2.北上してタイ国境へ

(「BUKIT KAYU HITAM」・「ジットラ・ライン」・「アロースター」~ペナン島)


平成26年(2014年)6月8日・第2日目

朝食を済ませ、出発時間まで30分程度あったので、ホテルの周囲を見学・・・(嬉)
我々が滞在しているのは、どうやらアロースターという町のようである。
そうか・・・昨晩、国内線でアロースター空港に降りたんだから、そうか・・・ここはアロースターだよね。(大汗)
今さら、自分の位置を再確認・・・(大汗)

 私が宿泊した「ホリディ・ビラ・アロースター・ホテル」

 ホテルのロビー

ホテルの前の様子

ホテルから外に出ると、町の中にあるスピーカーから、コーランか何かのお祈りが独特の節回しで流れていた。
ん?・・・ここは中東か?・・・・という感じ・・・(笑)
朝のお祈りなのかな?
マレーシアはイスラム教の国だという事を改めて感じた。

午前8時・・・・出発!
と・・・まもなくバスの中で“ナガハマさん”が何やら探しものをし始めた。
自分のカバンをバスのどこに置いたのかがわからないと言う。
まさか・・・ホテルに置いてきたんじゃあるまいね?
念のため、町の中を一周して再びホテルに戻ったら・・・・
なんと!ロビーにカバンを置き忘れていた!(唖然)
“ナガハマ”さんはリュック一つと手提げカバンで、今回の旅行に参加されていたようで・・・・
その手提げカバンをロビーのソファに座っていた時に、そのまま置き忘れたらしい。
“ナガハマ”さんは88歳・・・今回の参加者の中で最高齢だから、こういうことは仕方がないかも・・・
それにしても、よく盗まれなかったものだと、みんなで大いに感心する。(変な感心の仕方だが・・・)(笑)

これから、一路、北上してタイ国境へ向う。
今回のツアーは、そこからシンガポールまで南下するのである。

太平洋戦争開戦直後のマレー進攻作戦は陸軍では第25軍が担当した。
軍司令官は、のちにフィリピンで戦犯として処刑される山下奉文(開戦時・中将)である。
第25軍には近衛師団(東京)、第5師団(広島)、第18師団(久留米)、第3戦車団(戦車第1連隊戦車第2連隊、戦車第6連隊、戦車第14連隊)などがある。
これらの部隊はタイのシンゴラなどに上陸してマレー半島を南下し、シンガポールの攻略を目指す。
我々は、この上陸地点からではなく、タイ国境を出発点として、これらの部隊の足跡を辿るのである。

アロースターの町の中

 高速道路の入り口

途中から高速道路に乗る。
この高速道路のインターには「Touch'n Go」というレーンが設けられてある。
何をタッチしてゴーするんだか・・・よくわからないが・・・
日本で言えば、ETCのようなものなのだろう。
「SAHAJA」(サハジャ)と書いてあるので、サハジャという名前のインターかと思ったのだが、調べてみたら「SAHAJA」とは「~だけ」という意味だった。(大笑)
つまり「タッチ・アンド・ゴーする車だけ!」という意味らしい・・・(苦笑)

午前9時過ぎ・・・・国境に到着する。
ホテルを出てから、一度ホテルに戻ったり、途中でガソリンスタンドに立ち寄ったりしていたので・・・・
多分、アロースターからタイ国境までは1時間もかからないだろう。
高速道路を利用したからなおさらである。
当時は、どのくらい時間がかかったんだろう?

タイ国境(BUKIT KAYU HITAM)の税関

この税関がある場所は、「BUKIT KAYU HITAM」という名前の場所である。。
なんて発音すればいいんだろう?(大汗)
BUKITは「ブキット」・・・「丘」という意味であるが・・・
「ブキット・カユ・ヒタム」でいいのかなぁ~?(笑)
KAYU=木材、HITAM=黒・・・という意味である。
つまり、「黒い木材の丘」ということになるのかな?
このあたりには黒い木が生い茂っていたのか?
黒い木・・・ねぇ・・・・それは、もしかしたら「黒檀(コクタン)」?(大笑)

緑地帯の脇に細い道がある。
これ、一見、歩道のように見えるけど・・・実はオートバイ専用のレーンなのである。(驚)
オートバイは、この専用レーンを通って国境を越える。
へぇ~・・・・こりゃすごい・・・・

