6.マラッカに行く

(スタダイス広場・セントポール教会跡・サンチャゴ砦)


平成26年(2014年)6月10日・第4日目

 私が泊まったホテル

午前8時、宿泊先の「ルネッサンス・クアラルンプール・ホテル」を出発!
これから「マラッカ」に向う。
あの「マラッカ海峡」の「マラッカ」である。

途中、古い飛行場が道路わきに見えた。
戦時中、日本軍が使用した飛行場とのことである。

 古い飛行場

マラッカはマラッカ海峡に面する港湾都市で、東西貿易の要衝地である。
そういうこともあって、まぁ、多くの国に占領されている。
そもそもは「マラッカ王国」というのがあったらしいが・・・
その後、ポルトガルに占領され、その次はオランダ領となり、続いてイギリスの植民地となり、最後は、日本軍に占領統治されたのである。
要衝の地であることは間違いないのだろうが、戦前の時点で、すでにシンガポールの港湾が要衝の地として台頭し、ここマラッカは港湾都市としては衰退していたようである。
だいたい、日本軍はシンガポールを攻略するために、このマレー半島を南下したわけで・・・
マラッカが、昔のような重要都市であったなら、日本軍はここに一大海軍基地を設けたはずである。

我々は「マラッカ」と呼んでいるが、これはどうも英語読みのようである。
正式には「ムラカ」と呼ぶのが正しいようであるが・・・・ムラカ州の州都だし・・・・
でも、いまさら「ムラカ」って言ってもねぇ~(笑)

マラッカに到着して最初に向かったのは、「スタダイス広場」・・・
時刻は午前10時半・・・・

 スタダイス広場

ここはマラッカでも著名な観光名所らしい・・・・
「スタダイス」はオランダ語で「議事堂」とか「市役所」を意味するらしい。
赤い建物がその建物で、現在は博物館になっているようだが、我々は見学はしないとのこと。(涙)
博物館好きとしては何とも残念・・・・

ここマラッカは、ペナン島のジョージタウンと共に、マレーシアの「世界文化遺産」に指定されているそうである。
へぇ~・・・・である。(笑)
歴史的町並み・・・ということらしい。
へぇ・・・知らぬうちに2箇所も世界遺産を見ちゃった・・・・(大笑)
マラッカには博物館が結構あるらしいが、それを見る時間は全くない。(大泣)
また来るようなのか?・・・・一人で・・・・(涙)

ここには何台もの「輪タク」が客待ちをしていた・・・・
マレーシアでは、この「輪タク」を「トライシャ」と呼ぶそうだ。
フィリピンでは「トライシクル」と呼んでいる。
その中で、一番、派手だったのがこれ・・・
新婚旅行客用かアベック用か・・・・(大笑)
この「トライシャ」には34年前に一度だけペナン島で乗ったことがあるが・・・
キティちゃんの絵が描いてあるとなると・・・
う~ん・・・・私は恥かしくて乗れそうもないな・・・・これ・・・(大汗)

屋外展示されていた博物館の展示物を見つけた!(喜)
ひとつは「ブルドーザー」!!(笑)


’OLIVER’
THE BULLDOZER

This small machinery is a bulldozer that was used
before the 2nd World War to open up estates for
rubber plantation in the interior of this State
Smaller bulldozers such as this was used to make
pathways in the secondary jungles so that the
workers could move about to cut down the trees
and its clearance.Chain-links track controlled its
movements and 50% petrol and 50% of
kerosene generated power of its movements.
Type:Oliver
Manufactured:Cleaveland U.S.A.
Year of acquisition:Before 1940
Year of Make:1936(?)
Length:9 feet 6 inches
Height:4 feet
Weight:1 ton
(説明板より) 

英文の説明板を読んでみると・・・・
このブルドーザーは第2次世界大戦前にゴムのプランテーションで使われていたもので、ジャングルを切り開き、木を切り倒したりする作業者が歩く小路を造ったりするのに使われていたようである。
米国製の「オリバー」という名のブルドーザーで、製造されたのは1936年ではなかろうか・・・という。
1936年というと、日本は昭和11年・・・・「2・26事件」が起こった年であり、私の母が生まれた年である。(笑)
このころに日本にはブルドーザーなどという機械はない・・・・
ところがマレーシアの農園では使われていたのだから、日本はかなりの「後進国」だったのではなかろうか?(大笑)

