8.ジョホールバルに行く

(旧王宮・ジョホールバル日本人墓地)


平成26年(2014年)6月10日・第4日目

午後5時半、ジョホールバルに入る。
対岸に見えるのはシンガポールである。

1月26日、松井第5師団長は、隷下の部隊にジョホールバルに向う追撃命令を下達した。
部隊は本道方面からと鉄道線路に沿う地区からの二方向から突進・・・・
途中、英軍の抵抗を受けることなく、1月31日の夕方にジョホールバルに突入した。
一方、近衛師団はバクリ、パリットスロン付近の戦闘で数日を費やしてしまい、進出が遅れる。
その間に第5師団のほうが先頭に立ったため、両師団が混交するのを避けるため、近衛師団は海岸道方面からジョホールバルに向かう。
途中、英軍を撃破しながら、1月31日の夕方から夜にかけて、近衛師団はジョホールバル西北地区に進出した。

第25軍司令部は、ジョホールバルに進出した時に、旧王宮の建物に司令部を置いたらしい。
ということで・・・・ここを見学。
ここは現在、ジョホール州政庁となっているので、通常の観光では入場できないらしい。

 BANGUNAN SULTAN IBRAHIM


BANGUNAN SULTAN IBRAHIM
BANGUNAN SULTAN IBRAHIM IS LOCATED ON AN AREA OF 68,000 SQ. METRE  AND
PERCHED MAJESTICALLY UPON A HILL NAMED BUKIT TIMBALAN.THIS BUIKDING WAS
BUILT ON THE INSPIRATION AND WISH OF THE LATE SULTAN IBRAHIM TO HOUSE ALL
GOVERNMENT AT THAT TIME.

THE BUILDING WAS DESIGNED BY MESSRS.PALMER & TURNER ARCHITECTS AND
CONSTRUCTION WORKS WAS ASSIGNED TO UNITED ENGINEERS AND AH HONG &
COMPANY.FOUNDATION WORKS BEGUN ON MONDAY,7TH NOVEMBER 1938 WHEN
TENGKU MAHKOTA SULTAN ISMAIL OFFICIATED THE GROUND BREAKING CEREMONY,
HIS ROYAL HIGHNESS LATER LAID THE FOUNDATION STONE ON 10TH MARCH,1940.
THE BUILDING WAS COMPLETED IN 1942 AT A COST OF RM 2 MILLION.A BANQUET WAS
HELD AT THE ROYAL PALACE ON TUSDAY,3RD NOVEMBER 1942 (‘MEIJI SETSU’DAY)
TO MARK THE OPENING OF THE STATE GOVERNMENT OFFICE IN BUKIT TIMBALAN.ONLY
ON MONDAY,9TH AUGUST 1982,WAS THE BUILDING OFFICIALLY NAMED BANGUNAN SULTAN
IBRAHIM BY HIS ROYAL HIGHNESS SULTAN ISKANDAR.

ON THE WHOLE,THE ARCHITECTURE OF THE BUILDING SHOWS THREE DISTINCT
CHARACTERISTICS - JOHOR MALAY ART,ISLAMIC DESIGN AND COLONIAL ARCHITECTURE.
THE INTRICATE CARVINGS AND ORNAMENTATIONS ON THE CEILING AND WALLS WERE
CONCEIVED OF ISLAMIC ART AND ARCHITECTURE WHILE THE RAFTERS REFLECT THE
ARTISTIC TRADITION OF THE MALAYS.THE EXTERNAL FEATURES OF THE BUILDING DEFICT
COLONIAL ARCHITECTURE.THE ENTIRE STRUCTURE,WALL,FLOOR AND ROOF WERE MADE
FROM CONCRETE AND REINFORCED CONCRETE.THE BUILDING ADOPTS A FLAT ROOF EXCEPT
FOR THE TOWER WHICH WAS CROWNED WITH A DOME THAT HAS JOHOR’S LIMAS HOUSE
ELEMENTS.

AT THE GLANCE,BANGUNAN SULTAN IBRAHIM PORTRAYS THE ERA AND HISTORICAL
MOMENTS OF ITS TIME.THE BUILDING WAS ONCE USED TO STORE PROVISIONS DURING
THE JAPANESE RULE.IT WAS ALSO USED BY THE JAPANESE AS A FORTRESS WHEN
THEY ATTACKED SINGAPORE.

YAYASAN WARISAN JOHOR

(説明銘板より)

建物の中には入れないが、敷地内の立ち入りの許可はもらっていたようで、外観のみ特別に見学ができた。

ジョホール王国の旧王宮
(日本陸軍第25軍司令部跡)

第25軍の山下奉文司令官は、この建物の望楼に立って、対岸のシンガポールを視察しながら作戦の指揮をとったのだとか・・・・
う~ん・・・・あのてっぺんに上ってみたいなぁ~(笑)
あそこからは、シンガポールはどんな風に見えるんだろうか?

