(マタン博物館・ペラク橋梁~イポ―)
平成26年(2014年)6月8日・第2日目 |
マレー半島に戻り、再び南下する・・・・
次に向かうのはマタンという場所。
ここに日本軍の「戦蹟記念碑」があるというので、それを見に行く。
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マタン博物館 (MUZIUM MATANG) |
午後4時半、マタン博物館に到着。
ここの敷地内に「戦蹟記念碑」があるという。
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戦蹟記念碑 |
「戦蹟記念碑」は、3つに切断されたものが再建されたようだが・・・
石の種類が違う・・・
石碑の裏には碑文が刻まれているが、この3つの石にわたって綺麗な日本語が刻まれていた。
どうも石と碑文からみて、一番下の石は復元されたもののようである。
となると・・・・この復元は誰がやったのだろう?
漢字が正確に刻まれているところをみると、日本人が関わっているとしか思えない。
この碑の設置に関しては何の説明もない。
近くの説明板は、マレー語で書かれているので、意味不明・・・(汗)
この碑の復元者は誰なんだろう?
興味が湧くところである。
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(碑の表の碑文) 戦蹟記念碑 鯉兵團長 松井太久郎謹書 (碑の裏の碑文) サオルダン山附近ノ戦闘 昭和十六年十二月八日安藤支隊ハタニー附近ニ上陸後丸舎部隊ハ 其ノ第一突進隊トナリ悪路ヲ冒シ鋭意ベトンニ向ヒ前進中泰馬國 境ヲ犯シ侵入北上シサオルダン山附近ニ陣地ヲ占領セル装甲車及 迫撃砲ヲ有スル約千五百ノ英印軍ト十日遭遇シ直チニ獨力ヲ以テ 之ヲ攻撃激戦三日ニ亘リ逐次三線ニ陣地ヲ占領シアリシ該敵ヲ撃 破シ之ニ殲滅的打撃ヲ與ヘ快勝ヲ得タリ 本戦闘ハ安藤支隊ノ英 印軍ニ對スル諸戦ニシテ丸舎部隊ノ積極果敢勇■ナル攻撃ハ敵ノ 心膽ヲ寒カラシメ同支隊爾後ノ戦闘指導ヲ容易ナラシメタリ 茲ニ泰馬國境ニ碑ヲ建立シ千載ノ記念トス 紀元二千六百三年 松井兵團 |
碑文の中の「鯉兵團長」というのは、通称号(秘匿名)を「鯉」といった、鯉兵団(広島の第5師団)長を意味する。
「安藤支隊」というのは、この第5師団の隷下にある歩兵第42連隊(山口で編成)の安藤連隊長の名前を冠した部隊で、歩兵第42連隊を基幹として編成された支隊である。
「丸舎部隊」というのは、この安藤支隊の中の一部隊ではないかと思うが、「舎」の字が旧漢字か何かで、見かけない文字なので、一応、一番近い「舎」の字を当てました。
「丸舎」が正しいかどうかは、当時の安藤支隊の編成表と指揮官名を調べないとわからない・・・
「サオルダン山」は、「タ」に濁点があるような無いような・・・と微妙な感じ・・・(汗)
一応、濁点があるとして「サオルダン山」とした。
「泰馬國境」は「タイ、マレーシア国境」の意味・・・・
「紀元二千六百三年」は、これも微妙で・・・・(苦笑)
「二千六百二年」にも見えるし「三年」にも見える・・・・
横棒が一本あるか無いか・・・・微妙・・・・
ちなみに、「紀元二千六百三年」は「昭和18年」のことである。
占領直後に記念碑を建てたとすれば「二千六百二年」(昭和17年)となるが・・・・
一応、「二千六百三年」ということにした。(汗)
いずれにせよ、タイとマレーシアの国境に建てられた記念碑が、なんでこんなところに移築されているのだろう?
