松平定信像 平成15年7月5日

松平定信 まつだいら・さだのぶ

宝暦8年12月27日(1759年1月25日)〜文政12年5月13日(1829年6月14日)

福島県白河市 南湖公園でお会いしました。


8代将軍徳川吉宗の孫。父は御三卿の田安宗武。
10代将軍家治の世氏に望まれましたが、田沼意次らにより白河松平家(久松氏)に養子に出されました。
天明3年(1783年)家督を相続して白河藩主となります。
4年後、老中首座に就任。
吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行いました。
しかし、尊号事件や大奥に対する引き締め策が原因で、寛政5年(1793年)に辞職しました。
白河に戻ってから、藩校立教館の充実、「白河風土記」の編纂、一般庶民の教育機関・敷教舎ふぎょうしゃの設置などの文教政策を進めました。
また、南湖の魚介養殖奨励などの殖産興業も行いました。


松平定信公之像 南湖公園の「松平定信公之像」

協賛者
桑名ライオンズクラブ
大田原ライオンズクラブ
白河ライオンズクラブ
南湖共栄会
日本航空株式会社

(平成15年7月5日)

松平越中守定信公略記・碑文

白河藩主 宝暦8年(1758)田安宗武の子として江戸城内にて生れる のち松平定邦の養子となる 天明3年(1783)家督相続 白河11万石の城主となる

折から天明の大飢饉 奥羽諸藩多くの餓死者を出す この時 公は緊急に食糧を輸入 領民に配る ために領内から餓死者を出さず 殖産では 養蚕の普及 植林 製紙 製陶 たたらの設置など自給自足の基盤を確立

文化では 日本最初の公園 南湖の築庭 白河の関の検証 集古十種 花月草紙等多くの著述 郷学校敷教舎 藩校立教館の設置等教育に意を尽くす

藩政は 「政者正也」を理念として行う このため名君として領民の崇敬を受ける

天明7年(1787)幕府老中首座となり 国政に参与 寛政の改革を断行 文化9年(1812)家督を定永にゆずり 楽翁(先憂後楽の意)と号す 文化12年(1829)江戸にて歿し 深川霊巖寺に葬す 享年72

白河小峰ライオンズクラブ創立15周年記念事業
白河ライオンズクラブ
大田原ライオンズクラブ
合同事業
昭和63年9月25日建立


日本最古の「公園」 南湖公園

南湖は名君であり茶人、また優れた作庭家であった白河藩主、松平定信(楽翁公)により、1801年に造園された我が国最古の「公園」です。
「南湖」の名は李白の詩句「南湖秋水夜無煙」から、また白河城「小峰城」の南に位置していたことから名付けられたといわれています。
定信はこの庭園において身分の差を越え庶民が憩える「四民(士農工商)共楽」という思想を掲げ、「共楽亭」と称する茶室を建て、四民と楽しみを共にしました。
その志はいまなお受け継がれております。
そして創設より200年の時に磨かれた公園は、松、吉野桜、嵐山の楓など四季折々に典雅な風趣をたたえ、花と緑の水の園として市民をはじめ多くの人々を魅了し続けております。

(パンフレットより)

翠楽苑 翠楽苑[すいらくえん]

南湖公園日本庭園

楽翁公の庭園思想の精神を引き継ぎ、日本文化の伝承を体現する施設としてつくられた日本庭園です。

開園時間:午前9時〜午後5時(冬期は4時30分まで)
休園日:毎月水曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始

(平成15年7月5日)
松楽亭[しょうらくてい]

