(カバナツアン〜サンホセ〜プンカン〜バレテ峠)
今回の戦跡訪問の旅ですが・・・
旅行社に払うのはフィリピン航空のマニラ往復飛行機代、6泊7日のうちの4泊分の宿泊代、ワゴン車1台(ドライバー付き)5日分、コレヒドール島観光代と送迎代、空港送迎代です。
ガイドのドミンは旅行社を通さず個人的に頼んだので、彼の日当、2泊分の宿泊代、昼食等食事代は現地で私が払うことで交渉済み。
なにせ現地の状況次第で変更する可能性の多い旅だったので、このくらいの自由があったほうが便利。
ドミンとドライバーは別の安宿に宿泊。彼は私の負担を軽くするため私と一緒に宿泊しようとはしないのです。
朝食を1人で取っているとドミンが迎えにきました。
彼の日当について再確認。1日1,000ペソ(2,400円)で5日分を先にまとめて支払うことにしました。
5日分5,000ペソ(12,000円)なり。
彼の宿泊費や食事代等は最終日にまとめて別途請求してくれるよう頼む。
さぁ、第2日目のスタートです。
チェックアウト時に宿泊代と朝食代を請求されたが、これは最初の旅費に含まれているので、旅行社に請求するようドミンを通して交渉。
時々こういう風に打ち合わせ済みだと思っていた事項が違っていることが多いのがフィリピンでしょうか。
ちなみにホテル代は915.75ペソ(2,198円)、朝食代は130ペソ(312円)でした。
午前8時にカバナツアンを出発、国道5号線をSAN.JOSE(サンホセ)に向かいます。
約1時間後、サンホセの町の中に入りました。
サンホセ駅跡 正面に見える2つの窓のある建物が駅舎跡。(廃線となっている) 現在では廃屋となって、個人の物置小屋のようになっているように見受けられました。 画面の駅舎の左側に昔はホームがあったが、今では個人宅の敷地となっていて、庭の中に線路が残っていました。 画面右側の道路は昔のまま、少し道幅は狭くなっているようであるが位置は変わっていません。 戦中はマニラ方面から大量の物資がここに運ばれてきたのです。 戦後は日本軍捕虜がこの駅からマニラ方面へ運ばれたのであります。 |
更に北上すること30分。5号線沿いのプンカンという部落に到着。
プンカンの5号線沿いに歩兵第10連隊の慰霊碑があります。 この慰霊碑は隣の家の敷地内にあるような感じで、私が到着するなり家からゾロゾロと家族が出てきました。 多分、この家族がこの慰霊碑を維持管理しているのでしょう。 綺麗に清掃されて維持されています。 巡拝慰霊団などが慰霊祭を開催するときに慰霊団参加者が近所の子供たちにお菓子やらなにやらとお土産を渡したりします。 それを期待してか子供達が集まってきましたが・・・ 私は渡すものは何も持っていません。 彼らには会釈だけして立ち去ることにしました。 |
更に北へ20分ほど走ります。クネクネと曲がった道を登ると・・・・”バレテ峠”に到着します。
途中、大型トレーラーが横転していました。こんなところで・・・どうやって横倒しになったトレーラーを起こすつもりなのだろうか?
バレテ峠 (米軍名:ダルトン・ヒル) ヌエバエシヤとヌエバビスカヤの両州境にあります。 日本軍の慰霊碑がある場所から撮影しました。 正面の山を中心に第10師団(鉄兵団)主力が防禦陣地を構築して昭和20年2月から5月まで血みどろの死闘を演じましたが、5月23日に米軍に突破されてしまいました。 |
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バレテ峠の慰霊碑のところから北方のサンタフェ方面を見た景色です。 | |
日本軍の慰霊碑 この慰霊碑はガイドのドミン氏が若かりし頃(昭和59年)、日本の慰霊団の要請で工事請負人としてここに設置したのです。(彼の自慢の一つです) この周辺で収集された遺骨は荼毘にされて日本に還りましたが、残った灰はこの碑の下に埋められました。 |
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手前の白い塔が米軍の慰霊碑(通称ダルトン碑) バレテ峠攻略に多大な犠牲を払った米第25師団の将兵のために建てられた碑です。 師団長のダルトン中将がここで戦死したのでダルトンの名が付けられています。 碑文にはこの峠道で日本兵戦死者7,403名を発見していると書かれています。 |
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バレテ峠のドライブインのトイレ ドライブインの建物は小奇麗なんですが・・・・ 便座はありません。用を足すときは中腰で・・・ 流す時?その時は隣りのピンクのバケツからヒシャクで水をすくって便器に流し込みます。しかし、ちゃんと流れる保障はありません。 出先で用を足すのは極力避けたいものです。苦労します・・・ 出発前にホテルで用を足しておきましょう! |