天草四郎像

益田時貞 ますだときさだ   

元和7年(1621年)/元和9年(1623年)(?)〜寛永15年2月28日(1638年4月12日)

長崎県島原市 島原城内でお会いしました。


益田時貞は関ヶ原の合戦の後に帰農していた小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子です。
「天草四郎」という名で有名です。
「でいうすの再誕」と言われ、象徴的な存在として一揆を指導しました。
初めは天草富岡城を攻め、後に島原・天草の一揆勢を統合して原城に籠城しますが、幕府軍の攻撃により3万7000人のキリシタン民衆とともに討死しました。


島原城天守閣に「島原の乱」の資料の展示があります。


【天草四郎時貞】

時貞はもと長崎に出て、支那人の手品師の小僧に入っていたが、「この小僧、後にはどえらいことを仕出かす奴だ」と、さすがの支那人が怖気をふるって、暇を出している。
それで故郷の天草へ帰ると、覚え込んだ支那奇術で、手の上で雀に卵を産ませたり、枯れ木に花を咲かせたりして、大いに農民をまどわすとともに、天主教(ローマ・カトリック教)が根深くしみ渡っているのに目を留め、自分こそキリストの生まれ変わりのようなことを言って、ついにあの天草島原騒動をひき起こした。

(参考:木村 毅 著 『布引丸ーフィリピン独立軍秘話』 1981年9月発行 第1版第1刷 恒文社)

(平成28年12月6日)


【島原の乱】

「島原の乱」は16歳の少年、天草四郎時貞を神の使いと仰ぐ、天草・島原のキリシタン農民・漁民らと、徳川幕府軍が戦った、宗教がらみの戦争である。

寛永14年(1637年)10月末に天草・島原で勃発した一揆の直接の原因は、いずれも領主の苛斂誅求かれんちゅうきゅうと、数年以来の凶作だった。
しかし、この地方には他と違った特殊事情があった。
それは、この地方がキリシタン大名の有馬晴信、小西行長の旧領地で、領民の多くがキリシタンだったことである。

禁教令(慶長17年=1612年)以来、新領主によるキリシタン弾圧は苛酷を極めた。
その恨みと苦しみが奇跡願望を生み、それに応えて天草四郎が現われた。
四郎についてはいくつもの奇跡譚きせきたんが伝えられている。
海の上を歩いて渡ったとか、海に火が見え、十字架が現われたとか、イエスの再来のように受け止められていたらしい。
四郎は、最後の審判の日は近く、信者のみが死んで救われる、という一種のハルマゲドンを説いており、これが奇跡を待望する信者の心をとらえたのだろう。
百年戦争のときのジャンヌ・ダルクと似た現象である。

世俗権力である徳川幕府には、このキリシタン農民・漁民の宗教的高揚は理解できなかった。
原城に立て籠もったキリシタンは男女合わせて3万7千余人といわれる。
もっとも全部が全部キリシタンだったわけではなく、無理やり城に連れてこられた住民も結構したらしい。
実戦部隊は5千人とも7千人ともいわれた。
対する幕府軍は老中・松平伊豆守信綱を総大将とする各藩連合の12万4千人である。

寛永15年元日の攻撃の失敗をみた信綱は、持久戦に徹した。
つまり「干殺し」である。
信綱はしばしば矢文を送って、信者は皆殺しにするが、信者以外は転向者を含めて罪は問わないと、降伏を勧めている。
しかし、死を少しも恐れず、死に救いを見出すキリシタン信者の結束を崩すことはできなかった。
3月27日、兵糧ひょうろう・弾薬の尽きた頃合いとみて、幕府軍は総攻撃を開始した。
キリシタン勢は最後まで抵抗したが、衆寡敵せず、翌日に戦争は終わった。
のちに原城と長崎に晒された首の数は1万8千余、戦闘中に焼死した者は男女合わせて5〜6千人と伝えられる。

(参考:大澤正道 著 『文明の流れを決した世界戦争史の真相と謎』 日本文芸社 平成8年8月第2刷発行)

(令和2年7月4日 追記)




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