呈茶が楽しめる書院造りの施設です。
松楽亭
松楽亭の茶室

ここでお抹茶をいただきました。(有料)
お客は私一人・・・・
庭園を散策している観光客から丸見え。
好奇な目で見られ、恥ずかしいやら緊張するやら・・・

楽翁公像 平成15年7月5日

福島県白河市 南湖公園内「南湖神社」でお会いしました。

楽翁公像 南湖神社前の「楽翁公像」

楽翁公とは松平定信のことです。
南湖神社 南湖神社

南湖神社御祭神 白河楽翁公について

白河楽翁公を祭る南湖神社は、出世大明神・学業成就・商売繁盛・除災開運・交通安全・縁結びの神として古くより信仰されております。

徳川幕府八代将軍吉宗公は、将軍家に世継がないときのために、田安家・一橋家・清水家の御三家を立てられました。
白河楽翁公即ち白河城主松平定信公は、田安家に生まれ、十代将軍家治公には世継がなかったので、十一代将軍になるべき方と見られていました。
しかし、老中田沼意次の策略によって田安家より養子にだされてしまいました。

楽翁公は十七歳の時に白河城主松平定邦公の一人娘峯子姫の婿養子に定められ、十九歳で結婚し、二十六歳で定邦公に替わって白河城主となりました。

おりしも当時は天明の大飢饉で、食うに食なく死者累々たるものでした。
楽翁公は関西地方に使者を出して食べられるものを買えるだけ買いこんで白河に運び、人々にほどこされました。
そのため、白河藩だけは餓死者を一人も出さずに済んだのです。
こうしたことから、楽翁公は世に名君と誉めたたえられました。

十一代将軍には一橋家より家斉公がなりました。
楽翁公は白河藩での善政が認められて、将軍補佐役に抜擢されました。
元々の血筋もあり、三十歳で老中首座・今の内閣総理大臣の職に就き、天下の政治を行いました。
そしてあの有名な「寛政の改革」という、歴史に残る立派な政治を行われたのです。

楽翁公は幼少の頃より神童のほまれが高く、学者として政治家として武術家として、あらゆる方面に非凡な功績を残されました。
著書も百八十二冊と多くあらわされ、いずれも学術的な価値が高いものです。

その為、南湖神社は諸願一切成就の守護神として特に信仰されているのであります。

楽翁公によって造られた南湖は、日本における最初の公園といわれております。
現在は、文部省より史蹟名勝地に指定され、かつ福島県立自然公園でもあり、山紫水明の公園であります。
ちなみに楽翁公は築庭にもすぐれた才能を持ち、金沢の兼六園や岡山の後楽園は公が命名した公園であります。

四季折々に美しい南湖公園に鎮座し、御神威赫赫たる南湖神社に重ねてご参拝ください。

(パンフレットより)


南湖神社宝物館について

この宝物館は南湖神社御鎮座60年記念事業として建設されたものであります。
即ち昭和55年がその年に当たりますので、同年5月3日に南湖神社御鎮座60年記念事業宝物館造営奉賛会が結成され、会長に白河商工会議所会頭須藤久弥氏を推し、以下役員を選任し、直ちに全市にわたり募金活動に入り市内各町の神社崇敬者を始め、県内外の崇敬者の方々より浄財の御寄進を頂き予定通り3年計画で総額2千万円余の経費で昭和58年5月に完成したものであります。
本宝物館の設計には市内鈴木昭建築設計事務所が当り、工事は市内株式会社鈴木建設が担当して竣工したものであります。
本館内には当神社御祭神松平定信公(白河楽翁公)に関する御宝物を収蔵いたしました。
また定信公を日本の名君、東洋の偉人として崇敬され、明治、大正、昭和の三代にわたり各界に活躍され且わが国繁栄の大本を確立された偉人渋沢栄一閣下から奉納された国宝級の絵画等が陳列されてあります。

(拝観券の説明文より)

拝観料:初穂料として、大人350円、小人200円


松風亭蘿月庵


松風亭蘿月庵しょうふうてい・らげつあん

南湖神社内に移築されている茶室です。
社務所に頼めば有料で敷地内の見学が出来るようです。



(平成15年7月5日)

