松平治郷 まつだいら・はるさと

宝暦元年(1751年)〜文政元年4月24日(1818年5月28日)


宝暦元年(1751)に江戸赤坂邸にて生れる。
明和4年(1767)17歳で襲封。
幼時は虚弱であったが、若年に至ると逆に気質も鋭くなり、勇気盛んで過度の失策もあったという。
近習頭は、この過度の勇気を治めるため、好きであった茶の湯を勧め、また精神修養のため禅道に導いた。
明和7年(1770)20歳のとき、『贅言むだごと』を著し、茶道を論じ天下国家を治める道を説いた。
侘び茶の根本精神から、不足にても事足るという知足の道を、修身斉家は治国の道の資になると説く。
治郷公が襲封した当初は藩財政が窮乏していたが、勤倹につとめ、出雲大川の治水等によって新田を増加し、登米、廻船運輸を盛んにして富める松江藩にした。
また薬用人参、砂鉄等の国産を奨励したり、漆工や陶器などの工芸を振興した。
治郷公は茶道の他、禅学、儒学などにも優れ、和歌・俳句・画賛等にも優れた多くの作品を残している。
治郷公には多くの号があるが、江戸大崎に隠退し『無門関』の不落不昧に因んで不昧ふまいと号したのは有名。
文政元年(1818)4月24日江戸大崎において68歳の生涯を終え、東京芝の天徳寺に葬る。
松江月照寺の墳墓は、遺命により東に松江城を望む眺望絶佳の地に建てられている。


松平治郷公廟門


第7代藩主松平治郷公(不昧公)の廟所・廟門
(島根県松江市・月照寺)

建築様式は向唐門。



(平成16年11月21日

不昧公廟門

この廟門は不昧公ふまいこうのお抱えの名工小林如泥じょでいの作といわれているが、如泥は不昧公より5年早く死んだので異論もある。
しかし、中央の龍の雄渾な姿や柱の上部にみられるみごとな葡萄ぶどう透し彫りなど如泥ならではの感が深く、しかも、ここは東に翠松をへだてて松江城を望む境内随一勝地で不昧公が生前から廟所に定められたということからみても如泥があらかじめ設計しておいたものと思われる。

(説明板より)

松平治郷(不昧)公の墓 松平治郷(不昧)公の墓
(島根県松江市・月照寺)

7代治郷公(大圓庵)

治郷公はるさとこうとは、不昧公ふまいこうのこと。
茶道不昧流の茶祖として有名。
17歳で7代藩主となられ爾来40年間、窮乏した藩の財政を建て直すために治水植林、産業、工芸等の画期的な発展を計って中興の祖といわれた名君。
特に、佐陀川放水路の開さくによって松江の水害を防いだこと、名器の散逸を防ぐために千万金を投じて収集されたこと、数多くの名工を保護育成されたことなどは特筆すべきものである。

(説明板より)



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