間宮林蔵の像 平成15年6月8日

間宮林蔵 まみや・りんぞう

安永9年(1780年)〜弘化元年2月26日(1844年4月13日)

※生誕は安永4年(1775年)との説がある。

茨城県筑波郡伊奈町の「間宮林蔵記念館」でお会いしました。


安永9年(1780年)に常陸国筑波郡上平柳村(現:伊奈町上平柳)の農家に生れました。
林蔵の祖先は、戦国時代、小田原の北条氏の家来である間宮豊前守康俊が、秀吉の小田原攻めの際に敗れ、その末子である隼人がこの地に落ちのびたと伝えられています。
寛政7年(1795年)16歳の時、岡堰おかぜきで出張中の幕府普請役・下条吉之助に、その才能を認められ江戸に出て村上島之允に師事します。
20歳の時に村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡り、翌年、函館にて伊能忠敬と子弟の約を結びました。
24歳以降、東蝦夷地・南千島の測量に従事し、26歳の時には天文地理御用掛として、蝦夷地日高のシツナイに勤務しました。
翌年にはエトロフ島に渡り、沿岸実測、新道開拓に当たります。
文化5年(1808年)29歳の時、第1回樺太カラフト探検を命じられ、翌年の第2回目の探検で海峡地帯を突破。「間宮海峡」を発見しました。
伊能忠敬の死の翌年、40歳の時から蝦夷地内部の測量にかかります。(3年で完了)
45歳の時に異国船渡来の内偵のため、東北の海岸を巡視します。
文政11年(1828年)49歳の時にシーボルトから小包が届きましたが開かず勘定奉行に差し出しました。このことが発端となって「シーボルト事件」が起こったと言われています。
翌年、隠密として長崎に下る。
天保5年(1834年)55歳の時、このころから水戸家に出入しています。
2年後、隠密として石見国浜田で密貿易事件摘発の発端を掴みました。
59歳の時に江戸で病の床についてしまい、6年後の天保15年(1844年)に65歳で江戸の自宅で病死しました。
林蔵には実子がいなかったので、分家筋の子孫が継いで現在に至っています。


間宮林蔵記念館 間宮林蔵記念館

茨城県筑波郡伊奈町上平柳64

開館時間:9時〜16時30分
休館日:毎週月曜日、12月28日〜1月4日
入館料:無料
交通:関東鉄道バス(取手駅から25分)南谷井田下車徒歩20分

(平成15年6月8日訪問)

訪問記
自家用車を運転して行きました。常磐自動車道・谷和原インターを降りて約8キロ、途中、看板が出ていたのですが近くに来たら看板が見当たらない!周りは田んぼと農家。ちょっと分かりづらいです。ナビのおかげで何とか近くまで来ましたが・・・・目印は茅葺屋根の農家。小さな記念館なので「生家」の茅葺屋根のほうが目立ちます。
記念館の前に車1台分ぐらいの駐車スペースがありますが、専用駐車場は少し離れたところにあります。(看板あり)
「間宮林蔵」のパンフレットは有料(100円)です。
中はこじんまり。遺品や地図、パネル展示など。林蔵の活躍を紹介する映像コーナーは上映時間9分。お手ごろな時間でした。


間宮林蔵の生家 生家(県指定史跡)

記念館の敷地内にあります。
昭和46年(1971年)に現在地に移築・復元されたものです。
生家の内部 生家の内部
生家の内部

生家の内部


上がって部屋の中を見ることができますが・・・・
何もありません。



(平成15年6月8日)

(茨城県指定史跡)
間宮林蔵生家

木造藁葺平屋建 76.34u(23.09坪)

この家は、1809(文化6)年、間宮海峡の発見という大偉業を成し遂げた探検家・地理学者『間宮林蔵』の生家である。
林蔵は、1780(安永9年)この家で生まれ、15〜6歳頃までここで暮らしたといわれる。
幼い頃から神童ぶりを発揮した林蔵は、この家で、両親の愛情に包まれ、立身出世を願っていた。
この生家は、昭和46年に移築・復元されたもので、それまでは現在地の南西約50mの位置にあった。
創建の年は明らかではないが、細部の建築手法から見て、安永年間よりも大して遡り得ないと考えられている。

伊奈町教育委員会

(説明板より)