戦前に米国のメーカーがブルドーザーを売り込みに来たという話を何かの本で読んだ覚えがある。
しかし、日本はブルドーザーを購入することはなかった。
なぜならば、不況の時には多くの労働者を道路を整備するなどの公共事業に使うことで、失業対策としていたわけで・・・・
そこに1台で100人分の仕事をします・・・などというブルドーザーを導入したのでは、失業対策が出来なくなるからだったそうである。
おかげで日本人はブルドーザーというものを知らずに戦争に突入した。
昭和17年、ガダルカナル島に上陸した日本軍は滑走路建設を、いつものようにスコップやツルハシなどを使って人海戦術で行なっていた。
人力でジャングルを切り開き地面をならすのだから、時間がかかる・・・
モタモタしているうちに米軍の偵察機に発見され、ようやく滑走路が完成間近という時に米軍が上陸、滑走路を分捕られた。(汗)
もし、あの時にブルドーザーが日本軍にもあったら、あんな無様なことにはならなかっただろう。
米軍はブルドーザーであっという間に滑走路を拡張、すぐに完成し、飛行機が離着陸し始めた。
米軍のブルドーザーを見て、日本も同じものを作ろうと思ったが参考資料がない。(汗)
戦前に米国の営業マンが配ったパンフレット程度しかなかったようである。
が・・・京都大学かどこかの工学部に教材としてブルドーザーが2台ほどあったのを見つけ、これを参考に日本製のブルドーザーの開発を行なう。
やることが遅いのである!
実は日本にもブルドーザーがあったなどと今頃気付くようではマヌケである!!(怒)
「総力戦」と言う割には大したもんじゃない・・・・
掛け声ばかり立派なところは今も昔も変っていない・・・・

マレーシアの農園では戦前からブルドーザーが使われていたとは驚きである。

そして、ブルドーザーの隣にかなり古い消防自動車が展示されていた!


OLD FIRE ENGINE TRUCK
This fire engine truck started its service in 1939
under the control of Chief PoliceOfficer of
Malacca.In 1942,the British brought along this
fire engine to Singapore but was transferred back
to Malacca by the Japanese.After 2nd World
War,this vehicle was placed under the control
of Malacca Municiple Council.This fire engine
took part in many operations such as at Lereh,
Tanjung Kling,Lee Rubber Codown in Bacang
and at Banda Kaba Street.It ended its service in
1974.
Make:Dennis Turbeni England
Year of acquisition:1939
Year of Manufacture:1937(?)
Engine Number:80115
Registration Number:M756
Power:2480 cc
Weight:6 ton

(説明板より)

これまた英文の説明板によれば・・・
この消防自動車は、1937年ごろに作られた英国製の消防自動車だそうだ。
これが使われ始めたのが1939年とのこと。
日本は昭和14年、ノモンハン事件があった年である。
この消防車は、その後、英国がシンガポールに持って行ってしまったらしい。
多分、日本軍が占領した後のことだと思うが、後に日本がこの消防車を再びマレーシアに取り戻してくれたと書いてある。
ん?よくわからん話しだが・・・・(汗)
侵略者だの極悪非道だのと非難されている日本が、戦時中にわざわざ消防自動車をシンガポールからマレーシアに取り返してくれたというのか?(大汗)
マレーシアの誰かが「取り返してきてくれ!」と日本軍に頼んだのだろうか?
どういう経緯があったのだろう?
興味の湧くところである。
で・・・この消防自動車は、なんと!・・・・1974年まで現役として活躍していたらしい。(驚)
1974年は昭和49年である。
私が14歳のときである!
小野田少尉がルバング島から生還した年である!(笑)
ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、日本では田中角栄首相が辞任して三木内閣が成立した年である。(笑)

イギリスからマレーシアにやってきて、その後シンガポールに持って行かれ、再びマレーシアに戻ってくるという数奇な運命を経ながら35年間も現役で活躍した消防車なのか・・・
おお~・・・・感動である。

日本では戦前に消防自動車というのはあったのだろうか?
これはいつか「消防博物館」にでも行って確認せねばなるまい。(大笑)

他の参加者は、これらには全く興味がないようで・・・・(苦笑)
あっさりと通過して先に進んでいってしまったが、私はこの古いブルドーザーや消防車を見ていて楽しくて仕方がない。(喜)
このツアーでは、いつものように私は“しんがり”を務めているので、多少遅れても問題はない。
最後列を歩くわけだから・・・・
問題は、“イズミ教官”の戦史の説明が聞けないことが不便なだけである。(涙)

この「スタダイ広場」(通称、オランダ広場とも呼ばれている)の裏手の高台に登る。
ここからマラッカ海峡が見えるのだそうだ。

 マラッカ海峡

遠くに見えるのが「マラッカ海峡」だそうだが・・・・
う~ん・・・・よくわからんなぁ~(苦笑)
タンカーらしき船も見えるが・・・・
う~ん・・・・よくわからんなぁ~(苦笑)
「マラッカ海峡」は、“海賊”が出る危険な海峡なんだよね?
そういう場所は、ここじゃなくて、もう少し離れたところか?