国境からはかなり離れているんですけど・・・・
しかも、失礼ながら、イマイチ、パッとしない田舎の町の小さな博物館の敷地に・・・・
なんで、ここにあるのだろう?不思議である。
この碑に並んで、もう一つの「戦蹟記念碑」があった。
表の「戦蹟記念碑」の揮毫者名は劣化していて判読不可能。
碑の裏は劣化して文字が消えてしまったのか、元々文字は刻まれてなかったのか、何も書かれていない。
というわけで・・・これが、どこの部隊の何の記念碑なのかは全く不明である。
謎の「戦蹟記念碑」
博物館の建物は古びた小さな建物である。
館内を見学するのかと思ったら、敷地内の記念碑だけを見て帰るという。
う~ん・・・・博物館好きの私としては、この博物館の内部も見学したかったが・・・・残念・・・・(大涙)
時刻はまもなく5時になる・・・・
次に向かうのは「ペラク橋梁」である。
このこの橋はマレー進攻作戦でも著名な場所である。
このペラク川に架かる橋には道路橋と鉄道橋の二つがある。
我々が向かうのは鉄道橋のほうである。
移動途中の景色
1時間弱で到着。
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この鉄道橋は現在は使われていない。
橋だけがポツンと残っているが、当時のままのようである。
この橋の脇に新たな鉄道橋が架かっている。
我々は、この古い橋に併設された歩道を渡って対岸に向う。
対岸が、日本軍が進出してきた場所で、向うからこちらに向って渡ったのである。
この歩道なんですけど・・・・
仮設みたいな感じで・・・・
しかも鉄板が、ちょいと錆びているのである!(大汗)
ちょっと怖い・・・
私は高所恐怖症なのである。(涙)
しかし、みんなと一緒に向こう側に渡らねば話が進まない・・・(大涙)
ビクビクしながら橋を渡ることになったが・・・・
私と同じような人がもう一人いた!(喜)
元新聞記者の“マツナガさん”である。
「こういうの苦手なんですよねぇ。私は高所恐怖症なんですよ」とおっしゃる84歳・・・・
“マツナガさん”は水戸中学(現・茨城県立水戸第一高等学校)の出身である。
生まれは茨城ではないので茨城県人ではないのだが・・・・
私の親父と2歳程度しか違わないこともあり、親近感を持つ。
同じく高所恐怖症とはねぇ~・・・これは縁でしょうね?(大笑)
仲間が出来たからといって、恐怖感が無くなるわけではないのだが・・・・(大笑)
二人でビクビクしながら橋をわたる。(大汗)
橋の上からみたペラク川
第25軍(司令官:山下奉文)は、マレー進攻作戦の第1期作戦を、このペラク川の橋梁の確保をもって一区切りとし、その後、第2期作戦に移行する考えだったようである。
よって、この橋の確保に全力を挙げることとなる。
第5師団の安藤支隊(歩兵第42連隊基幹)を、このペラク橋梁確保に向け、上流から突進させるが、途中で英軍の強力な抵抗を受け前進を阻まれた。
師団主力や戦車第6連隊を基幹とした戦車隊も同様にペラク橋梁に向け突進するが、途中の道路や橋が破壊されているため、思うように前進できない・・・
安藤支隊には「F機関」(藤原機関・藤原岩市少佐指揮)の特務機関員をはじめ、“マレーの虎・ハリマオ”と称された日本名・谷豊(たに・ゆたか)(『怪傑ハリマオ』のモデル)が配属されており、谷豊(ハリマオ)はペラク橋梁爆破阻止の任務についたが、上流のダムの破壊は阻止して確保できたが、その後マラリアが発症、ペラク橋梁確保に手間取る。
あらゆる部隊が一斉にペラク橋梁確保に向ったのだが、残念ながら、あと一歩というところで、12月23日、ペラク橋梁は英軍の手で爆破されてしまった。
安藤支隊は自転車で進撃中で、あと1時間で到着する・・・というところだったという。
戦史によれば、ペラク川(河?)は、マレーシア西岸では最大の河で、川幅は約300メートル、水深4メートル、流速は3~4メートルだったという。
両岸は懸崖で、橋梁は水面上17メートルに架かっているという。
あ~・・・そのくらいの高さかも知れないなぁ~・・・・
ちょっと高いし・・・17メートルくらいはあるかも・・・(大汗)
ビクビクしながら、なんとか対岸に渡る・・・・(大汗)
日本軍は、こちらから向こう側に向っていた。
当時、部隊と行動を共にしていた毎日新聞社のカメラマンが破壊されたこの橋の写真を撮影している。
この写真でいうと・・・・一番手前の橋脚と、その向うの二番目の橋脚の間、次の三番目の橋脚との間の2ヶ所が爆破され、橋が落ちている。
結構、著名な写真で、今も、どこかで見る機会はあると思うが・・・・
その写真とほぼ同じ位置から撮影を試みた。
写真手前の草の生えているあたりは、当時、川へ降りるスロープが造られていて、自動貨車(今で言うところの、トラック)が筏のようなものに乗せられて対岸に送られていた。
ちなみに、レンガ造りの橋脚(茶色い橋脚)は当時のもので、その隣りのコンクリート製の橋脚(灰色の橋脚)は新たに敷設された鉄道橋のものである。
「もしペラク橋梁が落とされたら、兵站上(物資の補給)の見地から、作戦部隊は少なくとも3~4日は停止させるようになる」と兵站参謀が危惧していたが、その橋が落とされてしまった。
軍はペラク橋梁の修復は容易ではないだろうということで「重門橋」などで渡河をした。
「重門橋」とは、2隻以上の舟を橋脚として、その上に板を乗せて「橋船」としたものだそうで、わかりやすくいうと、双胴船のような形の筏みたいなものだろうか?