林蔵をめぐる人々

シーボルト
1796〜1866年ドイツ人医師・博物学者。
長崎出島のオランダ商館付医師として1823年(文政6)来日。
鳴滝塾で西洋医学・蘭学を教える一方、日本に関するあらゆる分野の資料を収集した。
1826年(文政9)江戸参府の折、高橋景保より御禁制の樺太・蝦夷・日本地図を入手したのが発覚し、1829年(文政12)追放処分となる。
1832年(天保3)シーボルト著「日本」の中で間宮海峡(まみやのせと)の名を初めて世界に紹介した。
松田伝十郎
明和6年(1769)〜天保14年(1843)越後の人。
寛政11年(1799)から文政4年(1821)まで幕府御用掛として蝦夷地経営に参加する。
文化5年(1808)林蔵と共にカラフトを探検する。
「北夷談」等を著す。
最上徳内
宝暦5年(1755)〜天保7年(1836)出羽の人。
26歳で江戸に出て、本多利明に師事する。
天明5年(1785)の幕府第1回北方探検に参加する。
以来鋭い科学的洞察力をもってクナシリ、エトロフ、カラフトまでも探検し、北方探検、蝦夷地経営の第一人者となる。
晩年シーボルトとたびたび会見。
シーボルトは徳内を「尊敬すべき老学者 18世紀の最も卓越せる日本の探検家」とたたえている。
伊能忠敬
延享2年(1745)〜文政元年(1818)地理学者。上総の人。
18歳の時、下総国佐原の酒造家であり名主の伊能家の養子となる。
実業を興す傍ら、算数・測量・天文学等を研究。
50歳で家督を譲り江戸に出て高橋至時に入門、西洋暦法・作図法を学ぶ。
林蔵に測量法を伝授したことも知られる。
寛政12年(1800)以降幕命により全国を測量し、「大日本沿海輿地全図」を作成する。
村上島之允
宝暦10年(1760)〜文化5年(1808)伊勢の人。地理・測量家。
書画にも巧みで「蝦夷生計図説」は代表的な著書である。林蔵の師。
一日に30里を歩くという健脚の持ち主。
普請役として関東はじめ各地を巡廻。
寛政10年(1798)蝦夷地に渡り、以後開発・測量等に従事する。
村上貞助
安永9年(1780)〜弘化3年(1846)備中の人。村上島之允の養子。
林蔵を助け「東韃地方紀行」「北夷分界餘話」を編纂する。幕府普請役。
画家としての評価も高い。
ゴローニン事件ではロシア語の訳者として活躍している。
徳川斉昭
寛政12年(1800)〜万延元年(1860)水戸藩9代藩主。
学識高く著書も数多い。
藤田東湖らを登用し藩校弘道館の設立、兵制改革など藩政改革に努めた。
早くから北方問題の急務を唱え、晩年の林蔵を招き教えを受ける。
しばしば幕府に蝦夷地の経営・警備・開拓を願い出たが許されなかった。
一時幕府から謹慎を命ぜられたが後に許され、ペリー来航時には幕政参与として活躍した。

(パンフレットより)


シーボルト事件と間宮林蔵

シーボルトはオランダ商館長に随行したドイツ人学者で熱心な日本研究家。
高橋景保かげやす高橋至時よしときの子で、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』を忠敬没後に完成させた優れた洋学者。
この二人が江戸で親交を結び、シーボルトは景保に洋書を贈り、景保は見返りに国禁の日本地図(伊能図)をシーボルトに贈りました。
この国禁の日本地図を渡したことが発覚し、シーボルトは国外追放、景保は捕らえられ獄死しました。
これが「シーボルト事件」と言われる事件ですが、この国禁を破り日本地図をシーボルトに渡したことが発覚したのは間宮林蔵の密告によるものだとされています。
この事件が世間に広まると、林蔵は世間から非難され、探検家としての名声を失ってしまいました。
幕府は世間から遠ざけるためか、林蔵に隠密おんみつを命じ、諸国に潜行させて諜報活動をさせます。
そのため林蔵は55歳から70歳までの人生の後半は隠密として生きました。
シーボルトは後に『日本』の中で、林蔵が密告者でも、その功績は認めねばならないとして、林蔵が発見した海峡を「間宮海峡」と命名し、学問上の大功績であるとしてヨーロッパに紹介しました。

(平成17年1月16日記)


専称寺 専称寺

「間宮林蔵記念館」の前の道を200メートルほど行った突き当りにあります。

ここには間宮林蔵のお墓があります。



平成15年6月8日訪問
間宮林蔵の墓

左が間宮林蔵の墓
右が両親の墓
間宮林蔵の墓

(説明板より)

間宮林蔵ここに眠る

19世紀初頭の北方探検家・地理学者の間宮林蔵は、安永9年(1780)常陸国筑波郡上平柳村に生まれ、天保15年(1844)波乱に満ちた65歳の生涯を終え、ここに眠っています。
林蔵は、当専称寺の住職伯栄和尚に学び、その才能を発揮、小貝川の堰止め工事で認められたといわれ、江戸に出て行きました。
ここは幼い頃の林蔵勉学の場であり、遊びの場でもありました。
昭和30年(1955)墓は茨城県の史跡に指定されました。
郷土の偉人「間宮林蔵」顕彰のため、子孫伊奈間宮家・専称寺の協力を得て、この墓所を保存、公開しています。

