山下大将・本間中将終焉の地

(モンテンルパ〜ロスバニオス)


12時半、モンテンルパを出発。
1時15分、ロスバニオスに向かう途中で少し遅い昼食をとりました。
骨付き豚肉のスープ煮込み1皿、何やらわからぬ肉の煮込み3皿、ライス4杯、ミネラルウォーター3本で3人前325ペソ(780円)なり。

ここから約30分ほど走ってロスバニオスに到着しました。
マニラから約60キロ離れたマキリン山麓にある小さな町です。
ここは山下奉文陸軍大将と本間雅晴陸軍中将が処刑された場所です。

山下将軍終焉の地入口 山下奉文大将終焉の地は個人宅の敷地内にあります。
(写真は、その家の門です)

最近、この土地の所有者が替わったために一人300ペソという法外な金額を要求されました。
ドミンが交渉して私だけ100ペソを払うことで話がつきました。
山下将軍終焉の地 山下奉文大将が絞首刑に処された場所です。

ここには大きなマンゴーの木があったのですが、台風のため倒れてしまい現在はマンゴーの木はありません。
処刑場跡には「将軍 山下奉文終焉の地」の碑が1970年11月23日に”山下将軍を偲ぶ会”によって建立されています。
この建立の時にもドミンは手伝いをしています。
だから、300ペソの要求は失礼だと怒っていました。
そうだよね、自分が建てた碑を見るのに金取られたら怒るよねぇ。

山下奉文大将は終戦時に第14方面軍というフィリピン全土の防衛を指揮する司令官でした。
緒戦のシンガポール攻略戦で”マレーの虎”という異名を付けられた猛将です。
フィリピンを追い出されたマッカーサーは「アイシャル・リターン」を合言葉に反撃をした時に戦ったのが山下さん。
これがいけなかったのか・・・
戦後戦犯に指名され、マニラの軍事裁判で死刑の判決を受けてしまいました。
山下将軍はマニラを”無防備都市”にするためバギオに司令部を移しましたが、海軍部隊は居残ってマニラ防衛戦を行い、マニラは廃墟。約2万名の日本軍は玉砕。米軍の無差別砲爆撃で多くのマニラ市民が死亡しました。
マッカーサーはこのマニラが廃墟になりマニラ市民が多数死亡したことを取り上げ、日本海軍部隊の責任を山下将軍にかぶせました。
更には末端の日本兵の残虐行為の責任もかぶせたのですが、山の中にいる山下将軍には知る由もないことです。
マッカーサーの”山下将軍処刑”の意向は米国の官選弁護人も米・英・豪の特派員も反対の意思を表明するほどの因縁のつけ方でした。
結局マッカーサーの”復讐裁判”で昭和26年2月23日、午前3時2分、軍人としてではなく単なる”犯罪者”として捕虜の作業服のまま絞首刑に処されました。
なんともひどい話です。

本間中将終焉の地入口 本間雅晴中将終焉の地の入口です。

山下将軍終焉の地の土地所有者の家の門のすぐ隣りにあります。
終焉の地は山下将軍のところから直線で100メートルくらいでしょうか。
土地の所有者は別の人です。
ここのお爺さんは気の良さそうな人で・・・(隣りの住人とは大違い)
「管理費としていくらかいただけないでしょうか?」とのこと。
隣りに100ペソ払ったので、同じく100ペソ渡したら大喜びされました。本当に気のいいお爺さんでした。
本間中将終焉の地 本間雅晴中将が銃殺刑に処された場所です。

ここには英文で書かれた慰霊碑と1973年に本間中将のお嬢さんが建立された慰霊碑があります。

本間雅晴中将は緒戦のバターン半島の攻略戦の時の司令官でした。
東京の大本営の方針に従って戦いますがうまくいかず、援軍をもらって第2次バターン攻略戦を戦いました。
この時にマッカーサーはフィリピンから逃げ出したのです。
米比軍は遂に降伏しますが、予想以上の捕虜の数。
バターン半島はマラリヤ蚊の生息地。早く移動させねば捕虜たちはマラリヤで死んでしまいます。
しかし輸送するためのトラックなどありません。やむなく徒歩で”輸送”ということになりました。
炎天下に飢えと病気で1,200名の米兵と16,000名のフィリピン人が行方不明もしくは死亡しました。
これが有名な「死の行進」です。
本間中将はこの責任を問われたのです。
しかし、護衛の日本兵も条件は同じ、武器を持っているだけこちらのほうが条件は悪かったのではないでしょうか?
炎天下を飢えと戦いながら徒歩で護衛ですから・・・・護衛の日本兵からも死者が出ました。
「死の行進」では虐殺事件も出ていますが、これは大本営参謀の辻政信(戦後国会議員)が勝手に命令を出してやったことです。
ところがこのことも本間中将の責任として裁判にかけられてしまいました。
本間中将は捕虜の輸送を命じた後、第1次バターン攻略戦の戦いの不手際を問われて陸軍中央から司令官を罷免され、予備役(引退)になっていました。
だから「死の行進」など何のことやらわからなかったのですが・・・・
マッカーサーにはフィリピンを追い落とされた恨みがあります。
ここでも彼の”復讐裁判”
そして昭和21年4月3日、バターン第2次攻撃の5周年記念日のその日に銃殺刑に処せられました。
これもまたひどい話です・・・・


8月14日に現地に行かれた方からメールをいただきました。
その情報によれば、現地は現在宅地造成中とのこと。
山下、本間両閣下の処刑の地も消滅してしまうようです。
なんとも残念です。

(平成16年8月16日記)

その後の情報によると、WINS Internationalと日本文化チャンネル桜の手により、山下奉文大将終焉の地碑の修復が行なわれ、綺麗になって保存されているそうです。
本間雅晴中将の慰霊碑はそのままの状態らしいのですが、そのうち綺麗になる予定とのこと。
安心しました。

(平成17年3月31日記)


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