星空に涙

(マリコ村のオマリオ家〜”サル陣地”の慰霊碑)


やっとこさ、マリコ村のオマリオ氏の家に到着。
ガイドのドミンを介して宿泊させてくれるようお願いする。
オマリオ氏とは2年前にお会いしていたこともあり、また事前に私が来ることも伝わっていたらしく、快く宿泊することを了承してくれた。
更に翌日の”サラクサク第2峠”登山には息子のジェイソン君、甥のバディ君がガイドとして同行してくれると言う。
有難い。

そうと決まったら夜までの時間がもったいない。
”サラクサク峠”の慰霊碑がある”サル陣地”へ徒歩で向かうことにする。

サラクサク峠慰霊碑 ”サル陣地”頂上に建つ”サラクサク峠慰霊碑”
昭和53年(1978年)5月20日建立
日本語・英語・フィリピン語の碑文が書かれています。
後の山々がサラクサク峠道の通っていた山々です。
現在では峠道は崩れ去って跡形もありません。
ここで戦車を失い徒歩部隊に再編された戦車第2師団を中心として、私の祖父の部隊などが米第32師団と昭和20年2月から6月まで戦った場所です。
日本軍戦死者:4,600名、米軍戦死者:3,200名。
更には日本軍に畑を荒らされ食糧を奪われた現地住民が多数餓死したという。
サル陣地の横穴壕跡 ”サル陣地”近くの丘の斜面にあった横穴壕跡
私が到着する1週間ぐらい前に私的な遺骨収集グループがここを掘ったのだとバディ君が話してくれました。
そうとう奥まで続いているらしく、掘りきれず途中であきらめたとのこと。
通常、横穴壕は真っ直ぐではなく途中で少し横に掘られているはずです。
これは壕の真ん前で砲弾が炸裂しても、壕の奥にいる兵隊に破片が当たらないために少し斜めに枝のように掘るのです。
ということは、ここはまだ入口附近なのかもしれません。

暗くなるまでの間、周辺を散策。
個人壕、塹壕跡などを見て歩く。


帰宅後シャワーを浴びようとしたが、シャワーは予想通りお湯は出ない。水だけ。行水です。
しかし、ここは1,500メートル級の山々が連なる高地。
昼間は日差しの強さで暑いが夜は急激に涼しくなる。
水を浴びてTシャツと短パンでは涼しすぎて震えてくるくらい。しまったぁ。うっかりしてた。
ジャージでも持ってくればよかったと後悔。
SARSより、ここで風邪を引くことのほうが恐怖です。風邪でも引いたら翌朝の登山は不可能になる。
腹でも冷やしたらアウトだ!
何のためにここまで来たのかわからないではないか。
なんとか精神力で風邪を撃退せねば・・・・

家族皆と夕食をとる。
オマリオの奥さんが食事が口に合うか気にしていた様子だが、ドミンが私が何でもパクパク食べるので大丈夫だとフィリピン語で説明してくれた。
居候の癖して、ここでも3杯もおかわりしてしまった。
食後にはお酒も入り話に花が咲くが・・・・
夜6時から10時までの4時間ぶっ通しの”英会話”はさすがにキツかったぁ。

話に行き詰まったら・・・・
「ちょっとタバコを吸ってきます」と庭に逃げるのが一番。
外で1人でタバコを吸いながら、頭の中で和文英訳。(笑)
文章が出来上がったら皆のところに戻って、おしゃべり再開。

何度目かタバコを吸いに庭に出た時のこと。
ふと見上げると満天の星空。目が夜の闇に慣れてくるに従い、次から次へと星が増える。
キラキラ、キラキラと無数の星が輝く。圧巻である。
星空を見上げているうち不思議と涙が出てきてしまった。
半世紀以上前、祖父たちもこの星空を見ていたに違いない。
昼間は壕の中に隠れ、夜に行動を開始、米軍陣地に斬り込みをかける。
祖父たちはどんな思いでこの星空を見ていたのだろうか?
そんなことを思ったら不覚にも涙が止まらなくなってしまった。

   


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