間宮林蔵の墓
この墓は、文化4年(1807)決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、林蔵自ら建立した生前の墓です。
偉大な事業を成し遂げる前の、身分の低い武士に合った百姓並みの墓です。

顕彰記念碑(間宮先生埋骨之處)
明治37年(1904)正五位の贈位を受けたあと、明治43年志賀重昂しげたからの仲介で建立されました。
碑文中「先生の功烈愈々顕れて先生の墓石愈々小也」の文章は特に有名です。

平成7年2月
伊奈町教育委員会

間宮林蔵の像 平成15年6月8日

伊奈町立谷井田小学校でもお会いしました。

谷井田小学校 「間宮林蔵記念館」の近くの谷井田小学校の入口に建っています。

銅像の碑文

間宮林蔵(倫宗)先生は安永9年(1780) 常陸国筑波郡上平柳村(伊奈町)に生を受け 幼少より才気煥発 小貝川堰止め工事の幕吏に認められて出仕 蝦夷地(北海道)の開発に従う 時あたかも四海の風雲急を告げ 天下の耳目北辺に集まる
林蔵 幕府の命をうけ 国境の果て北蝦夷を探る 極寒に身を挺すること二年 遂に間宮海峡を究め シーボルトをして その名を世界に轟かしむ 時に林蔵齢三十 正に「非常の人 非常の業」というべし
以来 星霜百八十年 漸くにして 待望の彫像建立の機熟す ここに篤志を得て 林蔵若き日の秘境探検の雄姿を刻み永く偉功を後世に伝えんとす 郷土の誇りこれに過ぐるものなし 間宮林蔵先生の精霊 降りて 英像に宿りたまわんことを

平成元年7月吉日
寄贈 伊奈ライオンズクラブ
撰文 大谷恒彦


間宮林蔵像 平成22年5月29日

北海道札幌市・「北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)」でお会いしました。

間宮林蔵像



間宮林蔵像

(札幌市・「北海道庁旧本庁舎」)




(平成22年5月29日)

間宮林蔵と樺太

松前藩がクシュンコタン(楠渓)に穴陣屋を設けたのは1679年(延宝7年)のことですが、それ以降も樺太の実態を調査するとともに漁場の開発やアイヌらとの交易もするようになっていました。
しかし、その樺太にもロシアの進出が目立つようになりましたので、幕府は樺太を重要視するようになり、数名に樺太調査を命じていましたが、1808年(文化5年)間宮林蔵は松田伝十郎とともに樺太の最北端まで踏破して樺太が離島であることを確認しました。
さらに翌年、間宮林蔵は単身樺太に渡り、北樺太のナニオーから海峡を渡り、黒竜江をさかのぼりデレンまで至りました。
この時の記録は『東韃とうだつ地方紀行』として刊行されましたが、後年シーボルトによって、この海峡は間宮まみやの瀬戸せととしてヨーロッパに紹介され国際的に有名になりました。
樺太の歴史を語る上で忘れてはならない先駆者の一人です。

(展示パネル・説明文より)


【ゴロヴニンの間宮林蔵の評価】

ある日、獄舎にいるゴロヴニンのところへ間宮林蔵がやって来て、天体・陸地などの測量器を持ち込み、その使用法を教えてくれと頼んだ。
「彼は毎日通ってきて、ほとんど朝から晩まで詰めきりで、自分の旅行の話をしたり、彼が描いてきた各地の要図や風景などを見せてくれた。・・・・彼の虚栄心は大したもので、絶えず自分の壮挙や、その間に舐めた苦労を物語り、その最上の証明として旅行中に炊事用に使った鍋を持ってきては、獄舎の炉で何やら煮炊きして、自分でも食べ、我々にもご馳走してくれた」(『日本幽囚記』上)

“大探検家”に対するゴロヴニンの批判は手厳しい。
「間宮林蔵は我々の面前で大言壮語し、『フヴォストフの来寇があった後に、日本側では3艘の船をオホーツクに送って、同地を土台石まで焼き払おうと思っていましたよ』と言うこともあった。
我々は笑ってこう冷やかした。
『日本側がオホーツクにいたる航路を発見できないのは遺憾千万ですな。さもなくて3艘ではなく、30艘なり、300艘なりの船を送ってみるのも良かったかもしれませんな。おそらく1艘も日本には帰れなかったでしょう』
すると間宮はムッとして『日本人は戦さにかけては外国に負けない』と説得するのであった。
この男は我々の目の前で日本の兵術を自慢して、我々を威嚇した最初の日本人であったことを、特記しておかねばならぬ。
そして、我々だけでなく、彼の同僚にまで、嘲笑されていたのである。」

林蔵は、奉行にもいろいろと進言したうえ、江戸へも報告書を送って、「あのオロシャ人どもは、必ず日本を欺いていると思う。彼らは偶然来たのではなく、間者(スパイ)として参った」と言ったことなども、ゴロヴニンは書き留めている。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)




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