この高台は「セントポールの丘」と呼ばれている。
頂上に廃墟となったセントポール教会がある。
ポルトガルが統治していた頃、キリスト教布教の拠点として、この教会が建てられたそうで・・・・
フランシスコ・ザビエルは、この教会から日本に向かったという。
彼は日本での布教を終え、サンチャン島で中国への上陸待ちの時に病死する。
その後、インドに運ばれるフランシスコ・ザビエルの遺体が一時期、ここに保管されたことがあるそうだ。

 ザビエルの遺体が安置されていた場所

丘を下って反対側に降りる・・・・
暑くて喉が渇くが、飲み物を買う余裕もない・・・・(涙)
ここは、飲み物持参で登るべきだな・・・

 サンチャゴ砦

「サンチャゴ砦」・・・・「ファモサ」とも呼ばれるポルトガルがオランダとの戦いに備えて造った要塞の跡である。
ここに日本語の説明板が設置されていた。


ポルタ・デ・サンティアゴ
ポルタ・デ・サンティアゴとは 出入り口を意味しており、まさに、“エ
イファモサ”(A'FAMOSA)の ポルトガル軍要塞への4つの入口の一
つである。ポルトガル軍のリーダーは1511年にマラッカを征服し、ア
ルフォンソ・デ・アルバカーキは、マラッカのサルタンやアチェの攻撃か
らの防御策に1512年(A'FAMOSA)を建設した。

ポルトガル人達は廃墟となった宮殿、王族の霊廟やモスクからとなった(筆者注:取った?)建
材を使って、幅3mの壁がついた、四角い砦を奴隷の労働者を使って建設
した。高さ40mの望楼は一時期要基(筆者注:要塞?)の北西角に位置していた時があった。
興味深い点は、このポルトガル風らしき建物にオランダ東インド会社の紋
章が彫られていることである。これは1670年にオランダの会社がこの
砦を自分達の本社として利用していた為。

この砦は1795年に駐留した英国軍にあやうく跡形もなく取り壊される
ところで、ウィリアム・ファークハといつ(筆者注:いう?)人物が火薬で砦を吹き飛ぼうと
(筆者注:飛ばそうと?)したが、シンガポールの建国者である、サー・スタンフォード・ラッブル
ズが砦の破壊を止めるよう制裁(筆者注:制止?)した。かつてこの他に(筆者注:この地に?)威風堂々と聳え立っ
ていた要塞の面影を残す、ポルタ・デ・サンティアゴである。

ポルタ・デ・サンティアゴは、1977年5月12日に文化財保護法令第
168/1976により、歴史記念文化財に指定された。

(日本語説明板より)

この日本語・・・変な言い回しや誤字・脱字もあるが、意味はわかる。
あまり他人の文章を笑う資格は私にはない。(汗)
私の英語はもっとひどいだろう・・・・(大笑)
私がフィリピンの博物館に提供した英文の展示品説明文などは、米国人が読んだらどう思うか・・・・(大汗)
一生懸命、日本語で書いて展示してくれたんだから、こういう説明板はよく読んであげないとねぇ~
作ってくれた人に申し訳ない。
無視して通過するなんて・・・失礼だよねぇ~
自分がその立場になると、よくわかる。(苦笑)

近くの広場に装甲車が・・・・

この装甲車(手前)と装甲兵員輸送車(奥の車輌)には、説明板がなかったが・・・
どうも戦後、マレーシア共産党と戦ったときに使用されたものらしい。

時刻は午前11時半・・・・
空の雲行きが怪しくなってきた・・・・(汗)
生暖かい風も吹き始めた・・・・
こりゃ、ヤバイ・・・ザ~ッと来るぞ・・・・(大汗)

タイミングよく、これから昼食だそうである!
市内のレストランで昼食・・・・

ここの料理は「ニョニャ料理」という“郷土料理”だそうだ。
マレー料理と中華料理が混ざったものらしい。
が・・・私には、中華料理との違いがわからない。(大汗)
私は“グルメ”じゃないから、とにかく腹が満たされれば、それでいい・・・・(大笑)


   


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