増山雪斎 ましやま・せっさい

宝暦4年10月14日(1754年11月27日)〜文政2年1月29日(1819年2月23日)


名は正賢、字は君選、雪斎は号。
安永5年(1776年)藩主となり、享和元年(1801年)隠居。
長崎派系の花鳥画を得意とし、「虫豸帖ちゅうちじょう」などの作品がある。
画家十時ととき梅香E春木南湖をかかえ、酒造業者でもある木村蒹葭堂けんかどうが酒造過多を疑われて咎めを受けた際、これを領内に庇護するなど、京阪南画界のよき理解者であった。


虫塚



虫塚
(東京都台東区・寛永寺)





(平成19年12月28日)

虫塚むしづか (都指定旧跡)

台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺境内

虫塚は、伊勢(現、三重県)長島藩主である増山雪斎ますやませっさいの遺志により、写生に使った虫類の霊をなぐさめるため、文政4年(1821)に建てられたものである。
増山雪斎は、宝暦4年(1754)の生まれ。
本名を正賢といい、雪斎はその号であるが、玉園・蕉亭・石顛道人・巣丘隠人など多くの別号がある。
江戸の文人大田南畝おおたなんぽや大坂の豪商木村蒹葭堂けんかどうなど、広く文人墨客と交流を持ち、その庇護者としても活躍した。
自ら文雅風流を愛し、清朝の画家、沈南蘋しんなんぴんに代表される南蘋派の写実的な画法に長じ、多くの花鳥画を描いた。
中でも虫類写生図譜『虫豸帖ちゅうちじょう』は、その精緻さと本草学にのっとった正確さにおいて、殊に有名である。
文政2年、66歳で没した。
虫塚は、当初、増山家の菩提寺、寛永寺子院勧善院内にあったが、昭和初期に寛永寺に合併されたため、現在の場所に移転した。
勧善院は、4代将軍徳川家綱の生母で、増山氏の出である宝樹院の霊廟の別当寺として創建された。
碑は自然石で、正面は、葛西因是かさいいんぜの撰文を大窪詩仏おおくぼしぶつが書し、裏面は、詩仏と菊池五山きくちござんの自筆の詩が刻まれており、当時の有名な漢詩人が碑の建設に関わったことが知られる。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)




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