 オートバイ専用レーン

この国境のところが日本軍がタイ側から突破してきた場所ということではなさそうで・・・
日本軍が進撃したのは、ここから少し離れたところらしい。
ここはあくまでも、タイとの国境がこの位置になります・・・ということ。
税関での写真撮影は禁止とのことだが、我々が日本人ということもあって、多少、大目に見てくれたのか?
建物にカメラを向けても怒られなかった。(喜)
ツアー参加者の皆さんは、税関の女性職員とツーショットの写真などを撮っていた。(正直言って・・・唖然)(大笑)

ここを出発点にして、南下する。
これから向かうのは「ジットラ・ライン(ジットラ陣地)」!!(喜)

英軍は、アロースターにある飛行場群を守るため、昭和16年7月頃から陣地の構築を始めていた。
が・・・その進捗は遅く、対戦車壕や陣地の一部が出来上がった程度だったという。
タイから進撃し、このジットラを突破するのは第5師団(広島で編成)である。
その先頭を前進したのが、第5師団の捜索第5連隊(旧・騎兵第5連隊)で、連隊長の佐伯静夫大佐の名をとって、通称「佐伯部隊」あるいは「佐伯支隊」、「佐伯挺進隊」と呼ばれた。
捜索第5連隊には九七式軽装甲車が配備されていた。
この間、オーストラリアに行った時に「戦車博物館」で観た、あの装甲車である。(大喜)

この佐伯連隊に戦車第1連隊(久留米で編成)から1個中隊(第3中隊)、野砲兵第5連隊から山砲中隊等の配属を受け、「佐伯挺進隊」となり、ジットラ陣地に突っ込んだのである!

午前10時、ジットラ(JITRA)橋に到着する。

 ジットラ橋

この橋の向うからこっちに向って「佐伯挺進隊」(600名弱)が攻撃を仕掛ける。
道路上を“中央突破”を図る先頭の戦車(戦車第1連隊第3中隊の九七式中戦車か?)が橋に到達する直前・・・
残念ながら、この橋は英軍の手によって爆破されてしまった。
このジットラ付近を守備していた英軍は印度歩兵第11師団の2個旅団である。
後方より追及してきた歩兵第9旅団長・河村少将が指揮する「河村部隊」が加わり・・・
「河村部隊」の歩兵第41連隊(福山で編成)が道路東側地区から攻撃、歩兵第11連隊(広島で編成)が道路の西側から攻撃、佐伯挺進隊は、後続の歩兵2個中隊が中央から攻撃(夜襲)をかける。

 歩兵第41連隊が進撃した橋の東側地区を見る

 歩兵第11連隊は大きく迂回し・・・
 この川のずっと先の方(橋の西側)から攻撃をかけた。

日本軍と直接交戦をした英軍は、歩兵約9個大隊、砲兵2個連隊、対戦車1個連隊である。
その兵力は約5,400名・・・・
ドイツとフランスの国境沿いに造られた、対ドイツの要塞線である「マジノ・ライン(マジノ線)」にあやかって、「小マジノ線」とも呼んだ「ジットラ・ライン」は3ヶ月は持ちこたえると英軍は豪語したらしいが・・・・
昭和16年12月12日・・・・
日本の猛突進に、ついに1日で陥落した。
英軍は撤退・・・印度(インド)兵約1,000名が続々と投降するという有様だったという。
ちなみに、日本軍の損害は、戦死27名、戦傷83名の計110名だったといわれている。

 川沿いに「ジットラ・ライン」のトーチカを見に行く。
 写真の右側から日本軍が攻撃・・・
 我々の歩いている左側にジットラ・ラインのトーチカ群があった。

ところが、いくら探しても、以前はあったという、そのトーチカがない!(大汗)
地元の人に尋ねたら、3年ほど前に取り壊されたそうだ。
あらぁ~・・・・残念・・・・(大涙)
結局、なんだかんだと、ここで30分ほど潰す。

現地の情報によれば、ここから少し離れたところにジットラ・ラインの遺構があるらしい。
しかし、そこへ行く時間的余裕はないので、先を急ぐことになった。
なんとも残念!・・・どういうトーチカだったのか見て見たかったなぁ~

