ラナルド・マクドナルド Ranald MacDonald

1824年2月3日〜1894年8月26日


アメリカ合衆国オレゴン州アストリアに白人とインディアンの混血児として生まれた。
1847年の秋、捕鯨船プリマス号に乗り込み日本に向かう。
翌1848年(嘉永元年)北海道焼尻島に上陸したのち、利尻島野塚へ上陸。
松前藩より長崎へ護送され、7ヶ月監禁される。
この間、森山栄之助らオランダ通詞に英語を教える。
1849年4月、アメリカ軍艦プレブル号に引き渡され、1853年帰国。
著書に『日本回想録』がある。


マクドナルド顕彰碑


マクドナルド顕彰碑
(長崎県長崎市上西山町)

制作者:山崎和國
碑文作成:吉村 昭
碑文揮毫:江副景舟


(平成20年11月22日)

マクドナルド顕彰碑

ラナルド・マクドナルドは嘉永元年(1848年)、日本に憧れて利尻島に上陸。
長崎に護送されて、此の地で日本人に初めて英会話を教え、それが日本の英語教育の飛躍的な向上の基礎になった。

創立30周年を記念してこれを建立す
平成6年11月11日
長崎南ロータリークラブ

リーフレット リーフレット

ラナルド・マクドナルド(1824〜1894)について

ラナルド・マクドナルドは、1824年北アメリカ・オレゴン州アストリア市で、スコットランド人を父、チヌーク族の首長の娘を母として生まれた。
早くから日本に憧憬の念をいだき、24才のとき、捕鯨船員として日本近海に至り、北海道・利尻島に上陸した。
ただちに密入国者として長崎に連行され拘禁されたが、彼の誠実な人柄と高い教養を認められ、長崎奉行の肝入りで西山郷に英語教室を開いている。
期間は半年ほどであったが、森山栄之助を含む14人の日本人に英会話を教え、我国の対外交渉に大きな貢献をした。
また、帰米後、アメリカ議会に『日本社会は法治国家であり、日本人は礼節正しく民度も高い』といった、かれの陳述書が提出された。

(説明板より)

マクドナルド顕彰碑



マクドナルド顕彰碑
(長崎県長崎市上西山町)





(平成20年11月22日)

マクドナルドとの出会い

森山栄之助たち14名のオランダ通詞に日本で最初に英会話を指導したのは、ラナルド・マクドナルドというアメリカ捕鯨船の船員であった。
マクドナルドは、アメリカ先住民チヌーク族の族長の娘とハドソン湾会社社員のイギリス人アーチボルト・マクドナルドとの間に生まれたが、生まれてすぐに母を亡くし、白人の養母に育てられた。(〜略〜)
マクドナルドは、船員となって各地を放浪した末、ニューヨークで捕鯨船プリマス号に乗せてもらった。
1845年(弘化2年)暮れのことで、マクドナルド21歳の時であった。
サンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)に着くと、ここで正式に捕鯨船員として契約したが、この時、マクドナルドは奇妙な条件を付けた。
それは、積荷が満杯になった時か、帰航する時に、日本の近海の希望する場所で自由に船を離れることが出来るという条件であった。

プリマス号は日本近海で鯨を取り、1848年(嘉永元年)には、とうとう満杯になってしまった。
マクドナルドはエドワーズ船長に契約の履行を迫り、小さなボートを譲り受け、利尻島付近に遭難を装って辿り着いた。
マクドナルドが浦人の助けで利尻島野塚に上陸したのは、日本の暦で嘉永元年6月2日(1848年7月2日)であった。
蝦夷地を任されていた松前藩では、江戸からの指示でマクドナルドを藩の御用船天神丸に乗せて、9月5日長崎に送った。
長崎港に着いたのが9月15日、順風に恵まれた天神丸は、松前から10日で到着したのであった。
長崎奉行に引き渡されたマクドナルドは、奉行所に程近い諏訪神社の流鏑馬馬場やぶさめばばに面した黄檗宗おうばくしゅう崇福寺の塔頭「大悲庵」に収容されることになった。(〜略〜)

森山栄之助が浦賀から帰った年の弘化3年(1846)には、フランス艦隊が長崎港に入港してきた。
翌弘化4年(1847)には、アメリカ捕鯨船ローレンス号の船員7名、さらに次の年には、ラゴダ号の15名とマクドナルドが立て続けに長崎に送られてきた。
栄之助は、それらのいずれにも中心となって通訳を担当した。(〜略〜)

二人の最初の対面は、天神丸入港の翌日の9月16日であった。
長崎奉行所の与力白井達之進は、通詞の植村作七郎と森山栄之助を連れて、高鉾島の前面に停泊している天神丸に乗り込んできた。
始め、白井達之進は植村作七郎に、マクドナルドの名前を聞かせた。
作七郎が、英語で尋ね、マクドナルドが答えると、後は、栄之助が全てを通訳した。(〜略〜)

栄之助が、13名の通詞たちと大悲庵で英語を学び始めたのは、マクドナルドが長崎に送られて来てからひと月程たった10月の半ば頃であった。
人柄もよく、日本語を学ぶことに非常な興味を示しているマクドナルドから、本格的なアメリカンイングリッシュを学びたいと、通詞目付の本木昌左衛門を通して奉行所に願い出た。
英語学習の必要性を痛感していた長崎奉行井戸対馬守覚弘さだひろは、大いに喜び、通詞目付の本木と目付助の西与一郎を世話役として、英語学習グループを結成させ、用務の間には大悲庵へ行って学ぶことを許した。
英語学習の14人の通詞は、マクドナルドの記憶によると、西与一郎、植村作七郎(74歳)、森山栄之助(28歳)、西慶太郎、小川慶次郎、塩谷種三郎、中山兵馬(18歳)、猪股伝之助、志筑辰一郎(17歳)、岩瀬弥四郎、堀寿次郎、茂鷹之助(19歳)、名村常之助、本木昌左衛門(48歳)であった(その他の人物の年齢は不明)。

学習は、大悲庵の座敷牢の格子を挟んで行われた。
マクドナルドが牢の中で、英語を音読すると、格子の外側に並んで座っていた通詞たちは、一人一人順番に音読した。
マクドナルドは、その都度発音を訂正し、そうして出来るだけ、彼が覚えた日本語でその意味などを説明した。
それでもどうしても文字に書かなければ理解できないような時には、栄之助が中に入って蘭英辞書で確認したり、紙に書いたりして通詞たちに閲覧させた。
この学習は、通詞たちとマクドナルドの熱意があいまって急速な進歩を見せた。
マクドナルドは書いている。
「彼等は文法などの面でかなり上達した。特に森山がそうだった。ということは、彼等が進んでそれを私から学び取ったということだ。彼等は大変のみこみが早く、感受性が鋭敏であった。彼等に教えるのは楽しみだった」
栄之助たち通詞とマクドナルドの熱心な、そうして奇妙な日本最初の英語学習は、翌嘉永2年(1849)3月25日にアメリカ軍艦プレブル号が入港して来るまでの僅か7ヶ月であった。

(引用:江越弘人著『幕末の外交官 森山栄之助』 弦書房 2008年発行)




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