白河市文化財(建物)指定
蘿月庵由緒

蘿月庵は風雅の茶室である。
寛政年間、城主松平定信の臣、三輪権右エ門(号待月)が其の父、長尾仙鼠の為に経営したもので、元白河市九番町松並にあったが、松平氏桑名へ移封の折、中町常盤惟親譲り受け、邸内に移した。
後、一時、西白河郡役所の所有に帰したが、大正13年5月、南湖神社境内に移された。
城主定信は(晩年、楽翁を称す)殊の外、この茶室を愛し度々ここに遊んだが、一日たわむれに、その水盥をとり、中に蘿月の文字を印たるより、この茶室を蘿月庵と称するに至ったものである。
因に様式は道安好二畳台目で、傑作の名が高い。
現在はここで毎月第二日曜に茶会が行われている。

昭和42年
白河市教育委員会

(説明板より)

福島県指定重要文化財
松風亭蘿月庵一棟

附 「蘿月」の書がある水盥 1個
   「垂桜(すいおう)」の書がある掛軸 1個

平成6年3月31日指定

所在地 白河市字菅生館二番地 南湖神社境内
所有者 南湖神社
形状 桁行三間余(5.64メートル)
    梁間一間半余(2.92メートル)
    入母屋造り[いりもやづくり]、茅葺

寛政年間(1795頃)、白河藩士三輪権右衛門が、茶人であった父仙鼠せんそのために府内九番町の別邸内に建立させたと伝えられている茶室です。
藩主松平定信も時折訪れたとも伝えられており、その筆による掛軸の「垂桜」や水盥の「蘿月」などの書も残されております。
文政6年(1823)松平氏の桑名への国替えに際して常盤惟親[ときわ・これちか]に譲渡されて、その屋敷内に移され、明治の初めこの屋敷が西白河郡役所の敷地に転用された後もその一隅に存続しましたが、大正12年(1923)5月に南湖神社に寄贈され、現在地に再度移築されたものです。
二畳台目の使用などいわゆる道安好みを基調としている茶室で、由緒が明確で、原形をよく保っており、東北では数少ない近世茶室の一つです。

福島県教育委員会

(説明板より)


ひと言

説明板の説明には注釈を入れていただけるとありがたいのですが・・・・
わかったようなわからないような文字が並んでいるのですよ。
自分なりに調べてみました。

※水盥=盥は「たらい」のことだから、水を入れる丸くて平たい器と解釈していいのかな?
※二畳台目=(にじょうだいめ)丸畳二畳と台目畳一枚を敷いた茶室のことだそうです。
※道安好み=道安とは千道安という人のことかな?千道安は千利休の長男、この人の好みといういう意味かな?


藤田記念博物館・明治記念館

藤田記念博物館・明治記念館


南湖神社のすぐ側にあります。
しかし、閉鎖されていて廃墟のようになっていました。
もったいないなぁ〜


(平成15年7月5日訪問)

藤田記念博物館
明治記念館


この記念館は財団法人藤田教育振興会が運営し、教育環境事業及び文化の向上などに寄与することを目的にしています。

館内には白河城主で名君と、うたわれた松平定信(楽翁)の遺墨、手焼きの水差しなど楽翁公ゆかりのものを中心として郷土に関係のある考古資料、その他が展示されています。

明治記念館は明治16年建築の西白河郡役所をこの地に一部移転、復元したものです。

財団法人 藤田教育振興会

(説明板より)


南湖だんご

名物・南湖だんご


定信公の公園築造時、工事人夫たちに愛好されて以来200年の歴史を持つ「だんご」だそうです。
小粒な「だんご」でしたが、おいしかったです。


(平成15年7月5日)