 ジットラ橋を渡った地点。
 ここから写真の向こう(南)へ真直ぐ向かうとアロースターに辿り着く。

ジットラ・ラインから南下してアロースターに戻る。

途中で通過した町並み・・・
私はバスの最後部に陣取ったので、バスの後部の窓から後ろの景色を撮影できた。
なかなかバスの中からの撮影というのは難しいのだが、最後部に座ると結構便利かも。(笑)
今回も、いつものようにタブレットを持参した。
マップのアプリを使って現在位置の確認・・・・
携帯の電波が届く場所なら、GPS機能で、自分の位置が表示されるので便利なのだが・・・
残念ながら、マップ上に何らかのマークを残すということができない・・・
(もしかして、そういう機能があっても私が知らないだけかもしれないが・・・)(汗)
その場で確認することだけしか出来ない。
で・・・・私のことである・・・うっかり、メモをするのを忘れることがしばしば・・・
そのときは、わかったつもりでも、あとで思い返そうとすると・・・・
どこをどう走ったのか・・・
何という名の町を通過したのか・・・・
メモをしていないから、結局、ブログを書く頃には、すっかり忘れている。(大涙)
この町も同様である・・・・
この町の名前・・・なんだっけ?(苦笑)

ちょっとわかりづらいが、この写真に写っている車の後ろに橋がある。
たぶん「ケダー川」という川にかかっている橋ではないかと思う。
ここも激戦地だったような気がする。
なにせ、マレー半島を縦断するには250本以上の川を渡らねばならないという状況だったらしい。
後退する英軍は、それらの川に架かる橋を破壊しながら後退する。
そうはさせまいとして日本軍は猛突進・・・・
とにかく橋が破壊される前に確保せねばということで、がむしゃらに突き進んだのである。

現地のガイドさんが知人のファミリーに偶然出会ったらしく、近くに何かしら戦跡がないかどうか尋ねたらしい。
この知人がトーチカがある場所を知っているというので案内してもらうことになった。
この方の家族が乗った乗用車が先導して、我がバスがその後ろを走る。(笑)
到着したのは、アロースター飛行場の道路を挟んだ反対側にあるトーチカ!
こういうトーチカが残っていることは知らなかったので、ツアーの予定には含まれていなかった。
いやぁ~思わぬ“収穫”にツアー参加者は大感激である!

 アロースターの飛行場

多分、戦時中もここは飛行場だっただろう。
日本軍は、ここを始めとした飛行場群を確保するのも目的の一つだった。
敵の使用を封じ、我が軍の航空部隊の進出を図るためである。
現在は「スルタン・アブドゥル・スリム空港」という名前らしいが、マレーシア空軍の基地にもなっているようである。
バスの中から、チラリと「ミュージアム(博物館)」の文字が見えたような気もしたが・・・・
残念・・・・確認できなかった・・・・
こういうところが団体行動、バスツアーのツライところである。(涙)

トーチカ トーチカの内部

このトーチカは英軍が造ったトーチカである。
写真の左側、道路の向こう側が「飛行場」である。
写真の向うが北(タイがある方角)になるから、向うからこっちに向って日本軍は進撃してきたということになる。
ここにトーチカねぇ~・・・・英軍の抵抗は手ごわかっただろうなぁ~

このトーチカは道路の角のところにあり、小さな「史跡公園」のようになっていた。

この小さな公園の東屋にマラヤ語と英文で書かれた英軍のトーチカに関する説明板があった。
また、ここケダ州に現在も残る英軍のトーチカの写真なども載っていて、これは貴重な史料である!
いやぁ~思わぬ“収穫”!!(大喜)