皆さんから離れて一人でブラブラする。
ちょうど警備員と話をする機会があり、ちょっとオシャベリをしたら、彼が建物の壁を指差して「日本軍の銃弾の跡だ」と言う。
はぁ?ここは日本軍の司令部のはずなのだが・・・・
日本軍がこの建物を攻撃したのか?
この建物を接収する時に戦闘でもあったのだろうか?
彼に尋ねたが「よくは知らないが、日本軍の銃弾の跡だといわれている」と言う。
私のヒヤリングが間違っていなければ、彼はそう言った・・・(苦笑)

 “日本軍の銃弾の跡”が壁に・・・

 旧王宮(現:州政庁)の案内図

時刻は午後6時・・・・
見学を終え、参加者の希望で急遽、ショッピングセンターに行く事となる。
元新聞記者の“マツナガさん”は、辞書が買いたいので本屋に行きたいという。
私も興味があったので、一緒に二人で行動することにした。
与えられた時間は20分程度・・・・
他の参加者と別れて急いで本屋を探す。
が・・・・わからない・・・ショッピングセンターが広すぎる!
しかも表記は英語だかマレーシア語だか・・・・お店の配置図はどこにあるんだ?
他のお店の店員に尋ねながら走り回る。(大汗)

ようやく本屋を見つけ、辞書を探すが、どこにあるのかわからない。(汗)
店員に尋ねたが、私のの英語が下手なのか・・・話がなかなか通じない・・・・(涙)
“マツナガさん”は、英語とマレーシア語の辞書が欲しいのだそうだ。
日本で言えば、「英和」と「和英」が一緒になっている辞書・・・・
こっちで言うと何ていえばいいの?(汗)
マレーシアは漢字の当て字では「馬来西亜」と書くから・・・・
「英馬」と「馬英」が1冊になっている辞書・・・ということになるか?(苦笑)

店員のお兄ちゃんは、最初のうち、トンチンカンな本を案内してくれた。
そうじゃないんだよなぁ~そういう本じゃなくてぇ~・・・・(涙)
あ~でもねぇ、こ~でもねぇと説明して、ようやく、「あ~辞書ですか?」って何よ!
さっきから「辞書」って言ってるじゃねぇか!(苦笑)

ようやく手頃な辞書を入手・・・
値段は、日本円で数百円らしい・・・・(唖然)
「この手の辞書は、日本じゃ軽く2千円はするんじゃないんでしょうか?」と言ったら・・・
「日本の本の値段は高いんだよねぇ~特に辞書は高すぎるよ。海外ではこの程度の値段が普通だよ」と“マツナガさん”はおっしゃる。
“マツナガさん”は、これでマレーシア語が理解できるとご満悦・・・
マレーシア語を英語に訳せれば、なんとか理解できるとおゃるのである。
あれ?“マツナガさん”・・・英語が出来るの?(汗)
さっきから私が四苦八苦して通訳してるんですけど・・・・(大汗)
もしかして、私の通訳は必要なかった?(大笑)
“マツナガさん”は私の親父とほぼ同じ年令であるが、・・・この向学心・・・・いやはや敬服する。

私も何か一冊買おうかなと思い広い店内を見て回るが・・・・歴史に関する本が見当たらない。
「フィクション」「ノンフィクション」「小説」「ファンタジー」等々の棚はあるのだが・・・・「ヒストリー」がない!(汗)
またまた店員のお兄ちゃんに尋ねたが、要領を得ない・・・(大汗)
「ヒストリーなんだけど・・・・」
「ヒストリー?」
「たとえば、マレーシアの歴史とか・・・第二次世界大戦の話とか・・・そういう本なんだけど・・・」
「ヒストリー?・・・・う~ん・・・・ありません!」
「はぁ?ない?マレーシアの歴史について書かれた本とか・・・ないの?」(唖然)
「マレーシアの歴史?・・・・ありません!」(真顔)
君達は歴史を勉強しないのかね?(唖然)
本当にどこにも歴史の本が置いてないのである!!(汗)
いやぁ~日本では考えられまい?
どこの本屋にも何かしらの歴史関係の本は置いてあるんだけど・・・・
そういう意味では日本の本屋はたいしたもんだよなぁ~
その割には日本人はマンガばかり読んでいるようだけど・・・・(汗)

ジョホールバルの町の中

午後7時45分・・・・ホテルに到着・・・・
チェックインして、部屋に荷物を置いてすぐにホテル内のレストランで夕食をとる。

エレベーターホールから見た景色・・・・
向うに見えるのが、シンガポールである!
う~ん・・・どうやって攻略しようか・・・・と山下司令官になったつもりで見ても・・・
ただの平たい陸地しか見えぬ・・・(汗)
どこをどう攻めりゃいいのか、さっぱりわからん・・・(大笑)