【松平定信は名君か?】

寛政の改革を行った老中・松平定信は決して名君ではない。
あえて言うなら「ローカル名君」というべきものものだ。
定信が大名として統治した奥州白河藩では、地元の人は彼を名君として崇めている。
それには理由がある。
日本全体が大飢饉に襲われた時、定信はいち早く米を運び領民を餓死から救ったからだ。
これは確かにケチのつけようのない功績のように見える。
ところが定信は大坂の米市場で自分の藩のために高値で米を買い漁ったが、他の藩の事は一切考えなかったのである。
米が値上がりしようと、そんなことはお構いなしということだ。
もちろんその時は老中ではなかったから、日本全体のことには責任は無いのだが、それにしても視野が狭いことには間違いない。
現代風に言えば、定信は県知事として成功し、その手法を全国に広めようとした政治家なのである。
そしてそれは大失敗に終わった。

老中・松平定信にとって、幕府に貿易という「商売」をさせようとした前老中の田沼意次は極悪人であった。
その極悪人が派遣した蝦夷地探検隊が田沼意次の失脚後、江戸に帰って来た。
当然彼らは役人の義務として報告書をまとめて提出した。
それは幕府にとって貴重な資料のはずである。
しかし定信は、そんなものは必要ないと破棄してしまったのである。
いかにメンバーが気に食わないとはいえ、調査は公的費用で行われた公務である。
それは老中だからといって、ドブに捨てていいものではない。
貴重な公的財産ではないか。
どうしてこんな男が名君といえるだろうか。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)


古関蹟の碑

「古関蹟」の碑
(”白河の関”にあります)

松平定信が寛政12年8月に、ここが”白河の関”であることを確認して建立した碑です。


(平成15年7月5日)

樊獪石と猫石


樊獪石はんかいせき(右側の石)
(東京都目黒区・防衛研究所敷地内)


左の石は「猫石」です。


(平成17年1月20日)

樊獪石はんかいせき(右側)

この石は、白河楽翁松平定信(1758〜1829)が1792年(寛政4年)に築いた浴恩園(春風・秋風二つの池を配し小石川の後楽園と並んで江戸名園の一つに数えられるものであるという)に据えられていた京都鴨川産の銘石である。
同地は、維新後海軍用地となり、この石も庭園に趣を添えていたものであろうが、昭和5年9月海軍技術研究所が目黒に移転の際、猫石と共に移されたものである。
尚、樊獪とは、中国漢は高祖劉邦の功臣の名であり、定信が寛政の改革業半ばにして、1793年(寛政5年)7月老中及び将軍補佐役を辞し、更に1812年(文政9年)封地を嫡子に譲り、専ら浴恩園に隠栖して風雅な生活を楽しんだと言われるが、その心事の一端を表したものであろうか。

※浴恩園
陸奥白河藩主松平定信(越中守)の作庭した庭園で、名園として知られていた。
明治になって荒廃し、現在は東京都中央卸売市場になっており、築山の一部がわずかに残っている。

猫石ねこいし(左側)

この石は、芝赤羽町の元有馬家(久留米藩主)上屋敷の猫塚に据えられていたものと言われる。
同地は、維新後の明治4年に工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、次いで明治16年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となったが、明治35年の海軍造兵廠時代に、猫塚から表門内正面へこの石が移された。
明治43年海軍造兵廠が築地の海軍用地へ移転の際、この猫石も移された。
(海軍造兵廠は、大正12年海軍艦型試験所及び海軍航空機試験所と合併し、海軍技術研究所となった)
海軍技術研究所は関東大震災によって大損害を受けたので、築地の用地を東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、昭和5年9月にこの目黒の地に移転したが、その際猫石も移されたものである。
猫石の由来は、世上有馬の怪猫退治等として流布(黙阿彌作「有松染相撲浴衣」、永井荷風作「日和下駄」、菊池寛作「有馬の猫騒動」等)された猫の塚ということであろうか。
この有馬の猫塚の跡と言われるものが、現在、区立赤羽小学校の一隅にある。

(説明板より)

防衛研究所



防衛庁防衛研究所

(東京都目黒区中目黒2−2−1)




(平成17年1月20日)

浴恩園跡


浴恩園跡
(東京都中央区築地5−2−1)