THE HISTORY OF BRITISH
FORTS IN KEDAH

THE SETTING UP OF BRITISH ARMY DEFENCE FORTS
IN KEDAH BEGIN IN 1940.IT WAS AIMED DEFENDING
TANAH MELAYU FROM ATTACKS BY THE JAPANESE
THESE FORTS WERE BUILT AT SEVERAL IMPORTANT
AND STRATEGIC LOCATION AROUND ALOR STAR AND
SUNGAI PETANI FLIGHT TRACK.THE BUKIT PINANG
BRIDGE AND THE KEDAH COASTAL AREA.
THERE ARE 26 FORTS IN KEDAH.THE MAJORITY OF
THESE FORTS ARE SITUATED IN THE DISTRICT
OF KOTA SETAR AND KUBANG PASU AS THE BRITISH
EXPECTED THE JAPANESE ARMY TO LAUNCH THEIR
ATTACKS THROUGH SOUTHERN THAILAND.
THE JAPANESE ARMY ATTACKED IN DECEMBER 1941.
THE BRITISH WERE NOT PREPARED FOR THE
SURPRISED BY THE JAPANESE ARMY DURING THE
RAINY SEASON.THE JAPANESE ENTERED TANAH
MELAYU THROUGH KOTA BHARU KELANTAN DURING
THEIR DRY SEASON BEFORE ATTACKING KEDAH THE
BRITISH ARMY UNAVOIDEDLY FLED TO THE SOUTH.
THE FORTS ARE NOW LEFT UNUTILISED TO THE
LOCAL THEY ARE KNOWN AS JAPANESE FORTS.
THESE FORTS ARE OCTAGONAL IN SHAPE EXCEPT
FOR THE FORTS IN KAMPONG BARU AT JALAN
KAMPONG TELOK,BUKIT PINANG WHERE THEY
ARE OPEN SQUARE AND BIGGER IN SIZE.

(説明板より)

この場所は、ジットラ・ラインから車で30分もかからない場所だったと思う。
時刻は午前11時を過ぎた・・・・
これからペナン島に向う。

途中、グルンという町のドライブインでトイレ休憩。

我々のツアーバス ドライブイン

 トイレの案内板

トイレの案内板・・・・
「Tandas」=トイレ
「Perempuan」=女性
「Lelaki」=男性

まぁ、私の場合は「TANDAS」と「LELAKI」だけを覚えていればいいわけであるが・・・・(笑)
絵が描いてあるから、言葉がわからなくても男性トイレがどれなのかはわかる。
が・・・うっかりすると間違え易いのが「祈りの部屋」である。
トイレの近くにあるので、トイレと間違えて入ったら、とんでもないことになるから注意してくれとガイドから何度も注意された。(苦笑)
「祈りの部屋」はイスラム教徒が、そこでお祈りをするための部屋らしい・・・・
内部に入ったことはないが・・・・
トイレと間違ってしまうような部屋なんだろうか?(大汗)

案内板には「Surau」=祈り・・・・と書いてある。
絵にはイスラムの三日月と星に帽子が描かれているから、まぁ、トイレだとは思はないとは思うが・・・(苦笑)

このトイレの前に、“おぞましい”パネルが・・・・(大汗)

 交通安全啓蒙のパネル

この看板は「交通安全」の啓蒙のパネルのようである。
マレー語で書かれているが、なんとなくわかる。
ここに載っている写真は、高速道路上での交通事故現場の写真で、すべて死亡事故の現場・・・・
その凄惨なこと極まりない。
首が千切れ飛んでいる首無しの運転手の写真(一番上の段の真中の写真)・・・・
上半身が引きちぎられ、下半身だけがガードレールに突き刺さっている写真(二段目の右端の写真)・・・
頭が割れ、太ももがズタズタに引き裂かれている遺体の写真(下から二段目の右端の写真)・・・・
こういうショッキングな写真が、モザイクもかけられず、ボカシも入れず、そのまま掲載されているのである!!(唖然)
日本では絶対にありえない交通安全の啓蒙の仕方である。
スピードを出しすぎて事故を起こすと、こういうことになりますよぉ~・・・・ということだろう。
この写真・・・・トイレの近くに掲示されている。
ということは、大人だけではなく子供も目にするわけである。
日本で、こんなことをやったら大騒ぎになるだろう。
日本人は“平和ボケ”してナイーブだから、「トラウマになる!」とか何とか言って大騒ぎになるだろう。
あの福島原発の騒動をみれば、いかに日本人が“弱い国民”かがよくわかる。

マレーシアは“強い国民”なのかもしれない。
少なくとも日本人より強いだろう。
こういう写真を堂々と掲示するのだから・・・
日本では事故があっても「車から放り出されて死亡しました」「車に撥ねられ死亡しました」「車に1kmも引きずられ死亡しました」・・・・という言葉だけ・・・・
写真、映像を見ることはないから、遺体がどういう状態かは誰も知らない。
ミンチ状のズタズタ、グチャグチャ、ボロボロの状態になるなんて、誰も想像できまい。
だいたい、今の日本人は「死体の写真」なんてまともに見たことがないのだから・・・・