バスタブ付きのお風呂である!!(大喜)
どうも、シャワーだけの風呂というのは落ち着かぬ。
私は日本人ゆえ・・・・湯船に浸からねば、リラックスできぬのである。(笑)

 部屋から見た景色


平成26年(2014年)6月11日・第5日目

午前8時、ホテルをチェックアウト・・・・

まず最初に向かったのは、『ジョホールバル日本人墓地』である。

ジョホールバル日本人墓地

ここは、戦後、荒れ果ててジャングル化していたそうであるが、その後、現地の日本人会の手によって整備され、現在も管理されているそうである。

ジョホール水道敵前渡過戦跡記念碑

ここに、一つの石碑が横たわっていた。
山下奉文の筆になる『ジョホール水道敵前渡過戦跡記念碑』である。
ジョホールバルの海岸のどこかに建てられていたものが、戦後、ここに運び込まれて“遺棄”されたのではなかろうか?
碑の割れ目から木が生えている・・・・あらら・・・である。(驚)

左端の碑は、個人の顕彰碑のようである。
旧小田原藩士、慶應義塾出身で、「南洋護謨株式会社」という会社を起こし、この地で活躍した岡本貞烋という人を偲ぶ顕彰碑のようである。
「護謨」というのは「ゴム」のことを指す漢字なので、今風の言い方ならば「南洋ゴム株式会社」となるかな?
密林を開拓し、ゴム園の開発に当っていたらしい。
碑は大正4年6月に貴族院議員で慶應義塾の塾長でもある鎌田栄吉の撰文で建立されたようである。
岡本氏は昨年9月に62歳で“長逝”したと書かれているから、岡本氏は大正3年9月に亡くなったのだろう。
ちなみに、鎌田栄吉氏は明治31年から大正11年までの約25年間、慶應義塾の塾長を務めた方で、塾長退任後の大正11年6月に文部大臣に就任している。
その後、昭和9年に78歳でお亡くなりになっている。

中央の碑は、「招魂碑」・・・・特に碑文の記載はない。

右端の碑(ちょっと見づらい)は、元帥陸軍大将・川村景明の書になる「招魂碑」である。
川村景明という人は日露戦争で活躍した日本陸軍の軍人である。
日露戦争と言えば・・・・第3軍の乃木希典司令官が有名であるが、これとは別に「鴨緑江軍」というのが編成されて、川村景明が司令官となった。
鴨緑江軍は、他の参加部隊と比べると、イマイチの部隊だったらしいが、川村司令官は草鞋姿で前線に赴き、兵士達に気さくに声をかけ、鼓舞したという逸話で有名な人でもある。
そのおかげかもしれないが・・・奉天会戦では、この部隊は大活躍をしたといわれている。
川村元帥は大正15年に76歳でお亡くなりになっている。

 右端の「招魂碑」

左端の碑は『無名日本人之墓』。
その他、なにも刻まれてはいない。

中央の碑には『土神』と刻まれているが、・これは墓ではなさそうである。
土の神を祀った碑ということかな?(笑)

右端のものは、碑文が削られたのか、磨耗したのか、よく読めない。

 右端の碑

それが、この碑である。
上のほうに二行にわたって何か彫られているが、全く読めない・・・
これは拓本でも取らねば、判読不可能か?
下には「自爆の地」と彫られている。
“自爆”とは、穏やかな話ではない・・・・(汗)
上に書かれている二行は、人名か?
碑の裏を見てみると「昭和十七年一月十七日」とわずかに読める。
その脇に二行にわたって何か刻まれているが、これも全く判読できない。
さて・・・昭和17年1月17日に誰が何で自爆したというのだろうか?
日本軍がジョホールバルに進出したのは、1月の末頃であるから、「自爆」はそれ以前の出来事ということになる。
気になる石碑である・・・・

『倶会一處』と刻まれた碑があった。
裏の碑文は・・・・


祖国に帰る夢叶わずに、此処に眠る先達の刻苦を偲び、マレイシアの発展及び、
日 マ 親善・友好の為に尽力されたそのご遺志を受け継ぐことを誓い、ここに
鎮魂の碑を建立いたします。どうぞ安らかにお眠り下さい。
1994年5月