中央卸売市場正門脇の塀に「説明銘板」がはめ込めてあります。




(平成18年2月22日)

都旧跡 浴恩園跡

所在 中央区築地5丁目2番1号 東京都中央卸売市場内
指定 大正15年4月26日

江戸時代中期の陸奥白河藩主松平定信は老中の職にあって寛政の改革で幕政の建て直しを行ったが、老後には将軍よりこの地を与えられた。
当時この地は江戸湾に臨み風光明媚で林泉の美に富み、浴恩園と名付けて好んだという。
明治維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院などを設置して著しく園池の風景を変えた。
さらに、大正12年12月、日本橋にあった魚市場(俗に魚河岸)がこの地に移転して来るに及んで、かつての浴恩園の面影はまったく消滅し、現在は東京都中央卸売市場が設置されている。

平成6年3月31日 建設
東京都教育委員会

(銘板の銘文より)


将軍の芽を摘まれる

10代将軍家治いえはるには、長男家基と次男貞次郎の2人の息子がいた。
貞次郎は2歳で没したが、家基は順調に成長し、将軍家は安泰であると思われていたが、安永8年(1779年)2月21日、鷹狩に出かけた家基は体調を崩し、3日後に急死してしまった。
このため、急遽、次期将軍を誰にするかの協議が行なわれ、8代将軍吉宗の子に始まる田安家と一橋家、9代将軍家重の子に始まる清水家を総称した「御三卿」から選ぶという案が浮上した。
この中では田安家が一番格が高い。
しかし、当時、田安家には当主が不在だった。
先代の当主、治察はるあきは安永3年9月に子をなさないまま死去。
治察には2人の弟、定国さだくにと定信がいたが、定国は伊予松山藩松平家へ、定信は白河藩松平家へ養子に出たため、田安家の跡継ぎがいなかった。
定国と定信のどちらかが田安家を継ぐこともできたはずだが、結局、一橋家当主の治済はるさだと田沼意次おきつぐの画策によって、田安家は明屋形あきやかた、つまり家自体はあるが当主不在という扱いにされた。
治済らは、田安家の力を弱め、一橋家の発言力を増やそうと考えたのだ。
結果的に、この狙いが当たることになる。
天明元年(1781年)、家治は一橋治済の長男の豊千代を養子に迎えた。
豊千代は天明7年に11代将軍・家斉となる。

白河藩に据え置かれた松平定信は、一橋治済や田沼らによって田安家継承を阻まれたことを、後々まで遺恨に思っていたようである。
田安家に戻っていれば、定信にも将軍就任の芽があったからだ。
幼少から英才として名高く、後には寛政の改革も推進した定信は、無念の思いを抱き続けていた。
家斉は53人もの子供を作るほどの女好きと度を越した贅沢に走った。
家斉の好色は、江戸の庶民の間でも話題の種だったので、将軍職が家斉に転がり込んだことは、将軍家にとっても不幸だと噂された。
家斉と定信では、政治家としても人間的にも、その質に格段の開きがあったからだ。

(参考:山本博文著 『旗本たちの昇進競争』 角川ソフィア文庫 平成20年再版)

(平成22年1月12日・記)


【松平定信 VS. 田沼意次】

江戸時代の三大改革は享保の改革、寛政の改革、天保の改革である。
一方それとは別に、享保の改革と寛政の改革の間に、田沼政治という項目があるはずだ。
老中・田沼意次おきつぐの政治だが、なぜこの田沼政治だけ「改革」という言葉を使っていないのか。
それは江戸時代の人間が、彼の政治を評価しなかったからである。
しかしそれは江戸時代の評価で、今日の視点で見れば評価はまるで違ってくる。