しかし・・・・この写真はスゴイ・・・・(大汗)
さすがにこの写真を見てしまうと、アクセルを踏む足に力が入らないわなぁ~(汗)
数秒後には自分もこういう姿になるかも・・・・と頭によぎるよなぁ~
このくらい露骨なくらいのやり方のほうが映像が頭に残るから効果があるかもしれない。
ボカシやモザイクで隠したのでは効果半減・・・・意味はないかも。

ドライブインを後にして、40分ほど走り料金所に着く。

料金所

この料金所・・・・
「Touch'n GO」の他に「Smart TAG」という2つがある。
片方は青色、片方は黄色の看板である。
「Touch'n GO」が日本のETCみたいなものかと思っていたが、「Smart TAG」がETCっぽい・・・・(笑)
となると・・・「Touch'n GO」とは何だ?
ちなみに青い看板の真中に「SAHAJA」の文字があるが、「~のみ」という、英語で言えば「ONLY」という意味である。
日本には現金とETCの二種類しかないが、ここには現金支払いゲートを含めて3種類があるようである。
3種類とはねぇ~・・・・選択肢が多いということは、マレーシアのほうが日本より進んでいると言えるかも。(笑)

料金所を通り・・・長い橋を渡ってペナン島に向かう。
この橋は、1985年に完成した韓国製の橋だそうで、34年前に、私がペナン島に訪れた時には存在していなかった橋である。
が・・・韓国製の橋は評判が悪い。(苦笑)
以前、パラオへ行った時に橋脚だけが残っている場所があったので尋ねてみたら、韓国製の橋だったそうで、出来上がってから10年だか15年で突然崩落したのだという。(驚)
日本ではありえない話であるが・・・・
いかに韓国企業がいい加減かがよくわかる事例である。
この橋もいつ落ちるやら・・・と車内は大笑い。

 

時刻は午後1時・・・・
ペナン島に入る。

私が大学1年生の時に、海外研修団の一員として、この島を訪問した。
1980年(昭和55年)の夏のことで、人生初めての海外旅行である。
このときは、タイから空路でペナン島の空港に入ったように思う。
マレーシアの第一歩は、このペナン島・・・・我が思い出の地である!
が・・・町並みに全然記憶がない・・・・(大涙)
34年も経てば、そういうものかもしれない・・・・

昔は、こんなに車が走っていたような覚えはないのだが・・・(笑)

昭和16年12月18日・・・・
ペナン島から脱出した2人の邦人が、南下進撃している第5師団の戦闘司令所にやってきた。
英軍は12月15日と16日に婦女子を、16日には英軍全部をペナン島から撤退させたと言う。
また、在留邦人53名は12月8日の朝(日米開戦)から拘禁されていたが、16日に現地人の住民によって無事に釈放されたいう。
日本軍は12月11日から13日まで3回にわたり、延べ145機の戦爆連合でペナン島を爆撃していたが、すでにペナン島の東端に日章旗を掲げているので、爆撃は中止して欲しいと住民が熱望しているという。
また、英軍が撤退後、住民の略奪が盛んに行なわれているので、略奪防止の目的で宣伝ビラを撒布して欲しいという。
これらの情報と要望を受け、第5師団長は第25軍にペナン島の占領を意見具申した。
第25軍としては、ペナン島をやり過ごして、一気にシンガポールまで進み、一段落してから、後から追及してくる予定の第18師団をペナン島に送る予定だったが、今の段階で、万が一、ペナン島に英軍が増援を送った場合、背後から襲われるのではないかと考えていたようで・・・
このため空からの爆撃だけはしていたが、これらの情報によると、どうやら防備は手薄らしい・・・・
それなら今のうち占領してしまえということになったのだろう。
意見が認可されたので、早速、ペナン支隊(歩兵第41連隊第3大隊を基幹)を12月19日、ペナン島に送ったところ何ら抵抗を受けることなく島を占領してしまった。
いわゆる「無血占領」となった。
続いて同日の夜に進出した歩兵第11連隊第3大隊は、軍需品の大集積所を押さえ、また舟艇など、英軍が破壊せずに残していった船舶を押収した。
これらは後に海上機動(舟を使って海を進撃する)のに大いに役に立ったという。

というわけで・・・
このペナン島では日本軍と英軍との戦闘は行なわれなかったのである。

時刻は午後1時半・・・・
市内のホテル内のレストランで飲茶の昼食をとる。
ウ~ン・・・中華か・・・・(涙)
どこかの粗末な食堂でもかまわないから(笑)、マレーシア料理なんぞを食べたい気分なんだけどなぁ~(大笑)
ツアーじゃ、どうしようもない・・・・出されるものを食べるしかない・・・(苦笑)