在マレイシア日本国大使館
ジョホール日本人会

「倶会一處(処)」(くえいっしょ)というのは、浄土真宗の教えの一つの言葉らしい。
阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で会うことが出来るという意味だそうである。
浄土真宗では、念仏の信仰に生きる人は、この世の命が終ると直ちに浄土で生まれるとして、そこで墓碑に「倶会一処」と刻むことがあるそうである。
となると・・・
浄土真宗の教えの言葉を刻む碑に日本大使館の名が刻まれているというのは、ちょっと違和感を感じるんですけど・・・(汗)
「政教分離」に反しているんじゃなかろうか?(大汗)
碑文は全く宗教色を出していないので全く問題はないと思いますが・・・
正面の「倶会一処」が浄土真宗の墓石の正面に刻む文字と同じというのはどうなんでしょう?
宗教色が出てしまっている気がしますが・・・
ケチを付けるようで申し訳ないですけど・・・いいのかなぁ~・・・これ・・・・

ここで30分ほど過ごし、次に海岸へ向う・・・・

海岸沿いの道路に架かる歩道橋に上り、ここから対岸のシンガポールを見ながら“イズミ教官”の説明を聞く・・・
といっても、この位置から私は写真を撮っているので、当然、私は“イズミ教官”の戦史の説明は聞いていない。(苦笑)
毎度のことですが、全員が一点に集中してしまうと、周囲に気を配る人が皆無となってしまうので・・・
私は勝手に一人で、周囲を“警戒”する任に就くのである。(笑)
だから・・・どうしても説明を聞き逃してしまうのである。(大涙)

シンガポールは、ジョホール水道によってマレー半島から分断された東西約42キロ、南北約20キロの島である。
英軍は、ここに10年の歳月と多額の費用をかけて要塞を建設した。(昭和13年2月に完成)
なぜならば、ヨーロッパからアジアへ向う航路は、このシンガポールを軸としていたからである。
シンガポールは東洋を支配する英国の大動脈なのである。
当然、この島の守りは堅い・・・・
が・・・要塞の砲は、海からの攻撃を想定して、その多くは外洋に向けて設置されている。
そこで、日本軍は、その裏をかき、マレーシア半島を縦断して、いわば裏口から攻撃をかける作戦としたわけである。

マレー半島とシンガポールは、1本の陸橋で繋がっているだけである。
英軍はマレー半島から撤退を完了した1月31日に、この陸橋を爆破して日本軍の利用を妨げた。
おかげで、シンガポール攻略には、この陸橋を使うことが出来なくなった。
ジョホール水道は、幅600~1000メートルの水道であるが、ここを舟艇で渡って上陸するという作戦を取ることになる。

この攻撃に参加するのは、近衛師団第5師団、遅れて到着した第18師団の3個師団である。
シンガポールの東側(こちらから見ると左手)に、セレター軍港があり、英軍は日本軍はそちらに直接攻撃をかけてくるのではないかと思っていたようである。
日本軍としては、そう思わせておく“欺瞞工作”“陽動作戦”を行なった。
荷物を乗せていない空のトラックなどをヘッドライトを煌々と点けてジョホールバルの東に向けて走らせるのである。
で・・・・帰りは、ヘッドライトを消して、引き返し、再びUターンして東に走る・・・(笑)
シンガポール側から見ると、大部隊が続々と東に向かっているように見えるわけで・・・・
ジョホールバルの東側海岸から、こちらに上陸してくるだろうと思わせるのである。
実際、小部隊が渡過して、敵の目をそちらに向けるよう陽動している。

歩道橋から左側(東方向)を見る。
向うの方角で陽動作戦が行なわれた。

で・・・・実際は、ジョホール水道の破壊された陸橋の、こちら側・・・・
つまり、西側の海岸からシンガポールに向け渡過するのである。

近衛師団が渡過をしたのは、この歩道橋のある辺りからか?
海岸線も道路が走り、かなり当時とは変わってしまっているだろう。
渡過の戦跡は何も残っていない。

歩道橋から右のほう(西の方角)を見る。
近衛師団の向うに、第15師団が・・・・そしてそのず~っと向うに第18師団が渡過のため待機していた。

歩道橋の真正面・・・・船の向うに見えるのがシンガポールである。
当時、あの辺りは密林と湿地帯だった。
こうして見てみると、対岸への距離は、それほど遠いとは感じられない。
結構、近くに見える・・・・
こちらから向うへ渡って上陸するのは簡単そうに見えるが、向こう側は湿地帯・・・・
当時は、上陸してから後の移動に困難をきたすと思われていた。
というわけで、英軍も、まさか、こちらの岸に上陸するとは思っていなかっただろう。
いくらかの小部隊が来るとしても、主力の大部隊が上陸をするとは思っていなかっただろうが・・・
英軍も全く何もしていなかったわけではなく、とりあえず野戦部隊を、あの辺りには配置していたようである。

この水道を、日本軍は折畳みの舟艇に乗り込んで、向うに向かって突進したのか・・・・
映画のワンシーンのように、その姿が頭に浮かぶ。

時刻は午前9時45分・・・・
これからシンガポールに向かう。


   


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