前島密像

前島密 まえじま・ひそか

天保6年1月7日(1835年2月4日)〜大正8年(1919年)4月27日

新潟県上越市 「前島記念館」でお会いしました。


前島密は天保6年(1835年)に、現在の上越市下池部に300年も続く地主で、造り酒屋も営んでいた上野家の次男として生まれましたが、その年の8月に父親を亡くします。
母親が針仕事をして密を育てたといいます。
(母ていは明治11年に深川木場の密の別邸で84歳で亡くなっています。)
13歳で江戸に出て医学を修め、蘭学・英語を学びました。
嘉永6年(1853年)19歳のときにペリーの黒船を浦賀に見に行き、日本の海防に関心を持ち、西洋砲術・長沼流兵法・気関学・航海術の研究を始めます。
その後、24歳から31歳まで全国の三分の二を踏査します。
慶応2年(1866年)32歳で幕吏・前島家の養子となりました。
この年、幕臣として、密は国民に学問を広めるには、むずかしい漢字を廃止すべきだと将軍徳川慶喜に意見書を提出しました。
明治元年、34歳のときに大久保利通の大阪遷都論に反対し、江戸遷都を大久保に建言しました。
明治3年(1870年)駅逓謙正となり、郵便事業の実施に乗り出し、翌年に郵便制度をスタートさせました。
この年から退官する明治14年まで郵政の長官として郵便事業の基礎を築きました。
明治5年には新聞事業の育成のため郵便報知新聞を創刊するとともに、陸運元会社(現・日本通運株式会社)の設立を助けました。
明治8年には郵便為替と郵便貯金制度を開始。
明治10年(1877年)万国郵便連合条約に加盟して海外との通信をスムーズにするとともに日本の実力を海外に認めさせました。
明治14年、47歳の時に大隈重信を党首とする立憲改進党の結党のために官職を辞します。
明治20年(1877年)52歳。東京専門学校(早稲田大学の前身)の校長に就任します。
明治21年逓信次官となり、官営による電話交換制度を実施しました。
明治27年(1894年)60歳。北越鉄道株式会社の社長となり、北越鉄道(直江津〜新潟)建設を始めました。
明治37年、70歳で貴族院議員に当選、43年に辞職。
大正8年(1919年)神奈川県横須賀市の別荘如々山荘で亡くなりました。85歳でした。


前島記念館

前島記念館
(郵政研究所附属資料館)
生家跡に建っています。
休館日:月曜日・年末年始
入館料:無料
(平成13年現在)


前島密像 平成20年6月17日

大阪府大阪市中央区・かんぽ生命大阪支店前でお会いしました。

前島密像



前島密像
(大阪市中央区北浜東3−9・かんぽ生命大阪支店)





(平成20年6月17日)

前島密(1835年〜1919年)

明治のはじめ、日本に郵便の仕組みを築き、「郵便」や「郵便切手」などの用語も定めた。
その多大なる功績から、「日本近代郵便の父」と呼ばれる。

(信条)
『縁の下の力持ちに なることを厭いとうな 人のためによかれと 願う心を常に持てよ』

(銘板より)




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