朱子学という「毒」に冒された政治を担当する武士たちは、農民が生産する米を神聖なものとし、商人が扱う金銭を不潔なものとして考えるようになった。
だからこの三大改革でも米の増産しか基本的に考えなかった。
今日の視点で幕府財政を見れば一目瞭然なのだが、本来、幕府がやるべきことは米の増産ではなく、商工業を盛んにし社会の景気を良くして、そこから税金を取ることであった。
今でいう税制改革である。
米を基準通貨のように扱いながら、その評価は市場任せで増産一辺倒の体制をとれば、米の値段は下落し続け、結果的に税収も武士の俸給も目減りしてしまう。
だが、朱子学の毒に冒されている彼らにはそれがわからない。

そうした体制に敢然と異を唱えたのが老中・田沼意次である。
田沼は商工業を盛んにして、そこから税金を取ることを考えた。
オランダ側の記録によれば、海外貿易の拡大も考えていたらしい。
ところがエリート層の武士から見れば、それは幕府が「商売」という悪事に手を染めることで、絶対に許せなかった。
結果的に「田沼の改革」をすべて潰し、権力の座についた老中・松平定信は、田沼全盛時代に「あいつを刺し殺してやりたい」と日記に書き残しているほどだ。

その定信が始めたのが寛政の改革である。
定信は「寛政異学の禁」という政策を実行した。
これは儒教でも朱子学だけを中心に学べという思想統制である。
つまり定信はコチコチの朱子学徒だったのである。
その朱子学の毒に骨の髄まで冒された定信から見れば、田沼のやっていることは幕府が人間のクズのマネをすることであったから、「殺してやりたい」ということになったのである。
ちなみに、老中・田沼意次を「賄賂の帝王」と思っているかもしれないが、それも田沼が失脚した後、松平定信時代にでっち上げられたことなのである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)


老中首座に就任

天明6年(1786年)8月25日、10代将軍家治が急死した。
家治は水腫すいしゅ療養中だったが、老中田沼意次の推薦による町医者が調合した薬を服用したところ、頓死とんししてしまったのだ。
家治の急死で、意次は窮地に立たされた。
意次が老中として権力を維持できたのは、ひとえに将軍家治の厚い信任があったからだ。
意次は、失脚に追い込まれる危険性を察知したのだろう。
家治の死の翌日、自ら老中職の辞任を願い出た。
だが、反意次派の人々は意次の辞職を認めず罷免としたうえ、意次の領地5万7千石のうち4万7千石と屋敷を没収、別荘に蟄居謹慎させるという厳罰を科した。
こうして田沼政権は崩壊したのである。

11代将軍は、一橋治済はるさだの子で家治の養子になっていた家斉いえなりだった。
家斉は当時14歳と若年であるため、後見役、つまり幕政を取り仕切る老中首座が必要だった。
御三家は、田安たやす宗武の次男で松山藩主の松平定国に白羽の矢を立てたが、定国は「多病と非才」を理由に固辞した。
定国が辞退したのは、実は自身に負い目があったからだった。
田安家出身の彼は、“葵あおいの御紋”の利用を許されたいがために、敵であるはずの意次に多額の賄賂を積んだ。
おまけに、これが許されると自邸の屋根の軒瓦のきがわらにまで御紋をつけ、世間の猛烈な批判を浴びたのである。
定国は、自分の代わりに実弟の白河藩主・松平定信を推薦した。
定信は、兄の定国とは異なり清廉潔白な人物として知られ、反意次派の一人でもあった。
白河藩で善政をしいた実績を持つ定信は、賄賂政治で腐敗しきった幕政の改革者としては適任だった。
こうして天明7年6月、定信が老中首座に就任したのである。

(参考:山本博文著 『旗本たちの昇進競争』 角川ソフィア文庫 平成20年再版)

(平成22年1月15日・記)


