前橋城 まえばしじょう

群馬県前橋市大手町1丁目(県庁付近)


群馬県庁



群馬県庁

(再築の本丸跡)



(平成15年7月19日)
三の丸緑地
(旧前橋城の三の丸跡)
三の丸緑地

再築前橋城の概要

再築前橋城は、文久3年(1863)着工後、3年8ヵ月かかって慶応3年(1867)3月完成した。
城の縄張りは、旧前橋城三ノ曲輪を本丸とした渦郭式(渦巻き状に曲輪が続く様式)で、城郭総坪数は旧前橋城に匹敵した。
城を取り巻く土塁の要所要所に砲台が設けられるなど近代的な城郭であったが、完成を急ぐあまり城門や建物は簡素なものであった。
しかし、城は城郭としての機能を果たさないまま明治維新を迎え、本丸御殿(後の群馬県庁舎)を残して取壊された。
現在、本丸後が群馬県庁となっているが、現存する城の遺構は少ない。

(説明板より)


前橋城の跡の碑




「前橋城の跡」の碑




(平成15年7月19日)

前橋城碑の解説

前橋は古くは厩橋といった。
東山道の群馬の駅が近く、それが地名の起こりだろうという。
厩橋城が築かれたのは15世紀末頃で、初代城主は箕輪城主長野氏の一族長野佐衛門尉方業(法号固山宗賢)と推定されている。
以後長尾氏らの厩橋衆が拠っていたが、天文21年(1552)小田原北条氏の勢力が上州に及び、永禄3年(1560)には、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城に進出して翌年小田原を攻撃し、関東奪回をはかった。

このあと上杉氏の家臣北条高広が厩橋城を守っていたが、その戦略的な要害が群雄争覇の目標とされ、上杉、北条、武田氏の間に攻防がくりかえされた。

天正10年(1582)武田勝頼が敗死すると、織田信長の武将滝川一益が厩橋城に入って関東管領を称したが、信長の急死によって本国へ帰り、城は北条氏の手中に帰した。
ついで天正18年(1590)4月、小田原征討軍の浅野長政らに攻められて落城した。

同年8月関東に入国した徳川家康は、重臣平岩親吉を厩橋城3万3千石に封じた。
親吉は治政11年をへて、慶長6年(1601)甲府に移り、代って川越から酒井重忠が入封、以後9代150年の間、酒井氏の藩政が続いた。
4代忠清は大老となり、下馬将軍の名で知られる。

酒井氏時代の前橋城は城域15万余に及び、西に利根川の断崖を背とし、東南にのびる丘上に郭と濠をめぐらしていた。
本丸は西端にあって、ここに三層の天守閣があった。
5代忠挙の時、城下は最も栄え公称を前橋と改めたが、その晩年は財政に苦しみ、寛延2年(1749)忠恭の時、姫路に転封となった。
代って姫路から松平朝矩が入封したが、酒井氏時代以来難題であった利根川の激流による城郭の破壊が進み、その修復に苦しんだ松平氏は、幕府に願って明和4年(1767)川越へ移城した。
以後、前橋城は廃され、8万石に近い城付領は約100年の間、川越藩の分領として陣屋支配を受けることとなった。

この間、主を失った城下町は衰え、領民は再三にわたって帰城を請願したが、幕末の藩主直克の決断により、文久3年(1863)12月、幕府から改築の許可を得、慶応3年(1867)3月竣工して帰城が実現した。
この背景には、前橋領の特産生糸貿易の活況に寄せる藩政再建の願いと、生糸商人ら領民の莫大な献金、労力奉仕があった。
しかし、わずか半年で大政奉還となった。
廃藩置県後、城郭は廃されたが御殿は残されて県庁舎となり、そのため前橋の町は今日の繁栄をみている。
碑文は、藩主松平直克の再築の功を偲んでこの碑を建てるとある。

この城址碑の位置は、旧城三の丸東南隅の土居上に当たる。
碑の題額は、直克の長子松平直之氏、撰文は修史局編集官、のち東京大学教授、貴族院議員になった重野安繹氏である。
書の日下部東作氏は鳴鶴と号し、明治書道界の重鎮である。

昭和58年10月
群馬県

(説明板より)


土塁



「前橋城跡」の碑がある土塁





(平成15年7月19日)
土塁



高浜公園(県警本部裏)から見た土塁




(平成15年7月19日)

前橋城跡遠景 平成16年9月11日

前橋グランドホテルの客室から見た前橋城跡の遠景
手前の川が利根川です。

(平成16年9月13日記)



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