増田宋太郎 ますだ・そうたろう

嘉永2年2月23日(1849年3月17日)〜明治10年(1877年)9月






『西南役中津隊長 増田宋太郎先生生誕之地』碑

(大分県中津市弓町)




(平成23年2月10日)




増田宋太郎生誕地
(大分県中津市弓町)




(平成23年2月10日)

【中津市指定文化財(史跡) 増田宗太郎 生誕の地】

西南の役の中津隊隊長増田宗太郎は、中津藩士増田久行ひさつらと国学者渡辺重名の娘刀自とじの長男としてこの地で生まれた。
福澤諭吉とは再従兄弟またいとこにあたり、家もすぐ近くであった。
幼少の時から桜町の道生館どうせいかんに入り国学を学んだ。
尊王攘夷運動や自由民権運動で、諸国の志士と交わり、中津共憂きょうゆう社を結成した。
一時期、福澤諭吉の慶應義塾に入り学んだともいう。
村上田長でんちょうによって、自由民権・主権在民を掲げた「田舎いなか新聞」が創刊されると、編集長をつとめた。
明治10年、西南の役が勃発、同志と中津隊を結成し、西郷軍(薩軍さつぐん)に加わった。
4月5日、熊本県の阿蘇郡で西郷軍と合流し、各地で奮戦するも、終ついに9月鹿児島の城山しろやまで没した。
鹿児島市の城山公園の下、南洲なんしゅう墓地には「中津隊士之墓」と「増田宋太郎墓」がある。
また、下正路しもしょうじの安全寺あんぜんじにも増田宋太郎の墓がある。
中津城公園地には、水島銕也てつやによって「西南役中津隊之碑」の大顕彰碑が建てられている。

増田宋太郎
 嘉永 2年(1849)  2月23日、出生、父 中津藩士増田久行、母 本居宣長の高弟で本居門下十哲の一人渡辺重名の娘刀自、幼名久米丸
 安政 4年(1857)  国学者で従兄弟の渡辺重石丸いかりまる(重名の孫)の道生館に入る。
 明治 3年(1870)  東京の国学者矢野玄道はるみちに学ぶ。
 明治 4年(1871)  5月、中津皇学校を、中津城西御門横に開設する。
   7月〜9月、皇学教授法視察のため、鹿児島に行く。
 明治 5年(1872)  8月、中津皇学校と旧中津藩校進脩館しんしゅうかんが合併され第三十六番中学となる。
   10月、中津皇学校存続のため上京し建白けんぱくする。
 明治 6年(1873)  4月10日、東京の教部きょうぶ省で、若狭国遠敷おにゅう郡若狭彦神社宮司兼大講義けんだいこうぎの任を拝命する。
   4月25日、若狭彦神社着任前に、摂津国住吉神社小宮司へ転任となる。
   しかし、宋太郎らの討薩とうさつ計画が当局に察知されたため、急ぎ帰郷する。
   6月、討薩計画の露見により、宋太郎・川村矯一郎きょういちろうなど6名が自首し、久留米で謹慎処分をうける。
   12月、放免され、中津へ帰る。
 明治 7年(1874)  2月、旧中津藩士百名をを率いて、佐賀の乱鎮定ちんていへ向かう。
   4月、鹿児島へ行き桐野利秋きりのとしあきに会う。
   12月頃、中津共憂社結成。土佐の立志社から発会を祝して林有造が来る。
 明治 8年(1875)  2月、大阪の愛国社結成大会に中津共憂社も参加する。
 明治 9年(1876)  3月、慶應義塾に入るが、数カ月で母の病のため帰郷したという。
   11月、田舎新聞創刊。大分県内最初の本格的新聞。週刊。社長村上田長・編集長増田宋太郎。
 明治10年(1877)  1月、鹿児島へ行き桐野利秋に会う。
   2月14日、西郷軍、鹿児島県を進発する。
   3月20日、田原坂たばるざかの戦たたかいで西郷軍敗れる。
   3月31日深夜、同志数十名と中津隊を組織し旧城内の中津支庁を襲撃した。
   4月5日、西郷軍と合流する。各地で奮戦するも次第に敗色濃厚となる。