【林子平を処罰】

日本は全体を海に囲まれた島国つまり海国であり、海からの攻撃には極めて弱いということに気が付いた林子平は、そのことを日本人全体に警告するため『海国兵談』を書いた。
内容は多岐にわたるが、要点を言えば外国勢力(当時はロシア)が盛んに海上に進出している今、日本も対抗して海軍を整備し沿岸砲台を整えないと、このままでは外国軍艦が直接江戸を攻撃するような事態も起こるかもしれない、ということだ。
ただ出版社はなかなか見つからなかった。
内容が国防問題であったために、出版社は二の足を踏んだのだ。
しかし、子平は諦めず、日本の安全に関わる極めて重要な情報だから自費出版した。

だが、老中・松平定信は、出版された『海国兵談』を没収して焼却した。
つまり焚書ふんしょしたのである。
そればかりか版木も取り上げて燃やしてしまった。
そのうえ子平は身柄を拘束され仙台藩の兄のもとに送られ、事実上の禁固刑を受け、2年後に兄の屋敷に設けられた座敷牢の中で死んだ。

松平定信が林子平を処罰した理由は『海国兵談』の内容が誤りだと思ったからではない。
地方の藩医の弟という分際で、こともあろうに天下の御政道を批判したこと、それ自体が許せぬという理由なのである。

朱子学では士農工商以外の身分、たとえば医者や重要ではない分野の職人を「巫医百工ふいひゃくこう」などと呼んで侮蔑する。
子平はその医者ですらない。
朱子学の影響で日本人は、人間を身分だけで判断するという悪癖に染まってしまったのである。
特に定信のようなガチガチの朱子学徒はまず、「こいつの身分は?」という目で人間を見る。
そして身分が低いと判断すれば、どんな優れた意見であっても決して受け付けない。
正確に言えば「身分の低い人間が優れた意見など言うはずがないと決めつけてしまう」ということなのである。
これが朱子学の生み出す最大の偏見の一つだ。
東大卒だから当たり前のように他の大学卒より優れていると考えるのも、実は朱子学のもたらした偏見が今も尾を引いているからなのである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)


寛政の改革が失敗した理由

寛政の改革を進めた松平定信は、風俗統制を推し進め、芸者などまで厳しく取り締まった。
その背後にある思想は、定信が老年になって著した『修行録』という書物に書かれた「色欲のこと人生凡情やむことなきといふは、皆欲にして、真の情にはなきもの也」という言葉に集約されている。
人間には「凡情(性欲)」がつきものであるというのは、すべて欲から生じたもので、人間の真の情ではない、というのである。
そのため、定信にとっては、房事(セックス)も義務であった。
定信は、自伝『宇下人言うげのひとごと』に次のように書く。
〜房事なども子孫を増やさんとおもへばこそ行ふ。かならずその情欲にたへがたきなどの事はおぼえ侍らず。〜
定信の書いたものをみると、何不自由なく育った者の傲慢さを感じる。
房事に関しても、ひとりよがりの理屈をつけているだけのような気がする。

定信が初めて女性を体験したのは、19歳で結婚した時だった。
これは生まれ育った御三卿の田安家の家風が厳格だったためである。
最初の妻が死に、二度目の妻を娶めとる前のことである。
「十六計ばかりにて容儀いとよき(16歳ばかりの美少女)」を側に召し使っていた。
定信は、幼い頃から側にいたこの少女に心ひかれ、手をつけた。
しかし、この少女の心根がよくないという先入観を持っていた定信は、少女の嫁ぎ先を決めるよう命じて白河に帰った。
翌年出府してきた定信は、江戸に着いた日、この少女は嫁ぎ先が決まらないまま親元へ下げるということを聞いた。
定信は「このところもひとつの修行なるべしと思ひて」屋敷に泊まらせることにし、その夜は自分の寝所に入れ、「さまざま行く先のこと、かたづくについての心得」などを教え諭したという。
自分勝手な都合で側女そばめとしながら、長く面倒を見るつもりもない。
それにもかかわらず、最後に修行と思って一つ床に寝て、何もしないで嫁入りの心構えを話したのが定信の自慢なのである。
彼としては、性欲に負けなかったということが誇らしいのだろうが、これで人の心がわかっていると言えるだろうか。
このような冷たい人物が行なった寛政の改革が、庶民の怨嗟えんさの声で中断せざるを得なかったのも当然と言えよう。