昼食後、バスで市内を走り回る。
残念ながら、特別、ここには「戦跡」というものはない。(汗)

いくら景色を見ても、34年前の景色が思い出せない。(涙)
と・・・・
見に覚えのある建物が!!
間違いない!
“あの”建物である!(驚)

1980年の夏・・・ここに到着した時に私は体調を少し崩していた。
よって、1日、ホテルで休息することになり、他の団員は外へ研修に出かけていった。
この時、同じく体調を崩して休んでいたのが「副団長」・・・・
確か“山下さん”という4年生だったと思うが・・・・
お昼になり、何か喰わねばとホテルのレストランで一緒に食事をした。
で・・・体調も戻ってきたようなので、近くを観光しようということになった。(大学側には無断で・・・)(笑)
トライシャと呼ばれる輪タク、自転車タクシーに乗り、ホテルの周辺を散策した。
「海のほうへ行ってくれ」とトライシャの運転手に頼んだことを覚えている。
そこから先は記憶にない・・・・(涙)
どこをどう走ったのか・・・何を観たのか・・・・全く記憶に残っていない・・・・
で・・・ある大きな建物のある敷地内に連れて行かれた・・・・
大きな2階建ての建物で、鎧戸が付いていて・・・・華僑の建物・・・という雰囲気の、少し薄汚れた白い建物だった。
その建物から出てきたオヤジが「どうそ!どうそ!」と日本語で言う。
一体、ここは何なんだ?
尋ねたら・・・唖然!!
ここは、いわゆる“娼婦の館”だったのである!!(驚愕)
この時、トライシャの運転手を怒鳴りつけ、大揉めに揉めたのである!(大汗)
副団長は全くと言っていいほど英語が話せない・・・・
よって、かろうじて少しは話せる大学1年生の私が文句をいう役割となり、大騒ぎとなった。(大汗)

こういう経験は、生まれて初めてのことでもあり、ショックだったのだろう・・・・
私の記憶には、この時のことしか残っていないのである!!(大汗)
そして、この“娼婦の館”の建物だけが、なぜか鮮やかに今でも記憶に残っている。(苦笑)

その建物を見つけたのである!!
間違いない!
34年前に連れて行かれた“娼婦の館”である!!(驚)
が・・・・タイミングを逃し、写真を撮る事が出来なかった・・・・(大涙)
34年間・・・私の記憶の中に生き続けていた、あの建物に再会したというのに・・・・残念!無念!
まさかバスに引き返せとも言えないし・・・・(大涙)

最近塗り直したのだろう、綺麗に白いペンキで塗られていた。
専門用語では、この建物の様式は何というのか知らないが・・・・
中国(華僑)の雰囲気を色濃く残す擬似洋風建築・・・・という感じかなぁ~
かなり古い建物である。
ペナン島は1778年に英領になるまでは無人島だったらしいから、その後、ここに住み着いた華僑が建てたものではなかろうか?
日本で言えば、明治時代に建てられた擬似洋風建築に“古さ”が似ている・・・・
ということは、1900年代初期の建物では?
鎧戸はしっかりと閉められていて、今は誰も住んではいない様子である。
歴史的建築物ということでペンキを塗り替えて綺麗にしたのだろうか?
それにしても、よく取り壊されなかったものだと感心!
あ~それにしても、写真が撮れなかったのは残念だった!!(号泣)

さて・・・この建物の前で、揉めに揉めたところまでは記憶にあるのだが・・・
その後が記憶にない・・・(苦笑)
それから、どうやってホテルに戻ったのか・・・・まったく記憶にないのである!
ショッキングなことを経験すると、こういうことになるのか・・・・

この建物が、もし「歴史的遺産」として保存されるのであれば・・・・
建物の前に市役所が説明板でも立ててくれるのではあるまいか?
日本で言えば、教育委員会とか、観光課とか・・・・
(教育委員会では“娼婦の館”の説明はしづらいか?)(大笑)
それを見れば、もっとよくわかるだろうなぁ・・・・
もう一度、この建物を見に一人で来るようか?(大汗)
いつになるやら・・・・少なくとも34年後というのはありえないな・・・(大笑)