西南の役当時大分県の出した増田宋太郎の人相書にんそうがき

魁首かいしゅ 大分県豊前国中津町
        士族 増田宋太郎 25、6歳

一、丈たけ 5尺位 一、髭 多き方            一、眉 濃き方
一、色 白しろき方 一、音声 静かなる方        一、口くち 並体
一、眼 鋭き方   一、顔 少し長き方         一、姿 やさしき方
一、鼻 小高し   一、頭 断髪但し左右を分わかつ 一、痘痕あばたなし

8月17日、西郷隆盛、全軍へ解散命令を発す。
9月1日、西郷軍は、鹿児島に突入し城山に立て籠もった。
宋太郎は、残る中津隊員に故郷に帰ることを勧めた。
隊長は、との問いに「余、城山に入りて初めて西郷先生に接し景慕けいぼの情禁ずべからざるものあり一日先生に接すれば一日の愛あり、十日接すれば十日の愛あり、故ゆえに先生の側を去るに忍びず先生と共に其その生死を同おなじうせんことを誓へり」と語ったといわれる。
9月4日、米倉こめぐらへの夜襲で戦死。
また、米倉の攻撃で捕らえられ9日に斬首ざんしゅされた、とも伝えられている。
9月24日、立て籠る西郷軍は約三百、包囲した政府軍は約五万。
午前4時、政府軍の総攻撃が開始され、午前9時までに西郷軍は壊滅した。
西郷隆盛も、別府晋介べっぷしんすけに介錯かいしゃくを命じ自刃じじんした。

中津市教育委員会
中津の郷土史を語る会

(説明板より)






西南之役 中津隊 百年祭記念碑
  影山正浩書
(大分県中津市・中津城本丸)



(平成23年2月10日)

【歌碑説明】

壮士悲秋歌並反歌
       増田宋太郎

武士もののふと名に負ふ吾も 正心夫ますらをと於もへる吾も
匏形ひさかたの空に向かひて 野干玉ぬばたまの月を悲しみ
白露の身にしむ夜半に 秋風の彳たたずみ居つつ
荒妙の袖しぼるべき時は来にけり

反歌

照る月のゆゝしみ劔太刀とりてぞしぬぶ
秋の夜な夜や

明治十年八月二十二日
日向国三田井ニテ

       楳谷安良うめたにやすら

幾年か於も比こめにし眞心を
くしの国に今盡す南利なり

裏面の碑文に曰いわ

今年3月31日、中津隊決起百年祭を仕へまつりその献詠の中に

雄々しくも健たけき思ひや
やさしくもまた香細かぐはしき
大丈夫ますらをの君が詠み歌
眼交まなかひにつね顕ち給ふ
大丈夫ますらをの君が御面輪

と、追慕景仰の思を籠め参りしが、茲に秋季百年大祭を仕へまつるに当り隊長増田宋太郎、副隊長楳谷安良両先生の国風くにぶりを夫々自筆のまま拡大して石に刻く
挙げてわが中津隊一統の真精神を永く後昆に傳へんと志し之を建つ

昭和52年9月吉日
西南之役中津隊百年記念顕彰会

(説明板より)



西南役中津隊之碑
従三位勲三等伯爵奥平昌恭書
(中津城本丸)


中津隊隊長増田宋太郎 同志58名


(平成23年2月10日)

【碑文】

中津隊隊長増田宋太郎君吾郷傑士也君資性篤厚沈勇文武兼
秀夙慨皇室式微國威不揚■欲以身殉君■恢宏世運與郷之志
士楳谷安良櫻井貫一郎後藤純平等相来往常談時事偶明治十
年西南之役起也蹶然糾合同志八十餘名皆慷慨悲歌之士相謀
編隊君任之首帥以投薩軍薩軍迎之使當攻守之要衝奮戦于弾
丸雨注濶乱・乎中津隊名■於全軍然大勢己決退入城山守節
終焉嗚呼壮哉仝追慕遺風之士胥議乃建碑于扇城景勝之地以
慰一隊英霊亦以傳烈士高義於後昆云爾  銘曰

扇城志士 忠勇絶倫 修文振武 鼓舞士民
舎生取義 殺身成仁 郷俗欽仰 光榮于春

大正十四年三月■澣 従三位勲二等水島銕也撰并書




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