これを、このペラク橋梁から少し離れた場所で使用して河を渡ったらしいが、1日の渡河(漕渡)可能車輌数は、約百台程度・・・・
当時、軍が所有していた車輌は、英軍から鹵獲したものなどを合わせて数千両あったという。
これでは、補給用の車輌が往復するということも考えると、とてもじゃないが、これからの迅速な進撃に支障をきたす。
そこで、後から駆けつけてきた鉄道第5連隊がペラク橋梁の修復に当った。
まず自動車を通すことを目的として徹夜で作業をし、僅か1日半で、とりあえずの修復を完了する。
さらに、戦車などの重車輌を通せるように補強作業を行い、線路の上に厚板を敷いて戦車などを通過させたという。
この橋がある近くの町の名は「Kampung Kapor」(カンプン・カポー?)というが、戦史には出てこない町の名である。
戦後になって出来た町かもしれない。
この橋があるあたりは、当時はクアルカンサー(又はクアルカンサル)という。
このクアルカンサーでペラク川を渡ったのは主に近衛師団である。
ここからかなり下流のブランジャというところでペラク川を渡ったのは主に第5師団である。
その後、この2つの師団が並列して進撃することとなる。
橋の上に黄色い大きな看板が・・・
「ビクトリア・ブリッジ」と書いてある。
当時も、この橋は「ビクトリア橋」と呼ばれていたかどうかは知らないが・・・・
この橋・・・最近、「幸福の橋」か「好運の橋」か忘れたが、地元のテレビで紹介されてから、観光名所になったらしい。(大笑)
なぜ、そういうふうに言われるようになったのかは知らないが・・・
若者たちの人気のスポットなのだそうだ。
再び橋を渡り、もと来た向こう岸に戻る・・・(涙)
線路は橋の部分のみに残っているだけである。
陸地の部分の線路は撤去されていて、行き止まりとなっている。
この川の下流に自動車用の橋が架かってはいるが・・・・
どうもこの橋の歩道部分は、地元の“生活道路”となっているようで、バイクが走ってくる。(唖然)
こうなると、バイクのハンドルに引っ掛けられそうになるので、歩行者は線路側に逃げねばならない。
これが怖いのである!(大涙)
下を見ると・・・遥か下に川の流れが見えるのである!(大涙)
とてもじゃないが、線路のほうには行けない・・・・
片足を歩道に残して、柱にしがみつき、バイクをやり過ごす・・・・(大涙)
我がツアー参加者の中には、平然と線路の上を歩く人がいる。(唖然)
線路の脇の“歩道”は4枚の幅の狭い薄くて錆びた板が渡してあるだけである。
その上を歩く人がいるんだから驚く・・・(大汗)
ポキッと折れたら・・・真っ逆さまに川に落ちるぞ・・・・
この人達には恐怖感というのはないのだろうか?(唖然)
わからん・・・私にはさっぱりわからん・・・・
ちょうどインド系のカップルがウエディングドレスにタキシード姿で線路の上で記念写真を撮っていた。
あぶねぇって・・・・(大汗)
ドレスの裾が何かに引っかかってバランスでも崩したらどうするの?
新婦はキャーキャーいいながら線路を渡っている・・・(唖然)
「新婚さんですか?」と尋ねたら、「そうです」と言う。
お~!コングラチュレェ~ション!(おめでとう!)と我がツアー参加者が口々に言葉をかける。
なんだかわからぬまま、私なんぞは新郎と握手までしてしまった!(大笑)
この恐怖の線路の上で写真を撮ると幸せになるというのかね?(大笑)
時刻は午後6時20分・・・・
これから、さらに南下して「イポー」という町に向う。
クアルカンサー鉄道駅
橋のところを出発して10分程度で、「クアルカンサー鉄道駅」の前を通過する。
かなり新しい駅舎である・・・・
高速道路を使い南下する。
交通事故による渋滞に巻き込まれるが・・・40分程度でイポーの町に入る。
我が軍が進撃した旧道は、この高速道路と平行して走っているとのことだが、時間短縮のため高速道路を使うしかなく、旧道を走れなかったのは残念!(涙)
午後8時前、レストランに到着する。
夕食はイポーの郷土料理らしい・・・・
夕食
午後9時、ホテルにチェックイン・・・・
結構、ハードスケジュールな一日だった。
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