(参考:山本博文著 『旗本たちの昇進競争』 角川ソフィア文庫 平成20年再版)

(平成22年1月12日・記)


【海防】

早くから海防に注意していた老中首座・松平定信は、ラクスマン(アダム・ラクスマン、ロシア陸軍中尉・北部沿海州ギジガ守備隊長・26歳)の渡来(寛政4年・1792年10月)によって、ますますその必要を感じ、しきりに海防に関する訓令を出した。
ことに江戸湾と房総海岸の防備には心を痛め、自らワラジがけで、巡視に出かけていった。
彼は、蝦夷地の防備についても、様々な計画をたてたが、まもなく老中の職を退いたので、これらの計画は実現せずに終わった。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月9日 追記)


【蘭学が窒息す】

老中・田沼意次は、蘭学を好み、多くの蘭学者とも交際し、海外事情にも通じていた。
平賀源内が寒暖計やエレキテルを作り、『解体新書』が出版されたのも意次の治世下である。
こうしたことから、蘭学関係の翻訳書が続々と出版され、自由な雰囲気のため、文化方面でも百花斉放の状態となった。
しかし、将軍家治の急死にあたって、側室お知保は意次が毒を盛ったと騒ぎ立て、この騒ぎに便乗して、御三家と組んだ松平定信は、意次を追い落として失脚させた。

定信は、天明8年(1788年)、11代将軍家斉の補佐役となり、寛政元年には寛政の改革に着手。
翌年には朱子学を正学として異学を禁止したため蘭学者は窒息状態を迎えることとなった。
寛政4年(1792年)、林子平は『海国兵談』の筆禍により処罰され、いよいよ蘭学もたちゆかなくなったかに見えたが、寛政5年(1793年)、定信が老中を罷免されるに至り、ようやく蘭学者が表に出られる時代がやってきた。

(参考:川嶌眞人著『中津藩蘭学の光芒〜豊前中津医学史散歩〜』 西日本臨床医学研究所発行 平成13年 第1刷)

(平成29年1月26日・追記)


【朱子学の毒】

田沼意次を失脚させ老中となった松平定信は、子供の頃から叩き込まれた朱子学によって「商業あるいは貿易などというものは悪である」という信念を持っている。
松平定信はバリバリの朱子学徒である。
それは、いわゆる「寛政の改革」において定信が「寛政異学の禁」を実施したことでもわかる。
異学とは「儒教以外の学問を禁ずる」という意味ではない。
「儒学の中で朱子学以外の流派(たとえば陽明学)を禁ずる」という意味である。
逆に言えば儒学以外は学派ではないということでもある。

定信の祖父である8代将軍・徳川吉宗はまだマシだった。
キリスト教以外のことを扱っている洋書(オランダ語の本)についてなら研究を許したからだ。
蘭学を認めたのである。
ところがその孫の定信は朱子学の毒に骨の髄まで染まっていた。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)


松平定信の墓



松平定信の墓

(東京都江東区白河1−3−31・霊巌寺)





(平成18年2月22日)
松平定信の墓所




松平定信の墓所






(平成18年2月22日)

史跡 松平定信墓

所在 江東区白河1丁目3番32号
指定 昭和3年1月18日

松平定信(1758〜1829)は8代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白河藩主となり、白河楽翁を号していた。
天明7年(1787)6月に老中となり寛政の改革を断行、寛政5年(1793)老中を辞している。
定信は老中になると直ちに札差ふださし統制(旗本・御家人などの借金救済)・七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行い、幕府体制の立て直しを計った。
また朱子学者でもあり『花月草紙』『宇下の人言』『国本論』『修身録』などの著書もある。

昭和51年3月31日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)

霊巖寺



霊巖寺

(東京都江東区白河1−3−31)





(平成18年2月22日)

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