(威15311部隊)
鎮魂 威15311部隊 マニラ陸軍航空廠 (愛知県幡豆郡幡豆町・三ヶ根山頂・比島観音慰霊場) (平成20年4月16日) |
碑文
マニラ陸軍航空廠は比島全域に展開して航空機の修理補給で日夜活躍した部隊です。
戦況悪化の悲しい事実に任務も地上戦斗部隊に変り多くの友が壮烈な戦死をとげ又は傷つき病に倒れ飢とたたかい遂に力つきて各地の山野に無念の涙で静かに眠って居ります。
この英魂の安らかなるを心から祈りこの尊い犠牲により生れた平和な日本が永遠にとの願いをこめてその証にこの碑を建てました。
昭和56年4月吉日建立
編成前 |
班長 | 将校(航技 大濱政俊中尉) | 1名 |
班員 | 下士官(航空兵曹長) | 2名 |
下士官(主計曹長) | 1名 | |
下士官(衛生曹長) | 1名 | |
軍属 | 56名 | |
計 | 61名 |
本廠及び隷下部隊 |
本廠 | 本部 | 総務科・経理科・医務科・修理部・補給部・第1〜第3勤務隊 |
第1分廠 | 本部・第1〜第4作業隊 (主にクラーク地区) | |
第2分廠 | 本部・第1〜第5小隊 (主にエチアゲ南飛行場の整備) | |
第3分廠 | (主にツゲガラオ飛行場) | |
第4分廠 | (主にツワオにて警備=臨時第4輸送隊に編入) | |
第1修理廠 | 本部 | |
第1分廠 | ||
第2分廠 | ||
第2修理廠 | 本部 | |
第1分廠 | ||
第2分廠 | ||
第1補給廠 | 本部 | |
第1勤務隊 | ||
第2勤務隊 | ||
第3勤務隊 | ||
第2補給廠 | 本部 | |
出張所 | 第7(レイテ)・第8(ネグロス島バコロド)・第9(セブ) 第10(パナイ島イロイロ)・第11(ミンダナオ島カガヤン) 第12(ミンダナオ島ラサン) |
|
第1勤務隊 | ||
独立整備隊 | 第1〜第10 | |
第1通信修理班 |
指揮下部隊及び関係部隊 |
第7野戦航空補給廠 | 威8391部隊(ルソン島) |
第18船舶航空廠 | 威9306部隊(ルソン島) |
第7野戦航空修理廠第1独立整備隊 | 威8316部隊(ネグロス島) |
第10野戦航空修理廠第1独立整備隊 | 威8355部隊(パナイ島) |
第10野戦航空修理廠第2独立整備隊 | 威8355部隊(ネグロス島) |
第11野戦航空修理廠第1独立整備隊 | 威8367部隊(パラワン島) |
第11野戦航空修理廠第2独立整備隊 | 威8367部隊(ルソン島) |
第12野戦航空修理廠第1独立整備隊 | 威8372(8389)部隊(ルソン島) |
第12野戦航空修理廠第2独立整備隊 | 威8372(8389)部隊(ルソン島) |
第14野戦航空修理廠第7独立整備隊 | 威9304部隊(ミンダナオ島) |
第14野戦航空修理廠第8独立整備隊 | 威9304部隊(ミンダナオ島) |
第16野戦航空修理廠第3独立整備隊 | 威9323部隊(ルソン島) |
第19野戦航空修理廠第1独立整備隊 | 威9324部隊(ネグロス島) |
第19野戦航空修理廠第2独立整備隊 | 威9324部隊(ミンダナオ島) |
第19野戦航空修理廠第3独立整備隊 | 威9324部隊(ネグロス島) |
部隊略歴 |
マニラ航空廠は比島全域の飛行場に展開し、日夜航空機の修理・補給に活躍した部隊。
昭和16年12月、台湾の屏東陸軍航空廠が第1移動修理班(班長:大濱政俊中尉)を編成。
第1移動修理班はピガンに上陸。
昭和17年1月、クラーク飛行場占領と同時に同地に進出すべく移動中に61名中17名が戦死。
その後、屏東陸軍航空廠において立川、各務ヶ原、太刀洗、屏東の各航空廠より軍人軍属が選抜され、第13野戦航空修理廠(風9314部隊)(廠長:石原寛次大佐)が編成される。
昭和17年6月末、マニラに上陸。
クラーク飛行場に進駐し第1移動修理班と合流し、航空機の修理・補給に活躍する。
昭和18年中旬、第13野戦航空修理廠を改編。
石原大佐に代わり松友幸隆大佐が着任。
クラークにて燃料補給に活躍していた第22野戦航空補給廠(風9325部隊)及び垣兵団(第16師団)の一部と合併し、マニラ陸軍航空廠(風→渡→威15311部隊)と改め、本廠はマニラに移り、クラークは本廠第1分廠として活躍する。
その後、逐次内地及び満洲の各航空廠、各航空教育隊等より兵員が増強され約9,000名となる。
マニラ、クラーク方面に第1分廠〜第4分廠が、ミンダナオ島方面には第1修理廠が、ネグロス島方面には第2修理廠がそれぞれ分廠を置く。
第1・第2補給廠も各方面に出張所を設け、また、作戦の状況に即応できる独立整備隊も第1〜第10まで編成し書く方面に配置した。
昭和19年中頃より南方戦線が厳しい状況となり、航空廠の修理・補給の業務も多忙を極め、満洲の各野戦航空修理廠より数多くの独立整備隊が応援に、また第7野戦航空廠・第18船舶航空廠も共にマニラ陸軍航空廠の指揮下に入る。
また、フィリピン以南への航空整備部隊の南進が困難となり、臨時配属も含め推定で13,000名くらいになる。
この頃、航空廠長も加藤邦男少将に替わる。
昭和19年9月、クラーク、マニラの飛行場及び施設が、米機動部隊艦載機の爆撃を受け多大な損害を受ける。
昭和19年末頃、航空部隊の殆んどが特別攻撃隊となり、そのため飛行機に起爆装置の取り付ける作業などで多忙を極める。
この頃、加藤少将は転任、谷口少将、植山少将と航空廠長も次々と入れ替わる。
昭和20年、マニラ陸軍航空廠本部も北部ルソンへ移動開始。
一方、クラーク方面は一部が北部ルソンへ移動したが、主力は飛行場西方のピナツボ山に入り全滅。
生存者は僅か。
マニラ陸軍航空廠の各部隊も各方面で特別挺身隊、臨時歩兵部隊、臨時輸送隊などになり名称も任務も変わる。
植山航空廠長は武兵団長として8月4日に戦死する。
【マニラ航空廠第4分廠】
昭和19年5月上旬〜昭和20年1月上旬 アンヘレス
昭和20年1月〜5月中旬 北ツアオー部隊解散
昭和20年5月中旬〜 高野兵站配属、輸送隊となる。
一の谷より旭、83、84へ籾輸送。
旭通信位置で終戦となる。
昭和20年9月13日 56キロにて武装解除
(参考:村田三郎平著 『最前線爆雷製造部隊』 風媒社 1977年第1刷)
(平成23年10月22日追記)
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