Fort CornWallis

バスは海岸のほうへ向かい、「コーンウォリス砦」の前で停車・・・・
この砦の外観だけを外から“見学”する。
この砦は、英国統治時代に造られたレンガ造り(?)の砦、要塞である。
大砲が何門も海に向って据えつけられている。
1786年、英国東インド会社のフランシス・ライト提督が、初めてこのペナン島にやって来たときに上陸した地点に造られたそうで、「コーンウォリス」とは当時のインド総督のチャールズ・コーンウォリスにちなんで名付けられたらしい。
ちなみに、1786年は日本では天明6年・・・・あまりにも古いのでよくわからない・・・(笑)
将軍・徳川家治が死んだ年だが・・・・
この砦は、その頃、造られたようだが、現在あるのは1810年に再建されたものだという。
24年後に再建ということは・・・・その間に破壊されたのか?
それとも役立たずで荒廃したのか?
それでも古い・・・・(笑)
1810年と言えば・・・・(大笑)・・・・日本では文化7年・・・・・
緒方洪庵が生まれた年である。(大笑)
やっぱり、全然、ピンとこないな・・・・(大笑)

しかし、この砦・・・・ペナン島では有名なんだろうが・・・
う~ん・・・相変わらず34年前の記憶にはない。(笑)

砦の前から見た海

日本軍がペナン島を占領した後、ここは日本海軍の基地となった。
インド洋方面で行動する日本海軍の潜水艦の作戦拠点である。
第5潜水戦隊、第8潜水戦隊などがここを利用していた。
また、ドイツ海軍の潜水艦・Uボートも、ここを基地として利用して、インド洋の通商破壊作戦を行なっていたという。
この島は、潜水艦基地として有名な場所なのである。
で・・・私の興味は、その潜水艦基地はどのあたりにあったのか・・・ということになるのだが・・・・
ガイドに尋ねたら呆れ顔・・・(苦笑)
「そんなの知るわけないでしょ」と言わんばかりの顔だった・・・・(大笑)
当然だろうね・・・・若いし・・・・
結局、潜水艦基地の場所はわからず仕舞いである。(涙)

日独の潜水艦乗組員は、長期間の作戦後、ここに上陸して休養を取ったのだろうなぁ~
ん?・・・・ということは・・・・
あの“娼婦の館”は、当時も“娼婦の館”だったかも・・・・(大笑)
いや、いや、結構立派な建物だから軍の司令部や将校宿舎のような施設として使われていたかも。
う~ん・・・・頭から“娼婦の館”が消えぬ・・・・(大笑)
何か“縁”があるから、34年前に私は、あそこに連れて行かれたのかもしれない・・・・(大汗)
偶然は実は偶然ではない、必然である・・・・が私の信条である。
軍の関係施設だったから、連れて行かれたのかも・・・・
だから34年間、忘れずに私の記憶の中に残ったのかもしれない。
あの建物が、当時も“そういう建物”だとしたら、あの建物を懐かしんでいる戦没した潜水艦乗組員の霊が私を導いたのかもしれない・・・・(大笑)
いや、ありえるぞ・・・・
とにかく懐かしいなぁ~と思ったんだから・・・初めて見る建物なのに・・・・
英霊が憑依していたのかも?
しばし・・・妄想にふける・・・・(大笑)

時刻は午後3時・・・・
ペナン島に別れを告げてマレー半島に戻る。
結局、ペナン島は昼食をとるためだけに立ち寄った様な形となったが、それでも訪問できて本当に嬉しかった。
マレー半島に戻るには再び橋を渡るが、帰りに利用した橋は来る時とは別の橋である。
来る時に渡ったのは第1大橋(ペナンブリッジ)で、長さは13.5kmとのこと・・・・
で・・・帰りに利用したのは、第2大橋で、昨年完成した新しい橋である。
造ったのは中国の企業だとのこと・・・・
う~ん・・・・この橋も危ないかも・・・・と車内は大笑い。
長さは約25kmという長い橋で、東南アジア最長の橋だということである。
どうしてこういう橋の受注を日本企業は出来なかったんだろうね?(汗)
韓国製に中国製・・・・
自己中心で、ハッタリ屋、自分のミスは認めず、すぐに開き直る・・・・
こういう国に発注するとはねぇ~・・・・・(汗)
大丈夫かね・・・・この橋・・・・何年持つだろうか?(大汗)

 ペナン第2大橋(後ろ向きに撮る)


   


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