名が戦死しました。
この時歩兵第39連隊第1大隊長が戦死。よって生き残った中隊長の乾中尉が大隊長代理として生存者を率いて山岳地帯に入りサラクサク峠の”天王山”に陣を敷いたのです。
サンフェルナンドの南にあるAGOO(アゴー)という町のシティホールの前にある慰霊碑。

この慰霊碑は独立混成第58旅団と配属部隊将兵11,445名の英霊の慰霊碑です。
1993年3月31日に建立されました。

11時半、アゴーの町を通過。まだ昼食には早い。車はどんどん海岸線沿いの道を南下します。

DAMORTIS(ダモルテス)駅跡

マニラから約220キロ離れたダモルテスにあった駅。
マニラから多くの日本軍が鉄道輸送でこの地にやってきたそうです。
米軍上陸後は日本軍はこの地からバギオの山の中へ後退していったとドミンが話してくれました。
サンファビアンの海岸

ここに米軍の一部が上陸しました。
ドミンはここを”ホワイトビーチ”と呼んでいました。
米軍名か?
サンファビアンの海岸沿いの道端にある鹿児島歩兵第71連隊の慰霊碑です。

第3大隊はマニラから北上してこの地で2月末まで米軍と激闘。
最後には斬り込みを敢行して玉砕してしまいました。
連隊主力はマニラ南方のロスバニオスから北上、バギオへ移ってバギオの入口の峠道沿いで肉弾白兵戦を展開しました。

慰霊碑は昭和57年3月16日に建立されています。

   


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